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34 どんなあなたでも①

 ジルが「出張なんてこの世からなくなればいいのに」とぼやきながら城を発った日は、セラフィナも夜遅くまで働くことになった。というのも本日、国王ヴィクトルや王妃ルセリアが革命戦争時代の戦友を多く招いて懇親会を開いているそうなのだ。


 おかげで王宮使用人であるセラフィナたちは掃除から料理の運搬の手伝い、貴人たちの案内や会場の後片付けなどに奔走して、ようやく解放されたのは深夜を過ぎてからだった。


「ふはぁ……疲れた疲れた!」

「でも、特別手当おいしいわぁ! それに明日は休みだし、寝坊しちゃえるわ!」

「もう明日じゃなくて今日になってしまったけれどね……」


 セラフィナはジョランダとクロエと一緒に廊下を歩きながら、おしゃべりをしていた。


 今回のような時間外勤務は毎度重労働だが、特別手当をたんまりもらえるし翌日の休みも約束してくれる。家族がいる者は夜中の勤務を控えるが、特にそういうこともないセラフィナたちはせっかくのチャンスなのだからと特別手当狙いで仕事をもらっていた。


(今回たくさんもらえたお給金で、ジルに贈り物でも買おうかな?)


 ジルは物欲のない人なので彼への贈り物には毎度悩むが、「セラフィナがくれるものなら何でも嬉しい」と喜んで受け取ってくれる。それでもきっとセラフィナを思ってのことだろうから、彼が気に入ってくれるだろう仕事中に使えそうな小物を選んでいた。


(この前贈ったアームカバーは、かなり気に入ってくれたみたい。……あ、そうだ。いつも私がジルにお店に連れて行ってもらっているから、今度は私の好きなお店を紹介しようかな?)


 ジルは甘いものは好きではないそうなので、菓子店ではなくて喫茶店などがいいかもしれない。そして彼は大食いの早食いなので、健啖家の男性の胃も満足するようなメニューの店を探しておきたいところだ。


 ジョランダたちとは本城を出たところまで一緒したが、夜風の吹く場所に出たところでほんの少し、疲れを感じた。


(……夜だけど、ちょっとだけ司書室に寄っていこうかな)


 今日別れる前にジルとたっぷり抱擁はしたが……どうやらセラフィナが疲れているときはジルの匂いの持続時間が短くなるようだ。今日は一日中バタバタしていたので、夜中に匂い不足になると困る。彼が使うブランケットでも拝借しておきたい。


「ごめん、ちょっと第二書庫に寄っていくわ」


 セラフィナがそう言うと、ジョランダとクロエは少し心配そうな顔になった。


「でも、もう真夜中よ。真っ暗だし、大丈夫?」

「ええ、ちょっと荷物を取りに行くだけよ。それに……今日は国王陛下方のご友人もいらっしゃるから、いつもより警備を強化しているそうじゃない。変質者もそうそう現れないわ」


 セラフィナが言うと、二人は「それもそうね」とうなずき合い、宿舎の方に向かっていった。


(寒いし、必要なものだけ借りたらすぐに戻ろう)


 すんっと鼻をすすったセラフィナは、すっかり歩き慣れた第二書庫への道を急いだ。予想通りいつもより周囲は明るく、夜間警備の兵の姿も見られた。


 一度「こんな時間にどうなさったのですか」と呼び止められたが、つい先ほどまで本城で仕事をしていたことと第二書庫に荷物だけ取りに行くことを伝えると、「お気を付けて」とだけ言ってすんなり送り出してくれた。


 殺風景な第二書庫の棟に到着し、鞄から出した鍵で解錠する。このドアに、毎朝毎晩ジルが触れているのだ……と思うと、ただの鉄の錠前でさえなんだか愛おしく思えてくるのだから、自分も相当だ。


(まさか、こんなにもジルのことを好きになるなんて……)


 がらんとした薄暗い第二書庫に足を踏み入れ、司書室の鍵を開けながらセラフィナは考える。


 最初は、ふてぶてしくて態度の悪い人だと思っていた。だが彼は本のことが好きで、来館者が本好きなら誠実に対応しているし、古くなった本たちを丁寧に修理して少しでも長く読んでもらえるようにしている。


 人気の第一書庫から離れた、寂しく建つ第二書庫の棟。城に仕えながらも一度も来たことのない人も多いだろうこの小さな城で懸命に働くジルのことが……いつの間にか、本当に好きになっていた。

 この恋は、呪いで始まったのではない。間違いなく、呪いの本により彼と物理的に離れられなくなるよりも前から……彼のことを特別な異性として意識していたのだ。


(呪いの本をけしかけた人のことは本当に恨めしいけれど……あれがなかったら私はジルとただの友人のままで終わっていたかもしれない)


 そう思うと、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、犯人に感謝をしてやってもよいと思えた。ただし、ノートは返してもらうし治療費も全額負担させるが。


 司書室の鍵を開けると、つんとした樟脳の香りに混じった愛しい人の匂いが感じられた。


(……あ、コートやブランケットがある。私が探しやすいように、置いていってくれたのかしら)


 いつもはもっと雑然としているデスクが多少は片付いていて、空いたスペースにきちんと重ねられたコートなどがあった。それを手に取って顔を近づけると、胸の奥がふわんと温かくなるような気持ちがした。


「……ジル」


 思わず恋人の名を呼んで、気恥ずかしさにコートに顔を突っ込む。だがフロアの方からかたり、と小さな音がしたため、顔を上げた。


(……風で何かが落ちてしまったかしら?)


 そう思って司書室から顔をのぞかせたセラフィナは――いつの間にか書庫内に黒い人影がいくつもあったため、悲鳴を上げそうになった。


(な、何!?)


「だっ――」

「しゃべるな。……そこから、動くな」


 誰何の声は、一番セラフィナに近い場所にいた男によって遮られる。まだ彼は司書カウンターよりも向こうにいるが、その手の中にギラリと光る刃があるためセラフィナは息を呑んだ。


(刃物――!?)


 しゃべるな、動くな、という命令に逆らえずセラフィナがコートを抱きしめたまま硬直していると、ぞろぞろと人影がカウンターを回ってやってきた。


「っ……」

「おまえが、セラフィナ・ラミレスだな」

「……」

「答えろ!」

「……そう、です。あなたたちは……?」


 呪縛が解けてじりじりと後退したセラフィナの背中が、とん、と何かに当たる。振り返る余裕はないが、おそらくそれはいつも司書室の入り口に立てかけている二本の箒だ。


 掃除道具箱に入れればいいのに、というかどうして二本もあるの、とある日セラフィナが尋ねたのだが、ジルは「いざというときに必要だから」としか言わなかった。


 コートを持っていない方の手をそろっと後ろに回して箒の柄を掴むセラフィナに、男が迫ってくる。


「名乗る必要はない。……おまえには死んでもらうが、一つだけ確かめなければならないことがある」

「……」

「ノートは、どこにある?」

「……え?」


 何を聞かれるのか、答えなければならないのか……と焦っていたセラフィナは、思わず間抜けな声を上げてしまった。


「ノートって……まさかあの、呪具の……?」


 思わず口走ってしまったが男は失言には気にならなかった様子で、イライラと手にしたナイフをぎらつかせてきた。


「それだ。……おまえ、いつの間にあれを回収した? それだけは聞かねばならん」

「……」


 ごくり、とセラフィナはつばを呑み込む。

 答えはもちろん、「知らない」だ。


 セラフィナとジルが呪われるきっかけになったあのノートはジルが落とし物箱に入れた後、なくなった。それっきりセラフィナたちはノートを見ていないし、当然ラモンのもとにも届いていないだろう。


(でも、それを即答していいものなの?)


 もしここでセラフィナが「知らない」と言えば、男たちの聞きたかったことは収穫なしに終わったことになり――セラフィナを生かす必要がなくなる。夜中で、しかも本城から距離のある第二書庫で女一人が襲われても、助けが来る前にやられてしまう。


 ではセラフィナがうまく男たちを誘導して、少しでも時間を稼ぐことができれば? 夜間といえど、今日はいつもよりは警備が多くなっている。時間を稼げば稼ぐほど、助けが来る確率が――セラフィナの生存率が上がるのではないか。


 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。


(私は、死にたくない。ここを……ジルの大切な場所を血に染めるわけにはいかない!)


 静かに微笑む恋人の顔を思い出し、深呼吸したセラフィナは必死に頭を働かせて言葉を選び、口を開いた。


「そ、それは……。……ノートを回収したのは、私ではありません」

「誰だ」

「私は知人から、ノートを秘密裏に回収して保管している、とだけ聞いています。すぐにノートを破壊したからといって、私たちの呪いが安全に解除されるわけではないから、と。だから……その人に会いに行かなければ、分かりません」


 ここでセラフィナを殺せば、誰がどこにノートを隠し持っているのか分からなくなる。だからセラフィナを殺すのは得策ではない……と思わせる作戦だ。


 ……だが。


「……ということは、呪術研究所の方か。おそらくそうだろうとは思っていたが……」

「え、いえ、違――」


 ひゅ、と喉が鳴り心臓が冷える。

 読みが、外れてしまった。

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