33 不穏と平穏
ジルと想いを通わせるようになって、早くも一ヶ月が経とうとしている。
交際は順調で、これまでは主にセラフィナの体調管理のために毎日書庫に行って会っていたのだが、今は手を握ったり肩を寄せ合ったり頬に触れたりといったスキンシップもしている。
人前ではクールだが二人きりの場だと情熱的になり――だが「これまで女性と触れる機会がほとんどなかったから……」と自分で言うように何かとピュアな恋人に、セラフィナもすっかり心を奪われていた。
同僚のジョランダやクロエも、「この前あの司書を見たけど、なんだか雰囲気が柔らかくなっているような気がしたわ」と言っており、「幸せそうなのが一番よ」と恋を応援してくれた。ジルはあの厚底眼鏡や猫背や雰囲気のせいで敬遠されがちだが、誠実で実直な人なのだと皆も気づいてくれたようでセラフィナも嬉しかった。
……ただ。
(……まさかこっちが、再発するとは)
宿舎棟にある自室の前で、セラフィナは難しい顔をして立っていた。彼女の足下――自分の部屋のドアの下部には、黒い封筒が差し込まれている。
こういう形で手紙が届くのは、これで三回目だ。中身には便せんが一枚だけ入っており、文面は何も書かれていない。念のために手袋を着けた手で触りラモンにも見せたが、呪術の気配は特に見当たらないとのことだった。
今回も念のために手袋をして便せんを引き抜き、中をあらためる。やはり中身は真っ白の便せん一枚で、日光に透かしても何も見えない。
(嫌がらせ……なのかな? 地味だけれど、真っ黒な封筒というのが不気味だわ……)
黒い封筒なんてそうそう売っていない。ジルに見せたところ、「これ、手製だね」とのことだった。わざわざ黒い画用紙を買って封筒の形に折って貼ってドアの隙間に差し込むなんて、何というやる気に満ちた暇人だろうか。
(黒……ということはきっと、悪意を表すのね。前、私にいたずらをしてきた人と同一人物かしら……)
念のためこれも、ラモンのところに持って行くつもりだ。ラモンも、「どうせ今回もいたずらだろう、と油断したタイミングで呪具を送りつけてくるかもしれない」と言っていた。
ひとまず手紙は部屋に置いておいて午後の仕事に行き、その後ジルに会いに第二書庫に行ったのだが。
「……えっ、また出張なの?」
「うん。でも今回はどんなに長くなっても一泊するだけだ。夕方に出発して翌日の昼過ぎには帰れるから、前のような症状は起こらないと思う」
ジルは申し訳なさそうに言い、そっとセラフィナの手に触れてきた。
「……本当に、ごめん。呪いの件が解決するまではできるだけ、出張はしたくないんだけど……」
「ううん、気にしないで。あなたにもやるべきことはあるのだし……それに一日くらいなら、きっと大丈夫よ。ただ今回も、あなたの衣類をちょっと借りたいわね」
「それはもちろん構わないし……」
そこでジルは一呼吸置いてから、視線をそらした。
「……その、前にも言ったけれど、僕の部屋に入っていいから」
「……。……それは」
「何度も言うけれど、見られたらいけないものは置いていない。ただ……好きな人に自分の私的な空間を見せるのがちょっと気恥ずかしかったんだ。でも、君の体調が一番だから照れている場合じゃないと分かっている。きちんと掃除もするよ」
急いた様子でジルが言うのでセラフィナはふふっと笑って、自分の右手に重ねられたジルの左手を挟むように左手を置いた。
「ありがとう。……でもジルの部屋にお邪魔するときは、あなたと一緒のときがいいわ」
「……そ、そうか。それじゃあ……ああ、そうだ。君には合い鍵を渡しているのだから、司書室を使いなよ」
「あ、そうね。ここならジルの匂いがいっぱいだから落ち着けそうだわ」
セラフィナは既に、ジルの部屋の合い鍵を受け取っている。その鍵束には他の鍵も下がっており、第二書庫の棟の入り口の扉と第二書庫のドア、そして司書室もこれで開けられた。ジルしか立ち入れない禁書室や資料庫の鍵は一つだけで、それはジルがいつも持ち歩いている。
「うん。それに本もあるから、好きなときに入って使えばいいよ。セラフィナなら本を大切にしてくれるし、ちゃんともとの位置に戻してくれるから」
「ふふ、司書様に信頼してもらえているようでよかったわ」
セラフィナは微笑んでから、鞄の中から鍵束を出してジルに見せた。
「それじゃあ……そうね。ちょうどジルが帰ってくる日はお仕事が休みだから、午前中に一度お邪魔しようかしら」
「そうだな。夜だと少し不安だが、日中なら変な輩もうろついていないだろう。でも、辛くなる前に対策を採るようにしてくれ。何かあればラモンさんに相談に行くように」
「ええ、分かっているわ」
鍵束をチャラチャラと鳴らせてから、セラフィナは束を鞄に戻した。そして――ふと顔を上げた際に、ジルと視線がぶつかった。
彼の近視はかなり重いようで、眼鏡をしなければ司書カウンターのところからでは入り口にいる人の顔も分からないくらいだという。
ただ、手元はよく見えるようだ。だからセラフィナと二人きりのときの彼はいつも、眼鏡を外している。彼曰く、「こっちの方がセラフィナの顔がよく見えるし、レンズに邪魔されないから」とのことだ。
眼鏡を掛けるとどこかもっさりとした印象のあるジルだが、今はまっすぐセラフィナを見つめている。トリスタンのような華やかな美形ではないが、眼鏡を外して真剣な顔をしているときのジルは思ったよりも男らしく、涼しげな灰色の目を見つめているとどきどきしてくる。
ジルの方も、何かを感じたらしい。そうっと彼の指先が持ち上がり、セラフィナの癖のある茶色の髪をつまんで指先に絡める。
いつも本を丁寧に取り扱う彼の指先は、細いけれどがっしりしている。本を傷つけないため短く切られた爪とかすかな傷跡のある指先が自分の髪を絡めるのを見ていると……なんだかとても艶めいたことをしているような気持ちになってきた。
「あ、あの、ジル」
「ん」
「髪……触っていて、楽しい?」
「んー……楽しいか楽しくないかで答えるのなら、楽しくはない」
ではなぜこんな真剣な様子で触っているのか。
「楽しいとかじゃなくて……愛おしい」
「えっ」
ジルは小さく笑って指を引き、するん、とセラフィナの髪の束を遊ばせた。
「僕の恋人は、髪の先まで可愛いんだな、って思いながら触っていた。だから、楽しいとか以上のもっと、こう……どろっとした感情が湧いてくる」
「……」
「こういう僕は、嫌い?」
「……。……嫌いになるわけないでしょ、馬鹿」
……顔が、熱い。
ジルが……あの何事にも無関心そうで基本的に無愛想な友人だった彼が、こんな顔でこんな言葉を吐くなんて……知らなかった。
(いたたまれない……というか、恥ずかしい!)
ぶんっと首を横に振って視線をそらし、セラフィナは席を立った。
「そ、そろそろ帰るわ! 明日はいつもより早く起きて、パーティーのために掃除をしないといけないの!」
「ああ……そういえばそんなことを言っていたな」
ジルはぼやいてから、残念そうに目尻を垂らした。
「……ということは、明日にパーティーなんて開かなかったらもっとセラフィナと一緒にいられたのか。ッチ、文句言ってやる……」
「誰に文句を言うつもりなのよ……」
文句を言うとしたら主催者である国王だろうが、伝説の軍師にもネチネチ文句を言うジルでも国王陛下に喧嘩を売ったりはしない……はずだと信じたい。




