眠りにて
夢を、見た。
光の届かない地の底に、独りで佇んでいた、恐ろしい夢だった筈だ。
空を、見た。
全ての生命の源の、海のような、和やかな空だった。
私が目を覚ました時。
雄一郎さんの顔が、目の前にあった。
空の色は、いつもと変わらない、青空だった。
どうやら、今までの光景は、夢であったらしい。
ああ。
ようやく、実感が持てた。
ここは、現実なのだ。
私は、生まれて初めて、こんな恐ろしい夢を見たから、確信が持てなかったのである。
それに、鮮明に思い出せる夢ほど、恐ろしい物はないだろう。
今でも、身体が震えているような錯覚が起きているのだ。
いや、錯覚ではなかった。
実際に、震えている。
今までの夢の出来事の、恐怖。
夢から逃れられた事に対する、安堵。
それらの感情が入り混じった心で、私は、見知った公園の長椅子から起き上がった。
起き上がれた。
足が。手が。腕が。胴体が。
私の五体が、動くのである。
たったそれだけの事実が、これほど嬉しくなる日が来るとは、思わなかった。
すると、そんな私の顔を見ていた雄一郎さんは、私の奇行に心配して目尻をさげながら忙しない顔で、私に水を渡し、こう言った。
「体調は、どうですか?何か買ってきましょうか?」
とても、親切である。
私の奇行に、何も言わないずに水を与えてくれたのだ。
だから、私は雄一郎さんの善意に感謝の意を示すべく
「大丈夫だよ、少し、夢を見ていただけだから」
と、笑いながら言ったのだ。
ああ。
雄一郎さんの優しさが、私の不安を攫っていく。
私は、本当に、良い友人を持った。
その後、私は落ち着いた時を見計らって、どんな夢を見ていたのか、夢の中でどんな事が起こったのかを、雄一郎さんに話した。
話を聞いている時の雄一郎さんの表情は、なにやら困惑していたようだったが、話しを進めた。
だが、
雄一郎さんの表情が変化した理由は、私には解らなかった。
特に着物の男について話した時の驚きようは、中々見れるものではなかった。
いつも微笑を浮かべている雄一郎さんが、目を見開きながら驚いた表情を見せたからである。
だが、その詳細を聞く気にはなれなかった。
夢から目覚めたばかりで、頭が働いていなかったからではない。
嫌な予感がしたのだ。
そう。
友人という関係が瓦解する予感だ。
そのため、私は己の好奇心に蓋をして、話を続けたのだ。
そして、失態を犯した。
安心しきった私は、この二週間の、あれやこれを、包み隠さず、雄一郎さんに話してしまったのだ。
とても、後悔した。
人目のある公園で二時間、雄一郎さんに言葉を刃で切りつけられたからである。
解りやすいように言葉を変えると、説教だ。
そう。
大学生にもなって、私は雄一郎さんに怒られたのである。
今まで浮かべていた心配そうな顔などは、見る影もなかった。
そこにあったのは、満面の笑みで学生の論文を酷評し自信を喪失させるような、教授の顔つきだけだったのだ。
可笑しい。
雄一郎さんは教授ではない筈なのに、その姿が、様になっていたのである。
しかも、私が反論しようとすると、その瞬間に言葉を重ねて、会話の主導権を奪われるのだ。
「ええと、違うんだよ、確かに睡眠時間は少なかったけど、それは」
「何が違うというのです、睡眠不足だった事は事実でしょう」
「事実なんだけど、えっと」
「事実なのであれば、違わないでしょう」
「いや、えっと」
こんな感じだ。
これは、会話とは呼べないだろう。
一方的な言葉による蹂躙だ。
そして、私はこの瞬間、心に決めた。
「自分の体調は大切にする」
怒り心頭の雄一郎さん程、恐ろしい物はないのである。
そして、私は自ら死地に赴こうとする程、狂れてはいないのだ。
改めて、好奇心は猫を殺すという言葉が、人にも適応するのだと、実感した瞬間であった。
例えとしては、随分と的外れではあるが、猫は木天蓼に溺れ、人は知識に溺れるという事なのだろう。
まあ。
どちらもしても、酷い事には変わりない。
「死は、いつでも川の向こうで、僕たちを手招いているのですよ」
とは、いつかの雄一郎さんの談だったが。
なるほど。
確かに、いつでも手を引かれている。
私は、死という恐ろしい存在が、常に隣にいるから、それが自然な事だから、気付かなったのだ。
だが、実感した。
日常の隣人は、影ではなく、死であったのだ、と。
そして私は、この事実を認識したから、何も言えなくなってしまった。
雄一郎さんを、悲しませてしまった罪悪感。
自身の、知的好奇心に対する恐怖。
それを私は、改めて実感したからである。
そして、雄一郎さんと一緒に約束をした。
その内容は、子供が親に言われるような内容だったが、私にはそれが何よりも大事に思えた。
睡眠時間は大事にする。
食事は必ず三食とる。
無理のない範囲で運動をする。
「約束するよ」
私は、雄一郎さんの目を見て言った。
「ぜったい、ですよ」
雄一郎さんが、私を見た。
そう言いたいのも、解る。
なにせ雄一郎さんは、私の、この知的好奇心という悪癖を良く知っているのだ。
だからこそ、ここまで本気で心配してくれているのだ。
そうでなければ、こんなに心配してはくれないだろう。
しかし、この悪癖は消えそうで、まったく消えてくれない事も、事実だ。
なにせ、この悪癖を消そうとすると、私が私ではなくなるような気がするからである。
この結果が、この歪んだ私だ。
そして今まで、私は同じような事を雄一郎さんに説教された事があるのだ。
そう。
片手では足りない程には、されているのである。
だが、過去の私は雄一郎さんの言葉に対して、聞く耳を持っていなかったのだ。
そう。
過去の私は、言葉巧みに雄一郎さんの説教を躱そうと躍起になって、雄一郎さんの言葉を聞いていなかったのである。
だが、現在は違う。
この悪癖を消すのではなく、改善しようとしているのだ。
そう。
あんな恐怖を感じた後だからこそ、こんなにも素直になれるのである。
知識と体験では、雲泥の差がある。
知っていたが、体験した事がなかったから、過去の私は逃げたのだ。
しかし、現在の私は、体感してしまった。
自重しよう。
前にも同じような事を心に思った気がするが、もう一度、心に刻み込んだ方が身のためだ。
自重しよう。
流石に今回は、怖すぎた。
しかし。
そうなると、これからは、忙しくなる。
なにせ、今まで疎かになっていた生活習慣を見直さなくてはいけないのだ。
忙しくない訳がないだろう。
残念だが、雄一郎さんの話は、それからだ。
一章 完
多くの読者の方の目が、この作品に向いているという事実に感謝を。
それでは、次回作をご期待ください




