くろにて
夢を、見た。光の届かない地の底に佇んでいるような、恐ろしい夢だった。
眼を、見た。全てを焼き尽くす炎のような、恐ろしい眼だった。
私の意識が起きた時。
私は、今までの記憶がない事に、気が付いた。
正確には、駅で雄一郎さんに出会った時から、起床するまでの記憶がなかったのである。
それ以外の記憶は、あった。
雄一郎さんに出会った時の事や、私が人間不信に陥っていた事、忘れておきたかった恥ずかしい事も、忘れられずに覚えている。
では、なぜ。
ここに来るまでの記憶がないのだろうか。
これは、本当に夢なのだろうか。
夢ならば、なぜ、ここまで正常に意識を保てるのだろうか。
これは、現実なのだろうか。
そこまで考えて私は、雄一郎さんがこの場所にいない事に、気が付いた。
その瞬間だ。
私は、疑問の渦と孤独感の波に思考が止まりかけたのである。
ああ。
雄一郎さんは、一体どこに行ってしまったのだろう。
まさか、自己管理もできない私に愛想を尽かして、そのまま家に帰ってしまったのだろうか。
あり得ない話ではない。
それだけの失態は、既にしている。
そして私は、さながら
「実家に帰ります、探さないでください」
という書置きを見つけて、途端に焦りだす意地汚い大人のような心地で、辺りを見回した。
「夫婦関係の亀裂は、浅いと思っていても、深いんだよ。周りが思っているよりも、ずっと深いんだ。世界最深海溝みたいにね」
そう言った知り合いの哀愁漂う表情を、思い出した。
このままでは、拙い。
何がとは言わないが、まずい。
とにかく、探さなくては。
そして、気が付いた。
私の身体が、微塵も動かなかったのである。
そう。
疲労感は綺麗さっぱり無くなっていたのに、身体だけが動かなかったのだ。
その感覚は、四肢が鎖で拘束されている囚人のようだった。
なぜだ。
なぜ、身体が動かない?
私は、半ば混乱しながら、思考した。
そして、なぜ身体が動かないのか解らず、もう一度身体を動かそうとしたのである。
その瞬間だった。
私の身体に、針で刺されたような痛みが走ったのだ。
あまりの痛みに、危うく、意識が飛びそうになった程である。
そう。
今まで夢を見ていた時には、痛みを感じた事などなかったというのに、なぜか、この時の私の身体は、痛みを感じたのだ。
頭が。手が。腕が。足が。
痛いのである。
そして、私は痛みを感じている中で、ある疑問が湧いた。
それは
「なぜ、夢の中で痛みを感じるのだろうか」
という疑問である。
そして、思った。
やはり、ここは、現実なのだろうか。
しかし、この場所は、夢だろう。
なぜなら、視えている景色が、夕暮れだからである。
昼の景色が、一瞬で夕方になるのは、間違いなく、可笑しいだろう。
そして極めつけに、無音なのだ。
夕暮れ時に、無音はあり得ないだろう。
虫の音や生活音、会社に対する愚痴の一つは、する筈だからである。
一体、どうなっているのだろう。
夢と現実が混じっているのだろうか?
そんな馬鹿げたこと、ある筈はない。
けれど現状について、考えれば考える程、可笑しい事が増えていくのだ。
なにせ、もし、ここが現実であるのであれば、静寂に包まれている現状が、可笑しいという事になる。
そして、ここが夢であるのであれば、痛みを感じている現状が、可笑しいという事になるのである。
両方、可笑しいのだ。
頭が混乱して、何もかもが可笑しく思えた。
その瞬間だった。
金縛り。
この言葉が、頭に流れ込んできたのだ。
それは、天啓を授かる聖人のようなものだった。
私は、自分の事を決して、聖人のような性格をしていないと自負している。
そして、私は無神論者である。
しかし、この時の事だけは、そう言い表すのが適格だと思った。
何よりも驚くべき事は、頭にその言葉が響いた瞬間に、今まで感じていた、肉を斬られるような痛みが収まった事だ。
ああ。
信仰は、このように成り立っているのだな、と身に染みて学んだ瞬間である。
そして、忘れてはいけない。
これは、恐らく、全て夢の中での出来事なのだ。
だから、無神論者が突然、神の思し召しについて話し出しても、許されるのである。
多分。
そんな事を考えている内に、ある事に気が付いた。
今まで満足に動かすことのできなかった身体が、痛みの引いた身体が、少しだけ動かせるようになっていたのだ。
まあ。
動くようになったのは、首だけだったが、それでも、現状を理解するためには役に立つ事に違いないだろう。
動くようになった理由は解らないが、幸運である事に、変わりはない。
そう。
この時の私は、呑気にそんなことを考えていたのだ。
そうして、私は首を左右に動かし、この場所に何があるのか見た。
そう。
私が、それを見てしまった瞬間である。
それは、長身の男だった。
女では、ない。
不思議と、そう思った。
ああ、そうだ。
それは、高級そうな黒い着物に身を包み、生きているのが不思議な程に瘦せこけた、細身の男だったのだ。
朱色の帯と、足下にあしらわれていた金糸の桜の模様が、やけに目についた。
だが、それ以上に私は、その男の雰囲気に、圧倒されたのだ。
そう。
その男は、この場所には不釣り合いだと感じさせる程に、不思議な存在感を持っていたのだ。
その雰囲気は、圧倒的な捕食者のようなものだった。
目を逸らそうにも、その瞬間に一口で喰われると勝手に頭が想像して、目を逸らす事が出来ないのだ。
そう。
私は、自分の意志で身体を動かすことが出来なかったのである。
まるで、雄一郎さんと話している時の様だった。
そして、私の眼は、男の顔を見た。
その瞬間、私は、見てはいけない物を見てしまった感覚に包まれた。
そして、言葉を失った。
男の顔がなかったのである。
目が。鼻が。口が。瞼が。眉毛が。
その男には、なかったのだ。
正確に言えば、その男の顔が墨汁で塗りつぶされたかのように真っ黒で、顔を見る事が出来なかったという方が正しいだろう。
そして、その瞬間。
私は、決してその男から視線を逸らさないようにする事を、心に決めた。
しかし、これは先程の恐怖とは違った感情によるものだった。
感動、ではない。
金糸の桜に見惚れていた訳ではないし、着物姿の男が珍しかったという訳でもないのだ。
いや。
珍しくはあったが、それ以上に私の心にはその男から目を逸らしてはいけない、という使命感があったのだ。
そう。
恐怖が使命感を凌駕したのだ。
そのため私は、その男から目を逸らせなかったのだ。
なぜ。
こんな使命感を感じているのだろう。
そう思った瞬間だった。
私の心臓は、動きをとめた。
男と、眼が合ったのだ。
なぜか、顔がないのに不思議とそう思った。
そう思った時には、遅かった。
私の毛穴という毛穴から、汗が吹き出し、呼吸は荒れ、歯が震え、身体が凍った。
怖い、恐い。怪い。妖い、畏い。
一瞬で、思考を恐怖一色に塗り替えられたのである。
今まで感じていた使命感など、塵同然だった。
瞬間的に、私の頭は、その男から逃げ去ろうと、動かぬ身体を我武者羅に動かした。
実際には、全く動いていなかったが、それでも動かそうと努力したのだ。
そうしている内に、気が付いた。
男が何もせず、こちらを、私を、見つめているだけなのだ、と。
そう。
襲いかかってくる訳でもなく、話しかけてくる訳でもない。
ただ、見つめられているだけなのだ。
だが、その行動が、私を恐怖の底に突き落とした。
襲いかかってくるのであれば、体が動けばどうにでもなる。
話しかけてくるのであれば、言葉が通じれば対話ができる。
しかし、何もしてこないのであれば、対処の仕様が解らない。
解らないから、恐い。
しかし、改めて考えてみると、この時の私の頭は、冴えていた。
今までの人生の中で、五本指に入るくらいには、冴えていた。
相手は動かないのだから、観察ができる事に気が付いたからである。
そして、相手の行動をよく見れば、この状況を打破できるかもしれない。
そう思ったのだ。
そして私は、その可能性に賭けた。
賭ける事しかできなかったとも言えるが、それでも、その賭けが、灯台の明かりになった事は事実だった。
そう。
私は数分、沈黙と抗う事になったが、それ以上に価値のある収穫を手に入れたのである。
その収穫とは、彼に私を害する意思はないという事実だった。
そう。
彼は私の事を見てくるが、近づいては来なかったのだ。
そして、その黒い顔をこちらに向け、何かを無言で訴えてきていたのである。
表情の見えない顔では、何を訴えているのか解らなかったが、それが重要な事なのだという事は察しがついた。
怖い事には変わりはなかったが、それよりも、何を訴えてきているのかの方が気になった。
すると、その男は突然、右腕を挙げて、私の方を指さしたのだ。
今まで、身動き一つしなかった相手が、突然動いたのだ。
嘴広鸛が餌を丸呑みした時と同じような衝撃が、私に走った瞬間だった。
そしてその行動は、的確に私の思考を阻み、興味を引いた。
そのような動きをされてしまっては、その方向に何があるのか気になってしまう。
これは、自然の道理だろう。
決して、私の知的好奇心のせいではない。
誰だって子供の頃には一度は経験したことがある筈だ。
「あ、宇宙人がいる」
と言われて、振り向かなかった者はいないだろう。
それが真実。
年齢が違うだけで、誤差なのである。
だから、私は心のままに、その男が示す指の先に視線を向けた。
そして、その瞬間、私はであるくろいなにかを見た。
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それでは、次回作にご期待ください




