残り香
スズとアレックスの電撃婚約発表から数日。
あっという間にジェパニ親善大使一行の帰国の日となり、薔薇の宮は出立の準備で朝から大忙しだった。
髪を切ったスズは、着物を着るのをやめ、ドレス姿で帰国する事になった。
驚いた事にスズの乳母も髪を切り、いつの間にか誂えていたワンピースを着ている。
『この腰痛コルセットというのは素晴らしい物ですな! 洋服も快適ですし、これで長旅も乗り切れそうですぞ』
王妃から腰痛コルセットと杖を贈られた乳母は、ほくほくした顔でソファーに座っていた。
アナベルがスズの支度を手伝っていると、ナギが顔を出した。
『紫の君、少しいいかな……?』
アナベルが目を瞬かせていると、スズが耳打ちをした。
『聞いてあげて! 今日でお別れだし……』
訳知り顔のスズに送り出されて、アナベルはナギと薔薇園へ足を向けた。
ここ数日、暖かい日が続き、僅かばかりの雪が残る薔薇園を見つめながら、ナギは淋しげにポツリと呟いた。
『今日でこの国ともお別れかと思うと、物悲しくなるよ……』
『また是非お越しになってください。皆でお待ちしております』
アナベルが模範解答のような応答をすると、ナギは苦笑した。
『スズのように言葉を勉強しようと思ったんだけど、時間が足りなくて……。情けないけどこのまま伝えるよ』
そう言うと、ナギはアナベルに向き直った。
『君には迷惑な話かもしれないけど、想いは言葉にしないと伝わらないって分かったから、後悔しない為に言わせて欲しい』
ナギの真剣な眼差しを受けて、アナベルは思わずブレスレットをギュッと握りしめた。
『大きな役目を背負って来たこの見知らぬ国で、君が私達の為に精一杯の礼を尽くしてくれた事を本当にありがたいと思ったし、人を思いやるその誠実な人柄に心動かされた。それが仕事だから当たり前の事だと君は言うかもしれないけど、私にとっては特別な事だった……』
冷たい風がナギの着物をはためかせ、焚きしめた香の匂いを運んでくる。気持ちを落ち着かせるような、でもどこか甘いその香り。
大陸の香水とは違う独特な香りは、彼らと過ごした思い出と共に、二度と忘れる事がないだろうとアナベルは思った。
『ジェパニの女性は皆、扇で顔を隠し、滅多に姿を見せない。しかし、この国の女性はしっかりと相手の目を見て、自分の意見をハッキリ言う。それだけでも充分驚いたのに、勇敢な君は自分が汚れるのも厭わず身を挺して危険から庇ってくれた。そして、私の為に怪我までして薬を用意してくれた。その凛とした姿がどれほど衝撃的だったか、おそらく君には分からないだろう』
出来ることなら、この先の言葉は聞きたくないとアナベルは思った。
もし相手がよく知らない男性だったら踵を返して逃げていたかもしれない。けれど、いつも艶やかな笑みを浮かべるナギの、思いつめたような真剣な表情に、自分も真摯に向き合うべきだと、アナベルもしっかりとナギの瞳を見つめた。
『今も真っ直ぐに私を見つめる、満開の藤の花のように美しいその瞳を、もっと間近で見つめる権利が欲しいと心から思った。だから……君を妻に迎えたい。無理な願いだとは分かっているけれど、言わずにはいられない。それくらい君に心を傾けているんだ……』
よく知らない男性から言われるのとは違って、短い期間ながらも自分という人間を知って、心を寄せてくれたナギからの告白に、なんと言っていいか分からず、アナベルは視線を泳がせた。
断られると知っていて、それでも伝えてくれたその想いを、ありがたくも、申し訳なくも思った。
『申し訳ありませんが、殿下のお気持ちに応える事は出来ません……。ですが、そのように想って頂けたこと、とても嬉しいです……。遠く離れたこの国から、殿下のお幸せを心からお祈りしています』
ナギの瞳をしっかり見つめて感謝を伝えると、ナギは悲しげに眉を寄せて、噛み締めるようにゆっくり頷いた。
『聞いてくれてありがとう……。覚悟はしていたけれど、やっぱり辛いね……』
無理に作ったような笑顔を浮かべるナギの頬のほくろが、本物の涙の跡のように見えて胸が痛んだ。
『本当に申し訳ありません……』
アナベルが心を込めて頭を下げると、ナギは懐から小さな巾着を取り出し、そっと差し出した。
『良かったらこれを貰ってくれないかな?』
受け取ってみると、美しい刺繍が施された巾着からはナギに似た香りがほのかに漂っている。
『私の使っている香だよ。いい香りだと言ってくれていたし、香りは思い出を呼び起こすと言うからね。たまには私の事を思い出して欲しいと思って』
ナギはそう言うと、続けて耳元でそっと囁いた。
『婚約者殿にヤキモチを妬かせたい時にでも是非……』
艶っぽく笑うナギに、アナベルは苦笑した。
ランスロットのいる所でこの香を焚いたら、本当にヤキモチを妬きそうだと思ったからだ。
『ありがとうございます。お守り代わりにします』
アナベルがそう言うと、ナギは満足気に笑い、冬晴れの空を見上げた。
『あーあ。女性にフラれたのは初めてだから、しばらく引きずりそうだなぁ……。帰って鎖国派との件に決着をつけたら、またすぐ違う国に親善大使として赴いて、新たな姫との出会いでも探す事にするよ』
いつも通りの軟派な物言いに戻ったナギの、言葉とは裏腹な愛おしさの残る視線に、アナベルは胸に針を刺されたような切ない痛みを覚えてしまうのだった。
「スズ様、婚約したからには俺はそんなに長い間待てない。アナベル嬢の結婚式に間に合うように迎えに行くから、嫁入りの支度をして待っていてくれ」
「へ……!? ひ、ひゃい……!」
出立の間際、アレックスはスズの腕に婚約の証のブレスレットをはめながらそう言った。アレックスの髪色と瞳をイメージした、赤いルビーがはめ込まれたゴールドのブレスレットをスズは嬉しそうに眺めた。
アナベルの挙式まであと半年を切っている。
ジェパニまで帰るのに一ヶ月、また来るのにも一ヶ月……。
つまりは超スピードで嫁入りの支度をしなければならない事実に、乳母の笑顔が固まっていた。
当初はスズの方が押せ押せだったはずなのに、一度心を決めたアレックスは対応をガラリと変えた。逆プロポーズ以降、護衛任務の時間以外も時間を見つけてはスズに会いに行き、一緒に過ごすようになったのだ。
『これがアレックスの溺愛エンド……!』
キャロルとスズは二人して顔を見合わせて、きゃいきゃい騒いでいた。
アレックスの弟であるシリルが言うには、一度妻と定めたら生涯とことん大切にするのが辺境伯一族の特徴なのだそうだ。
「会えない間はこの人形をスズ様だと思って大切にする」
髪の重さで首がもげそうになっているスズ人形を抱えて、アレックスはニッカリ笑った。
「待ってますね、アレックス様!」
スズは満面の笑みでアレックスの胸に飛び込んだ。
周囲から謎の人形に関してのざわめきが聞こえるが、そんなものは二人だけの世界に浸る初々しいカップルには一切聞こえないのだった。
いよいよ出立という時、キャロルが牛車に乗ろうとしていたスズの元へ走った。
『スズ、ちょっとの間お別れだね……。ベルの結婚式に間に合うように戻って来てね!』
目をうるませてスズの手を握るキャロルに、スズもまた涙を湛えながらその手を握り返した。
『先輩、色々ありがとう! 私ジェパニでもちゃんとこの国の言葉を勉強して、ペラペラになって帰ってくるから待っててね!』
うんうん、と頷きながら涙を流し始めるキャロル。
『せ、先輩が泣くから私にもうつっちゃうじゃん〜!』
ついには抱き合って泣き始める二人をアナベルは暖かく見守った。
この短期間でこんなにも仲良くなった二人を、周囲は不思議に思った事だろう。その理由を知っているアナベルは、込み上げる思いを堪えかねて、ハンカチでこっそり自分の目元を拭った。
傍に立っていたランスロットが、労るように優しくアナベルの肩を抱いた。
『出立!』
来た時と同じように雅やかな行列で、ジェパニの親善大使一行は王宮の門を潜り、粛々と港へと歩いていった。
「行っちゃった……」
行列が見えなくなった後も、長い間しょんぼりと佇んでいるキャロルに、アナベルはそっと寄り添った。
「私の結婚式には出席してくださるそうですから、またすぐに会えますよ」
そう言って励ますと、キャロルは何度も頷いて涙を拭いて、気を取り直したように明るく言った。
「アナベルがお姉ちゃんで、スズは妹みたいな感じだから、ちょっとでも会えなくなるのは淋しいけど、春まで少しの我慢だね!」
「春からまた、かしましい妹が一人増えるのか……。ベルも大変だな」
ランスロットが意地悪そうに言うと、キャロルはぷくりと頬を膨らませた。
「春からベルの旦那様になるランスロットは私達のお兄ちゃんになるんだから、ちゃんと面倒見てよね!」
「問題児はお断りだ。面倒はルイス殿下に見てもらってくれ」
二人のそんなやり取りをアナベルは微笑ましく見守るのだった。
次回はベルたん結婚式です。
皆様、筋肉達への励ましの言葉と、お赤飯をご準備ください。




