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32 居酒屋にて

 行きつけの居酒屋は盛況だが、店の最奥にある個室周辺は呼び出しのベルを鳴らさない限りは店員も来ず、秘密の会話をするのにはうってつけだった。


「ここが、お嬢様のおっしゃっていた隠れ家ですね。なかなかよさそうな場所です」

「……どうも」

「あいにく俺は、こういう場所になじみがなくて。お勧めを伺ってもいいですか、ジルさん?」

「……僕のことは普通に、ジルと呼んでください。敬語も必要ありません」

「了解した、ジル」


 自分のお勧め料理を紹介しながら、ジルは自分の正面に座る男をじっと観察した。


 普段は活動に適した兵士の服を着用しているが、勤務時間外の今はラフなシャツとスラックスという格好。兵士に支給される剣の代わりに護身用のナイフを腰に下げているようだ。

 きっちりと整えた黒髪に、紺碧の目。容姿こそそれほど似ていないが、その目がジルの恋人と全く同じ色をしていたのだと分かった。


 料理が全て運ばれてから、セラフィナの異父兄――トリスタン・ガロはおもしろがるようにジルを見つめて口を開いた。


「それにしても、意外だね。君の方から俺を食事に誘ってくるなんて」

「……断られなくてよかったです」

「お嬢様の大切な人の頼みなんだから、断るわけないだろう」


 トリスタンはそう言ってから、「うまそうだな、いただこうか」と言って食前の祈りを捧げた。

 よく見るとその所作はとても洗練されていて――公式には認められていなくても彼が貴族令嬢の実兄であることを感じさせられた。事情を知る者しかいない屋敷の中では家族として、兄妹としてセラフィナと一緒に幸せに過ごしていたのだろう。


 ジルのテーブルマナーは、セラフィナはもちろんトリスタンにも遠く及ばない。育ちのせいかとにかく早食いの大食いで、「野良猫みたいだな」とからかわれたこともある。


 仕方ない。自分は所詮、野良猫なのだ。

 それこそ、セラフィナのような貴族のご令嬢と心を通わせたのが奇跡と思えるような……。


「……僕がセラフィナと交際していることについて、あなたやラミレス家の方々は何もおっしゃらないのですか」


 温かい肉料理にナイフを入れながらジルが尋ねると、大海老の殻を剥いていたトリスタンは顔を上げて微笑んだ。


「俺も旦那様たちも、お嬢様の幸せを一番に願っているからな。……お嬢様は、ラミレス家唯一の嫡子だ。いずれあの方が、ラミレス家を継がれる。……そんなお嬢様と交際することの意味、当然君は分かっているよな?」

「もちろんです」


 ジルはしっかりうなずいた。


 ジルは、貴族ではない。物心ついたときから彼の家族は母親一人だったが、彼女は生活費のために田舎の娼館で働いていた。ジルの父親が誰なのかは分からないが……当然、高貴な血の一滴も流れているはずがないと思っている。


 それでも、そんな自分でも、セラフィナを支えて生きていく覚悟は決めていた。それくらいの気持ちで、ジルはセラフィナの想いを受け入れているのだから。


 ジルはナイフとフォークをテーブルに置き、まっすぐトリスタンを見つめた。


「……本日あなたを夕食に誘ったのは、聞いてほしい話があるからです」

「ふぅん? ……それはもしかして、俺よりも先にお嬢様が聞くべき内容ではないのかな?」


 聡くトリスタンに突っ込まれたため、ジルは薄く笑った。


「いずれ、彼女にも言うつもりです。……実のところ僕は以前、この店であなたとセラフィナの関係を聞いたときにこの話をするつもりでした」

「しなかったんだね」

「はい、セラフィナに止められたので。だから僕は彼女に言われたとおり、自分が言いたいと思ったときに言うことにしました。……そうして、一番に――セラフィナの兄であるあなたに言うべきだと判断しました」


 ジルの抱える秘密は、セラフィナとトリスタンのそれに比べれば全くたいしたことがない。だがセラフィナが、「言いたいときに言って」と諭してくれた。だからジルは「今」がそのときだと判断した。


 海老の殻を外して指先を水で洗ったトリスタンは、柔和に微笑んだ。


「そういうことなら、聞かせてもらおうか」

「……はい」


 ジルはうなずき、呼吸を整えてから再び口を開いた。








 会話をしながら、二人は食事もしていた。おかげでジルが話し終えた頃には彼の皿は空っぽになっており、トリスタンの方も皿の底にパスタがあと少し残っている程度になっていた。


「……なるほど。それが以前、君が対価としてお嬢様に話そうと思っていた『秘密』なんだね」


 フォークの先でくるくるとパスタを巻きながら言うトリスタンは、笑顔だ。話の途中ではさすがに驚いた顔をしていた彼も、話を終えるとむしろすっきりとした表情になっていた。


「なんとなく違和感はあったけれど……そういうことだったのか」

「ご理解いただけたならよかったです」

「……なるほど。君はその気になったら、貴族の家に婿入りする覚悟はできているし……相応の『力』も持っているんだね」

「コネもありますが、そちらはなるべく使わないようにします」

「はは、そうだね。お嬢様もきっと、そっちの方がいいとおっしゃるだろう」


 パスタを完食したトリスタンは笑い、紙ナプキンをテーブルに置いた。


「……それで? お嬢様にはまたよいときを狙って、この話をするんだね?」

「そうします。……なんとなくですが、あまり遠くない未来の話だと思っています」

「そうか。お嬢様は君のことを信頼しているようだから心配はしていないが……よく考えて行動してほしい、とだけ言っておく」


 そう言ったときのトリスタンは、口元は緩められていたが目は笑っていなかった。護衛として――それ以上に兄としてセラフィナのことを案じ、愛しているのだと分かって、ジルも真面目にうなずいた。


「ご忠言、痛み入ります」

「……では、そろそろ帰ろうかな」

「ええ、よい時間を過ごせました」


 ジルとトリスタンはそれぞれ席を立ち、コートを身につけた。


「……そういえば、気になっていたんだけど」


 食事中は外していた眼鏡を掛けて個室を出ようとしたジルの背中に、トリスタンの声が掛かる。


「君、普段はその分厚い眼鏡を掛けているようだけど……本当に視力が悪いのか?」

「悪いですよ。生まれつきなので、ずっとです。これを掛けなかったら、世界が全てぼやけて見えます」

「……それでこれまで、やっていけたのか?」


 問われたジルは振り返り、不敵に微笑んだ。


「……ええ、問題ありません。色と方向さえ分かれば、十分なので」


 ジルの言葉に、トリスタンはしばし考え込み――何かに思い至ったらしく、乾いた笑い声を上げた。


「なるほど、それもそうだな。……君のことは敵に回してはいけないと、よく分かったよ」

「セラフィナがいる以上、僕があなたと敵対することはないでしょう。……ないように努めます」

「ああ、そうしたいところだ」


 男たちはそんな言葉を交わしながら、会計に向かった。

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