7 研究所にて①
翌日、ここ数日では一番調子のいい朝を迎えられたセラフィナは身仕度を調えてから、使用人用の食堂に向かった。
「……ああっ、セラフィナだ、おはよう!」
「体調はよくなったの!?」
「おはよう。少しだけよくなったわ。気を遣ってくれて、ありがとう」
そこで会った皆に挨拶をして、一緒に食事をすることにした。
城の食堂はセルフサービスで、トレイを手に好きなおかずや主菜を皿に載せていき最後に秤に乗せたときの重さで代金を支払う形になっている。
本日のセラフィナは一応病み上がりなのでいつもより量を少なめにして、スープや炒り卵などの消化によさそうなものを中心に選んだ。
「お医者様も、病名が分からないっておっしゃっていたわよね?」
「寝ていれば治っていたって感じ?」
席に着いたところで仲間に聞かれたので、セラフィナは手を拭きながら曖昧に微笑む。
「ええと……正直、自分でもよく分からないの。でも、今調子がいいだけでまた再発しそうな気がするから……もう一日、休ませてもらおうと思って」
「うんうん、そうしなよ!」
「お医者様のところに行くの?」
「……ええ。今日は城下町にある別のお医者様のところに行こうと思うの。他の病院に行ってもいいと、おっしゃっていたからね」
本当はジルと一緒に呪術研究所に行くのだが、それを口にするのははばかられた。たとえ「呪術の類いではない」という診断結果だとしても、呪術という名を聞いただけで気を悪くする者がいるかもしれない。
(でも、「呪術ではない」となったらそれはそれで不安よね。かといって、呪術だったら大問題だし……)
行くと決めた以上行くのだが、どちらで診断されても不安を完全に拭うことはできないのが辛いところだ。
仲間たちとの朝食を終えて、セラフィナは部屋に戻った。
(……あ。また少し、だるくなってきた……)
ジルは何時頃来るとまでは言わなかったが、今日一日第二書庫は閉めるそうなので会いに行くことはできるはず。確か彼は使用人用の宿舎ではなくて、第二書庫のある建物の奥で生活しているのだったか。
(……行こう)
胸の奥がぞわぞわし始めたので、財布やハンカチなどを鞄に入れて部屋を出た。
第二書庫のある建物にはもう何十回も訪問しているが、今日はその慣れた道のりがやけに遠く感じられた。
ホールケーキ型の建物のドアを一つ開け、その先にある廊下をずっと進んだ先にジルの生活場所がある。ここには厨房や小さな風呂場などもあるので、他人と関わるのがあまり好きではないジルは使用人用の食堂などを使わず、衣食住のほとんどをここで済ませているとか。
「おはよう、ジル。いる?」
ドアをノックして声を掛けると、しばらく中でごそごそ音がしてからドアが開いた。
まだ朝ではあるがジルは早寝早起きをするタイプだからか、もうきちんと身仕度を調えている。だが、いつもは雑にまとめている髪は下ろしていた。非番の日は髪をくくらないのかもしれないが、いつものあのぼさっとしたまとめ方をしていないジルの姿はなんだか新鮮だった。
「……おはよう。もう少ししたら迎えに行こうと思ったんだけど……もう行く?」
「う、うん。それに、ちょっと胸の奥がそわそわしてきて……」
「……もしかして、体調を崩す前触れとかか? 気分が悪くなったらいけないし……その、匂っておくか?」
ジルが少しためらいがちにそう提案したので、途端にかっと頬が熱くなってセラフィナはぶんぶん首を横に振った。
「い、いいえ、大丈夫よ! それにほら、もしかしたら負荷実験をするかもしれないでしょう? だったら少しだるいくらいの方が診断しやすいはずよ!」
「……君がそう言うならいいけど、さすがに人前で抱きつかれたらまずいからね」
「……分かってる。気をつけるわ」
昨夜は無意識のうちにジルに抱きついてすんすんと匂いを嗅ぐ痴女になってしまったが、今ならまだ大丈夫だ。頭の中もすっきりしているし、昨夜のような暴挙に出たりはしない――はずだ。
「それでももし私が人前であなたに襲いかかろうとしたら、遠慮なく突き飛ばしていいからね」
「馬鹿言うな。女の子を突き飛ばせるわけないだろう」
「そうだけど、あなただって自分の貞操を気にするべきだもの。それにほら、ジルくらいになら突き飛ばされても踏ん張れるし」
いかにもひょろひょろで武闘派とは言えない体格のジルだから、少し押されたくらいでセラフィナも倒れたりしない。むしろ、軽い衝撃を与えられたくらいが自分も我に返れていいだろう。
ジルは何か言いたそうだったが少し口を開いただけですぐ閉ざし、「……準備をする」と言ってきびすを返した。
すぐにジルは準備をして、二人は王城の隅にある呪術研究所を目指した。
「こっちの方向にあるのは知っているけれど、行くのは初めてだわ」
「僕は、研究者たちが依頼した本を届けるために何度か行ったことがある。といっても、ドアを一つくぐった先の受付までだけど」
「……検査をしてもらうとなったら、もっと奥に入るのよね。どういう感じなのかしら。普通の病院とはやっぱり違うのかしらね……」
「どうだろうね。僕もちょっと気になっていたんだ」
歩きながら、セラフィナは自分でもおしゃべりになっていると思っていた。なんだか、黙って歩いていると胸の奥のもやもやが大きくなってきたり、また死への恐怖が湧いてきたりしそうだった。
そんなセラフィナの胸中を慮ってか、ジルはセラフィナの雑談に付き合い丁寧に返事をしてくれた。前を向いて歩いているので視線はぶつからないが、それでもきちんと相づちを打ち会話をつなげてくれるため、セラフィナは思っていたほど緊張せずに研究所に到着することができた。
セラフィナは、呪術の研究所なのだからきっと普通の病院とは何かしら違うのだろうと思っていた。だが建物の見た目は白塗りレンガ造りのよくあるもので、その先の受付も城下町にある病院と大差なかった。ただし、病院で働く看護師や医者が基本的に白色系統の衣装なのに対して、こちらの職員は皆黒っぽいコートを着ているという違いがあった。
受付までは来たことのあるジルが、緊張するセラフィナに代わって用件を伝えてくれた。受付の女性は真剣な眼差しでジルの話を聞き、そして彼の陰に隠れるように立つセラフィナを見ると安心させるように優しく微笑んだ。
「かしこまりました。ではすぐに診察しますので、こちらへどうぞ」
「行こう、セラフィナ」
「……はい」
思わず小声になったセラフィナの手を、ジルがそっと握る。握るといっても、まるで母親が子どもを引っ張っているかのようなものだが、前を歩いてくれるジルの存在は大きくて、その背中がとてもたくましく思えた。
診察室も、普通の病院と大差はなさそうだった。椅子に座っていた黒衣の男性は丸くなるセラフィナとその背後に立つジルを見て、「こんにちは」と気さくに声を掛けてくれた。
「私は、呪術研究者のラモン・アルコルタ。セラフィナ・ラミレスさんだったかな」
「……はい」
「君は、呪術に掛かっている可能性があるとのことだったな。症状について詳しく聞いても?」
四十代後半くらいに見えるラモンに優しく尋ねられたため、セラフィナはうなずいて事情を話した。時々言葉に詰まるところではさりげなくジルが説明してくれて、セラフィナがぎゅっと膝の上で拳を固めていると励ますようにとんとんと肩を叩いてくれた。
「……なるほど、なるほど。原因不明の体調不良に悩まされ、そこにいるジル・オルランド君の匂いを嗅げば症状が治まる、ねえ……」
カルテに書き込みながらラモンはつぶやき、顔を上げた。
「うん、呪術の可能性は十分にあるね。それじゃ、いくつか検査をするけれど……今日一日使ってもいいかな?」
「もちろんです、お願いします」
「僕も付き添うので、必要なときにはいつでも言ってください」
ジルが頼もしいことを言うので思わず振り返るが、相変わらず分厚い眼鏡に遮られて彼の眼差しはよく分からなかった。




