9 研究所にて③
セラフィナの言葉にジルははっと息を呑み、眼鏡を外した。いつもは分厚いレンズに隠されている彼の灰色の目がじっと、セラフィナを見つめる。
「……そう、だな。ごめん、僕、かっとなっていた。らしくもないな」
「ううん、私の体のことを心配しての発言でしょう? 気を遣ってくれて、ありがとう」
今度は優しく脇腹を小突いてやると、それを黙って見ていたラモンが小さく笑う気配がした。
「……最初はジル君の方が引っ張るのかと思ったけれど、ここぞというときにはセラフィナさんが背中を押す感じなんだね。いい関係だ」
「それはどうも……」
ジルはぶすっと言って、眼鏡を掛けた。ラモンはそんなジルを微笑ましく見つめてから、セラフィナに視線を向けた。
「……呪具によって被害者が出た以上、我々も事件として調査に当たろう。ただ……その際にセラフィナさんたちの名前を伏せるか伏せないか、意見を聞きたい」
「……伏せない方が情報は集めやすくなるけれど、代わりにセラフィナの肩身が狭くなる可能性があるってことか」
ジルがつぶやくと、ラモンは「そういうことだ」とうなずいた。
「いくら被害者だとしても、呪術に掛かった患者に偏見を持つ者はいる。しかも今回の場合、ジル君と離れていると体調を崩すということだから、それについてよからぬ妄想を働かせてセラフィナさんを攻撃する者もいるかもしれない」
「それはだめだ……っと、セラフィナはどう思う?」
「……できることなら、内密にお願いしたいです。調査が難航するのは……承知しております」
セラフィナもそう告げると、ラモンは「了解したよ」と穏やかな表情で言った。
「どうしても調査範囲は狭まるけれど、全て終わった後のことを考えるとこちらの方がセラフィナさんの名誉も守れるだろう。二人とも身の回りのことに注意して、我々とまめに連絡を取るようにしよう。もちろん、君たちの仕事や人間関係に影響の出ないよう、配慮するよ」
「何から何まで、ありがとうございます」
セラフィナは心からのお礼を告げた。
研究所を出たときには、すっかり夕方になっていた。
「かなり時間が掛かったわね……」
「そうだな。……軽食はもらったけれどちょっとのものだったし、これから夕食もかねてどこかに行かない?」
ジルに提案されて、思わずセラフィナは彼を凝視してしまった。
「え……ジルに食事に誘われるなんて、初めてかも!」
「……あー、まあ、そうだな。というか、君と一緒に書庫の外を歩いたのが今日初めてだったかもしれないな」
ジルは思い出すように言ってから、少し顔を背けた。
「……僕と一緒に食事なんて楽しくないだろうけど、これからのことの打ち合わせもしたいし。落ち着いて話せそうな店を知っているから、そこにでも行かないかと思って」
「行く! 是非ご一緒させてください!」
「うん、じゃあ行こうか」
ジルは眼鏡を押し上げて、歩き出した。彼は男性で身長もセラフィナより高いが、セラフィナが早足にならなくてもいいように歩調を揃えて歩いてくれる。彼がそんな気遣いをしてくれることも、今日初めて知った。
(……ここ数日で、今まで知らなかったたくさんのジルを知った気がするわ……)
何者かによって呪術を施されたことは非常に腹立たしいが、不幸中の幸い、と言ってもいいことかもしれないと思った。
その後セラフィナはジルと一緒に城下町の隠れ家的居酒屋で食事をしながら、これからの計画を立てた。
まずセラフィナは、「可能な限り毎日書庫に行く」ことにした。見舞いのときのような場合はともかく、書庫の建物の奥に部屋があるジルが毎日のように使用人用の宿舎を訪れていたら不審がられる。
ラモンにも言ったように、この件は内密に調査してもらいたい。当然、使用人仲間にも教えることはできないから……二人が接触するならセラフィナが第二書庫に行く方が自然で周りから不審がられにくい。
そして、その訪問は通常の閉館時間ぎりぎりにする。閉館時間になったら、ジルは書庫内に利用者がいても容赦なく追い返す。そして誰もいなくなってから、セラフィナがジルの側で匂いを嗅げる時間を設ける。「司書は僕だけだから、第二書庫のことはどうにでもできる」とジルはなぜか自慢気に言っていた。
だがどうしても会えない日もあるだろうから、そういうときはジルの着ていた服などを代用する。本日の負荷実験により、ジル本人には及ばなくても彼が着ていた服などでもある程度の気休めにはなることが分かった。
恋人でもない男の服を抱きしめて匂いを嗅ぐなんて、痴女を通り越して危険人物だ。だが当の本人であるジルが「セラフィナの体調には代えられない」と勧めてきたし、ラモンも「できる限りの手は打った方がいい」と言っていた。「これは双方同意の上での、合法的治療だ」と自分に言い聞かせて、ジルの衣類を借りることにした。
「何から何まで迷惑を掛けるわ」
作戦会議を終えて店を出たところでセラフィナが言うと、財布をコートのポケットに入れたジルは肩をすくめた。
「呪術を解くために必要なことだと割り切るさ。……いつ犯人が捕まるか分からないけれど、様子を見に書庫に現れる可能性も十分ある。幸い僕は基本的に暇人だから、不審者が現れないか見張っておくよ」
「……ありがとう」
「だから、お礼は――」
「気持ちは分かるけれど、せめて一回くらいは言わせて。……あなたがここまで心を砕いてくれていることは、事実だもの」
ただ呪術解除に協力するだけではなくて、彼にできることを率先してやろうとしてくれる。それに……何よりも、セラフィナの体が傷つかない方法を選んでくれる。その厚意までをも「やってもらって当然」と思うつもりはなかった。
セラフィナがはっきりと言うと、店内にいる間は外していた眼鏡を掛け、ジルは小さく笑った。
「……セラフィナはそういう人だったね。了解。僕を困らせない程度なら、言ってくれて構わないよ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
「……。……夜になると、冷えるな。帰ろうか」
「そうね」
まだまだ賑やかな城下町を、ジルと肩を並べて歩く。
今はそれほど、彼の匂いに飢えているわけではない。だが……ジルの隣はとても心地よく、安らいだ気持ちでいることができた。




