すれ違う二人
「……うっかり茎に触れてしまったと?」
顔なじみの女医が丸メガネの奥から怪訝そうに、アナベルの赤く腫れた腕を見た。
「はい……。うわの空で作業していて、うっかり……」
この寒い中、わざわざ片方の袖だけ捲って、ついうっかりというのも我ながら苦しいと今更ながら思ったが、薬を貰うため強引に押し切るしかないと開き直った。
――アナベルは今、ソムニウムの毒専用の薬を手に入れる為に、王宮の医務室に来ていた。
一般的にはもう治っているはずのナギの指が一向に良くならず、アナベルは焦っていた。
滞在中により多くの貴族達と友好を深めるべく、精力的に外交をこなすナギとスズ。
怪我を隠した状態で握手をする機会も多く、一刻も早く完治する方法を探すべきだと考えていた。
そんな時、ソムニウムに触ってしまった事がある同僚から、医者に診せると専用の薬を処方してもらえると聞いたのだ。
ルイスに内密に手配してもらうにも時間がかかると思ったアナベルは、悩んだ末に薬草園でわざとソムニウムに触れて、医務室に駆け込んだ。
女医は束の間何かを探るようにアナベルを観察したが、小さく溜め息を吐いた後、ピンセットで棘を抜き始めた。そして、ソムニウム専用に調合した薬を塗り、包帯を巻いていく。
「この薬を朝晩、患部に塗ってくださいね。少し多めに出しておきますが、稀にソムニウムの毒に過剰反応して治りが悪い体質の方もいますから、二、三日経っても良くならないようなら、必ずまた診せに来てください」
「分かりました。ありがとうございます先生」
「うわの空だなんて、アナベル様らしくないですね……。あまりご無理をなさらないように、ご自身を大事にしてくださいね」
女医はアナベルの様子に何かを感じ取ったようだが、何も聞かないで診察を終えた。
「ご配慮ありがとうございます先生」
アナベルは心を込めて礼を言うと、薬を握りしめて直ぐにナギの元へ向かった。
ナギの部屋へ着くと、ドア越しにスズの声が聞こえた。
入室許可を貰い、静かに部屋に入ると、ソファーから身を乗り出したスズがナギに何かを必死で訴えている。
部屋の隅には、護衛としてついてきたランスロットが待機していて、一瞬目が合った。
(この前、世話を焼き過ぎるなと言われたばかりなのに、ここで会うのは気まずいわ……)
しかも、わざと怪我をして薬を入手したばかりで、なおさら後ろめたい。
出直そうか迷ったが、早く薬を渡した方が良いと思い、扉口で二人の話が終わるのをじっと待った。
『だからね? お兄様が口説くべきなのは、アナベルじゃなくてキャロル先輩なの! そうじゃないと私が困るのよ!』
『スズ、何度も言うが、キャロル様はルイス殿下の婚約者だ。せっかく友好を結びに来たのに、そんな事をしたら国際問題になってしまうよ』
『大丈夫よ! 私がルイス様に嫁げば何も問題なくなるから!』
『スズ、そんな大それた事を心の中で思うだけならまだしも、口に出して言うのはやめなさい!』
『ランスロットもアナベルもジェパニ語は分からないんだから平気よ。お兄様ったら心配性が過ぎて禿げるわよ?』
『私が禿げるとしたらお前のせいだよ……』
ナギは大きな溜め息を吐いて項垂れた。
どうせジェパニ語は理解できないだろうと、ランスロットのいる場でも爆弾発言をするスズに、アナベルはひやひやした。
王子妃選考会でのキャロルの授業や、孤児院での授業の時、いい機会だからと一緒にジェパニ語を勉強していたランスロット。今の会話を全て理解しているとは思えないが、単語を繋ぎ合わせれば話のニュアンスは伝わっているかもしれない。
(スズ様がこの国に来た目的について、ランス様はご存じなのかしら……。ルイス殿下から聞いていないとしたら、説明をしたほうがいいかもしれない……)
スズ達が来てから毎日慌ただしくて、そんな情報共有の時間すら取れていなかった。
(明日は私が休みだからランス様の勤務時間に合わせて動ける。一緒に食事でもできるといいのだけど……)
そう思ってランスロットを窺うと、そのランスロットが何か言いたそうにこちらを見ている。心なしかその視線がアナベルの腕の辺りを彷徨っている事に気付き、思わずドキッとした。
(いくらランス様でも、パッと見ただけで分かったりしないわよね……?)
一刻も早くその場から逃げ出したい気持ちでそわそわしながら待っていると、まだ話し足りないらしいスズを制したナギに名前を呼ばれた。
アナベルは表面上は冷静を装いつつも、これ幸いとばかりに急いでナギとスズの元に行き挨拶をした。
『紫の君、待たせてすまないね。どうしたのかな?』
『違う薬、持って来ました。皇子塗る、治る』
片言のジェパニ語でそう言って、中身を検めて貰うためスオウに薬を手渡した。
「ソムニウム専用ですので、今度こそ良くなるはずです。医者には一切事情は明かさず貰ってきましたのでご安心ください」
スオウは臭いを嗅いだり自分の手に塗ったりして、問題がないことを確認すると、ナギに手渡した。
この場に誰も居なければ直接手当をする所だが、スズやランスロットがいるので、アナベルは直ぐにその場を離れる事にした。
アナベルが退出の挨拶をして扉口に向かっていると、ランスロットが近寄ってきてアナベルの腕を掴むと、ハヤテに話しかけた。
「ハヤテ殿、この場の警護をお任せして、ほんの少し扉の外を警護していて宜しいでしょうか? すぐ戻りますので」
スオウからの通訳を聞いたハヤテは、無表情のランスロットと困惑顔のアナベルを見比べて苦笑いした後、「どうぞゆっくり話し合ってきてください」と許可を出した。
(えっ、何……?)
話の流れが飲み込めないアナベルは腕を引かれるようにランスロットと部屋の外へ出た。
近くにはジェパニの警備担当と第一騎士団の団員が立っていて、警備は万全とはいえ、勤務中にランスロットがこんな行動に出た事に混乱していた。
ランスロットは額に手をやり、何かを堪えるように大きな溜め息を吐いた。
「ベル……。腕を見せて」
ランスロットにズバリ言い当てられて、アナベルはつい怪我した腕を後ろに隠した。
「薬の匂いがする。隠したって分かる」
ランスロットに見据えられて、アナベルは観念して包帯の巻かれた腕を見せた。
「ちょっと触っただけで、直ぐに手当してもらったので、もう大丈夫です。どうしても専用の薬が必要だったので……」
アナベルが目を泳がせながら気まずそうにそう言うと、ランスロットはまた大きな溜め息を吐いた。
「ベル……。この前も言ったが、そこまで肩入れする必要はないだろう? こんな……手にわざと怪我までするなんて……やり過ぎだ」
いつも優しくアナベルを見つめるランスロットの新緑の瞳が、今は厳しく細められていた。それにこんな風にきつい言葉を言われるのも初めてで、アナベルは動揺した。
「でも……ナギ皇子の怪我は一刻も早く専用の薬が必要な状態でしたし……」
「俺に相談するとか、キャロル嬢やルイス殿下に相談する方法もあっただろう? 国賓に関わる事なんだから、殿下だって時間を惜しまず聞いてくださるはずだ」
(ランス様に相談するっていっても、スズ様の護衛で忙しいじゃない……)
アナベルはそんな風に思ったが、上手く言葉が出ずに黙り込んでしまった。
黙ったまま俯いてしまったアナベルを見下ろして、ランスロットは髪が乱れるのも構わずガシガシと自分の頭を掻いた。
「ベルのそんな様子を見ていると、ナギ皇子に特別な感情があるんじゃないかと……つい二人の仲を疑ってしまうんだ」
苛立ちを押し殺したようなランスロットの呟きに、アナベルは体が痺れたように動けなくなった。心臓の鼓動も、耳元で鳴っているんじゃないかという程うるさく聞こえる。
(ランス様は私が不貞を働いているんじゃないかと疑っているんだわ……)
覚えのない事で疑われる恐怖は、半年前に北の孤児院の寄付金着服事件の時にも経験したが、大切な人に疑われる事がこんなにも辛いとは思わなかったアナベルは頭の中が真っ白になった。
アナベルはただ、遥か遠くの国からやって来たお客様の為に最善を尽くしたいだけだった。相手がナギではなくても、絶対同じ事をしていたはずだ。
そんな仕事熱心なところを、ランスロットは理解してくれていると思っていた。
(だからこそ、結婚した後も女官を続けていいと言ってくれたし、こうして仕事用のブレスレットもセットで贈ってくれたのだと思っていたのに……)
アナベルは込み上げそうになる涙を、目に力を入れて必死で押し留めてランスロットを見上げた。
(確かに一人で判断せずに、ルイス殿下に判断を仰ぐべきだったかもしれない。でも……)
「私はランス様の婚約者であると同時に、今回の親善大使一行をお世話する者達のリーダーとしての責任も負っています。ナギ皇子殿下に関わる全ては、ひとえに両国の友好の為にしている事です。あの方に抱く個人的な感情は一切ありません。それでも、もし私の事を信用出来ないと仰るなら、婚約破棄されたとしてもやむを得ない事として受け容れます……!」
驚いたように目を見開いたランスロットが何か言う前に、アナベルはランスロットから目を逸らした。
「ランス様も早くスズ様の護衛任務に戻られた方がいいかと思います。私はここで失礼致しますので」
アナベルは絞り出すようにそれだけ言うと、呼び止めるランスロットの声も無視して足早にその場を立ち去った。
心臓がバクバクと脈打ち、こらえきれずに涙が零れた。
こんな風に泣いている姿を、誰かに見られては良からぬ噂になると思ったアナベルは、裏口から薔薇の宮を出ると、そのまま人目につかないよう自室に戻った。
そろそろ夕食の時間だが、何も食べる気になれない。
手早く入浴だけして、アナベルはベッドに潜り込んだ。
(幸運にも明日は休みだから、しっかり眠って気持ちを立て直さないと……)
そうは思うのだが、なかなか眠りは訪れない。
色々あってひどく疲れているはずなのに、ランスロットとの事をあれこれ考えてしまって一晩中眠れない夜を過ごすのだった。
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せっかくの休日を丸一日ベッドの中で過ごしたアナベルは、夕方になってナギの元へ向かった。
昨日塗り薬を渡したきりになっている事が気になっていたのだ。
ナギへの対応が原因でランスロットと言い合いになってしまったが、仕事に私情は挟みたくなかったし、後ろめたくなるような事はしていないと、半ば意地になっている部分もあった。
スオウは外出しているようで、部屋にはナギとハヤテのみ。
アナベルはジェパニ語で丁寧に謝罪した。
『お薬を渡したきり、来ることが出来ず申し訳ございませんでした』
するとナギは包帯が取れて、すっかり赤みが引いた指を見せてくれた。
『お陰様でご覧の通り良くなった。専用の薬だっけ? 効果てきめんだったよ』
『医師に処方してもらう必要がありましたので、入手が難しくて……遅くなり申し訳ありませんでした』
アナベルが謝ると、ナギは不思議そうに小首を傾げた。
『そういえば、どうやって入手したの?』
『え、それは……』
嘘が苦手なアナベルは、どうやって誤魔化そうかと考えながら無意識に左手を背中の後ろに隠した。
それを目敏く見つけたナギは、アナベルの後ろに立つハヤテに視線を向けた。ハヤテが無言で頷くのを見て、ニッコリ微笑んでアナベルに手を差し出した。
『今隠した手、見せて?』
『……』
どうしてこうもバレやすいのかとアナベルは自分の演技力のなさを呪った。そして、こんな自分をスズ達の監視役に任命したルイスの見る目のなさも恨んだ。
普段は誰に対しても親しげに接して、あまり誰かを従わせるような雰囲気を出さないナギが、有無を言わせないオーラを出している。
アナベルは観念して、女官服の袖をまくり、包帯を巻いた腕を見せると、ナギは労わるように腕を見つめて溜め息を吐いた。
『それであの時、君の婚約者殿は怒っていたのか……。私の為に怒られてしまったんだね、ごめんね……』
『いえ、私が勝手にした事です。どうぞお気になさらず……』
自分に出来る最善を尽くしただけ。
淡々としたアナベルの雰囲気に、ナギは苦笑した。
『……罪な人だね。君は誰にでもこうして誠意を尽くしてくれるのだろうけど、自分の為にこんな事までしてくれる女性を好きにならない男はいないよ?』
そう言うと、ナギはアナベルの手を取ると、包帯の上に優しいキスを贈り、艶を含んだ瞳でアナベルをじっと見つめた。
アナベルは慌てて手を引っ込めて、頬を染め……ずに肩を落とした。
『やはり、やり過ぎなのでしょうか……。良かれと思ってやっている事が相手にも婚約者にも誤解を与えてしまうなんて……』
真剣に落ち込むアナベルを見て、ハヤテが噴き出した。
『ナギ様に見つめられて恋に落ちない女性がいるとは思いませんでした! 世界の広さを改めて実感しましたよ……!』
普段寡黙なハヤテが声を出して笑っているのを見るのは初めてで、アナベルは驚きに目を瞬かせた。
『確かに、世界は広いね。自信喪失しそうだよ……』
やれやれと肩を竦めるナギに、アナベルはどうしたものか焦った。
(この場合どうしたら良かったのかしら……。でもランス様に対して不誠実な真似は出来ない……)
無表情を保ちつつも、落ち着かない様子のアナベルを見てナギは笑みを零した。
『君が美しすぎるから、優しくされた方はつい勘違いしてしまうんだ。君は何も悪くない。でも今後、男性に優しくする時は気をつけた方がいいかもね?』
『肝に銘じます……』
アナベルが真面目に頷くと、ナギはまた苦笑いを浮かべた。
(今こうして肝に銘じても、既にランス様の信頼を失ってしまったのだから意味がないわ……)
業務上とはいえ、誤解を招くような行動をしてしまった事を謝りに行きたい思うけれど、もしそんな余地もなく婚約破棄をされてしまったらと考えると、足がすくんで実行に移せなかった。




