37 ジルの秘密
なんだかんだ言って、ジルの部屋に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。
「お邪魔しま……わっ」
「ごめん、あんまり片付いていなくて」
ジルの部屋は、第二書庫の棟の廊下の奥にあった。ずっと温めていた合い鍵ををどきどきしながら使ったのだが――中はほどよく散らかっていた。その散らかり具合は、司書室とよく似ている。
ジルが急ぎ床に散らばった本やごみを片付けるのを、セラフィナはソファに座って眺めていた。手伝おうかと声は掛けたのだが、「セラフィナは座って待っていて」とはっきり言われたのでおとなしく待機することにした。
やがて一通りのものを掃除――という名の隣室への詰め込み作業――をしたジルは紅茶の入ったカップ二つを手に戻ってきた。
「お待たせ。……今度からは本気で掃除をする」
「ええ、そのときはまた、お邪魔させてもらうわね」
「……ん」
隣に座ったジルはこっくりうなずき、紅茶を口に含んだ。
いつも通りの恋人の横顔が、そこにある。掃除の間は掛けていた眼鏡は外していて、灰色の涼しげな目元がよく見えた。
「……。……いろいろ、言わないといけないことがある」
ジルが切り出したので、カップで両手のひらを温めていたセラフィナはうなずいた。
「ええ。あなたの言いたいように言ってちょうだい」
「……。……もう、薄々気づいているかもしれないけれど。僕は、ただの司書じゃない」
ジルは灰色の目に強い決意の色をたたえ、セラフィナを見つめた。
「……僕の本当の名前は、クローヴィス。陛下の側近として革命戦争を戦った――『百人斬りの剣士』だ」
ジルことクローヴィスは、フォルテシア王国北部のディアス領で傭兵として生計を立てていた。
ディアス領では、王城で冷遇されていた王子ヴィクトルが暮らしていた。成長した彼は悪辣な父王を討つべく同志を募ったのだが、そこでクローヴィスは志願して兵士となった。
最初はただの一般兵だったクローヴィスだが、その卓越した剣術によりめきめきと頭角を現し、とうとう切り込み隊長として任命されることになった。
ヴィクトルは王子でありながら、クローヴィスの実力を認めて自身の右腕とした。ディアス領主の娘であるルセリアも、「あなたがいればヴィクトル様も大丈夫だわ」と頼りにしてくれた。ヴィクトルと共に育った軍師シメオンとはたびたび衝突したが、最後には戦友として冗談を言い合える仲になった。
クローヴィスは生まれつき、視力が悪かった。だが、目の前にいるのが全て敵だとさえ分かれば、問題ない。ヴィクトルたちはクローヴィスの長所と短所をよく理解し、彼が全力で戦えるように布陣を整えてくれた。
そうしてクローヴィスは英雄王戦争を戦い抜き、目の前に立つ者を全て屠る能力から、「百人斬りの剣士」と呼ばれるに至った。戦の終結によりヴィクトルは国王に即位し、彼を献身的に支えたルセリアは王妃に迎えられた。そうしてシメオンは一生を国王夫妻のために捧げると誓って、近衛騎士団長になった。
一方のクローヴィスは、褒美を求められても全て固辞した。
自分は所詮、平民だ。輝かしい栄光などは何も必要ない。
だがそれでも友の武勲に報いたいというヴィクトルの願いを断り切れず、クローヴィスが申し出たのは――静かな場所で余生を送ることだった。
貧しい農民の生まれのクローヴィスは、ヴィクトルたちに出会うまで字もろくに読めなかった。だが彼はヴィクトルやルセリア、シメオンに字を教わり、本を読む楽しさを知った。
だから、残りの人生はこれまでに読めなかった本をたくさん読んで過ごしたい。「百人斬りの剣士」の名を捨ててただの一般人になり、本に埋もれながら――そして万が一ヴィクトルたちに何かが起きてもすぐに駆けつけられるような場所で生活したい、と願った。
友人の慎ましい願いを聞き入れたヴィクトルは、「百人斬りの剣士」が英雄王戦争で死没したことにした。そしてクローヴィスにジル・オルランドの名を与え、王城の第二書庫の司書としての仕事を命じたのだった。
ジルはほとんど人の訪れない第二書庫で静かに暮らしつつ……たまに「出張」という名目で英雄王戦争時代に関連するあれこれの解決に出向いていた。クローヴィスの名を捨てたとしても、彼が自分の目で確認してヴィクトルに報告するべきことなどもあったからだ。
そうしてジルは本に埋もれる日々を満喫していて――セラフィナと出会うに至ったのだった。
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