苦痛にて
失態は、続くものである。
証人は、私だ。
「簡単に言うとね。えっと、貴方の推察の通り、体調が悪化して、その、入院してた」
「はい?」
雄一郎さんは素っ頓狂な声を上げて、目を見開いていた。
その反応に今度は私が驚いて、思わず心に渦巻いていた疑問を雄一郎さんにぶつけた。
「え?知らなかったの?だって、あんな素晴らしい笑顔で聞いてきたものだから」
「知りませんよ。そんな事」
墓穴を、掘った。埋まりたい。
「うそ、でしょ」
「うそ、ではありませんよ」
「なら、私は自分で自分の首を」
絞めた、とそういう事になるのか。
「残念ながら、そのようですね」
嘘だと言ってくれ。今すぐに。
「そんな、怒られると思って、必死にお腹痛くなりながら、散々予防策を張ってたのに」
「ああ、なるほど。貴方の勘違いでしたか」
雄一郎さんは一瞬、惚けたような表情をしていたが、直ぐに納得したように頷いた。
「僕は、何も知りませんよ。なので、貴方が先程言った、入院について、詳しく聞かせてくださいね」
背後に、般若が見えた気がした。
「あ、うん。解った。いや、解りました。白状します。でも、入院したのは少しの間だけだよ」
「そうですか。良くありませんが、良かったです。それで、貴方の身に何があったのですか?」
雄一郎さんはそう言って、私の言葉を待つように、静かに黙り込んでしまった。
般若を背負った雄一郎さんを見た事はなかったが、そんな恐ろしい状態の友人にも言えない秘密が、私にはある。
入院した切っ掛けだ。
これは、好奇心と恐怖掻き乱された「あの夢」が一因として関係しているのだ。
あの夢で見たくろいなにかが、常に私の脳裏を横切り、恐怖心を植え付けてくるのである。
だから、雄一郎さんには、決して言えない。
恥ずかしい事だが、視界に一瞬でもくろいものが写ると、足が竦み、歯が震えてしまうのだ。
それが烏であっても、目の錯覚であっても、同じ事なのである。
それに、雄一郎さんはあの夢を良く思っていない。ここで変な軋轢を生みたくなかった。
それに、私のつまらない心境など告げる意味もないだろう。このような感傷など、思考の隅に捨てた方が良い。
しかし、あの一件のおかげで、私はくろが苦手になってしまった事は事実だ。
くろがこわい。
暗闇がこわい。
こわい、怖い、恐い、畏い。
私の思考は、常にくろに奪われ続けた。特に、夜は辛い。
辺り一面が闇に包まれ、くろが追いかけてくるような気がするのだ。
あまりの恐怖から、八時間とっていた睡眠が三時間になり、寝不足になった。
心的外傷だ。私の精神は酷く蝕まれてしまったのだ。
そして、それが肉体にも影響を及ぼしたのだろう。私の体調は、あの二週間とは比べ物にならない程に悪化してしまったのだ。
「えっと、どこから説明しようかな。最初は一種の睡眠障害のような状態だったんだよ」
「睡眠障害、ですか?」
「ああ。くろが恐くなってしまってね」
「くろ、ですか?」
「正確には、くろいものだね。だから、夜とかに瞼を閉じるのが恐くなってしまって、眠れなくなってしまったんだ」
自分でも、このような自白をしたくはなかったが、これ以上事実を隠す事も出来ないと理解していた。
なぜなら、雄一郎さんの目が、獲物を見つけた狩人のように冴えているからである。
「おやおや」
そして恐ろしい事に、彼の口調は、罪人を許す神父のように穏やかなのである。
これは、全てを暴露して楽になろう。そう、思った。
「それでね。日を置く毎に恐怖が増してくるから、とても困ってしまって」
「それは、そうでしょう。ですが、暗闇が恐いとは。なにか心当たりはあるのですか?」
「ある。けど、言いたくは、ないかな」
本心だ。あの一件が原因の一つだ、と言う気力など私は持ち合わせていない。
まず、そのような気力があったのなら、このような卑屈で気難しい性格をしていない。
「そうですか、解りました。ですが、眠りたい時に、眠れない事は立派な精神的苦痛ですからね。それで、入院を?」
「いいや、入院した理由は別だよ。けど、精神的苦痛は原因の一つだね。後から病院の先生にも言われたよ」
「そうですか」
「そうだよ。それでね、この時の私は、まだ入院せずに家にいたんだ。でも、あの時の選択は、我ながら愚かだったね」
今、思い返してみても自己嫌悪に浸れるくらいには、愚かだった。
「愚か、ですか?」
雄一郎さんの、疑問が私の耳を打つ。
「そうさ。恐い物は恐いから眠りたくないって、変に無駄な意地をはって無理矢理にでも起きてやろうと、何日も徹夜をしたんだ」
結果、私の体は高熱に魘され、食欲は落ち、寝たきりの生活を送り、大学にも行けなくなった。
私は最初、あの二週間の事があり、季節外れの風邪が悪化しただけだと思って、安静にしていれば大丈夫だ、と薬も飲まず、寝て過ごしていた。
しかし、それが、駄目だったのだ。
そのような生活を送っていると、次第に食欲がなくなるのだ。
ずっと食べていた蒟蒻飲料すらも食べられなくなった時は驚いた。
そして、ある事実に気がついた。
「本当に、突然の事だったよ。飲まず食わずに活動するのが、健康に悪い事だと身に染みて解ったね」
「おやおや」
「でも、あの時は本当に驚いたよ。体を起き上がらせる事が、出来なかったからね」
「そのような、他人事のような口調で言わないでください。貴方の体なのですよ」
雄一郎さんは、咎めるような口調で言った。反論出来ない、見事な正論だ。
けれど、あの時の私は、まるで映画を見ているような感覚だったのだ。
疲れていたのだろう。
そうでなければ
「ああ、私は今あの夢の再現を実体験しているのだ」
と判断しながら、放置しない。
少なからず、諦めも入っていたのだろう。
ただでさえ、くろいなにかに追われて、精神的に憔悴しきっていたのだ。
現実逃避の一つや二つしたくなる。
それに起き上がれなくなるのは、今回で二度目だった。今回は見える景色が違うだけ。
些事だ。
このような状態が、少なくとも三日は続いた。
「貴方の言葉を否定したくないけれど、あの時の私はとても疲れていたから。なにも、考えたくなかったんだよ」
「それが、命に関わる事であっても、ですか」
「そうだね。あの時の私は、少なからずそうだったよ」
「そう、ですか。解りたくはありませんが、理解はしました」
「なら、良かった」
「ですが、聞きましょう。なぜです?なぜ、僕を呼ばなかったのです。少なくとも、僕に連絡の一つでも入れてくれれば、そのような事には」
糾弾とは、違う。
怒りとは、違う。
雄一郎さんの声の色は、純粋に心配を示していた。
だから、苦しい。
これから私は、貴方を傷つける言葉を、吐かなければならないのである。
だが、これは変わる事のない私の意志。だから、出来る限りの笑顔で応えた。
「貴方の、迷惑になりたくなかったから」
雄一郎さんは、その言葉を聞いて、唇を噛みながら、苦し気な表情で、口を閉ざした。
事実。
私は雄一郎さんに様々な迷惑をかけてきた。
これ以上、迷惑はかけたくなかった。
だから、両親や雄一郎さんに助けを乞う事は出来なかった。
すると、私の心境を知らない雄一郎さんは、怒りを顕わにしながら、言った。
「次、そのような事があったら、僕を呼んでください」
「え?」
「貴方の言う迷惑など、可愛いものです。ですから、必ず、僕を呼んでください。いいですね」
静かに震える、懇願の声だった。
沸々と湧き出る、憤怒の声だった。
「わ、解った。約束するよ。両親にも散々怒られた後だからね。後悔も、反省もしているから」
「おや。それは良い事です。僕が言うより、何倍も良い」
先程の怒りは表面上では、なりを潜めていたが、目の奥で渦巻いているのが解った。
けれど、その事実を指摘するのは藪をつついて蛇を出すだけだろう。私はその視線に気付かないようにしながら、話を続けた。
「それは、そうだね。今回私が助かったのも、両親が私を病院まで連れて行ってくれたからだし」
二人共、焦った事だろう。
一週間という長い出張から疲労混倍で帰ってきたら、倒れている私を発見したのだ。
私が起きた時には、病院に担ぎ込まれ、点滴をしていた後だったので、詳細は解らなかったが迷惑をかけた事に変わりないだろう。
「本当に、両親には感謝の言葉しか出てこないよ」
「貴方のご両親は、素晴らしい人格者なのですね」
「そうだね。貴方の言う通り、私には過ぎた人達だよ。話を戻そうか。入院した後、倒れた原因が解ったんだ。栄養失調だった」
「それは」
「それでね、病院で体力を元に戻そうって話になったんだ」
わざと、雄一郎さんの言葉を遮るように言った。
雄一郎さんは片眉を上げたが、何も言ってこなかった。
「それは、療養生活という物ですかね」
「そう、なるのかな」
結局、体力が回復し、自由に歩けるようになったと思った時には、月が三回も周っていた。
これが、私の入院騒動である。




