21 トリスタンの悩みごと
どうやら、ジルに対して剣士・クローヴィスの名は禁句であるようだ。ということで、彼に「英雄王の軌跡」を勧めることはできそうになかった。
「貸してくれてありがとう。これ、おもしろかったわ!」
「お嬢様に気に入っていただけて、俺も嬉しいです」
トリスタンに本を返すと、彼は本当に嬉しそうにはにかんだ。彼はそこまでの読書家ではなかったはずだが、同じ話題があるというのはやはり嬉しいものだ。
「本当はこれ、ジルにも紹介しようと思っていたのだけれど、あまり興味がなさそうだったのよ」
「ジル……ですか」
すると、それまでは笑顔だったトリスタンはふっと真顔になった。そして持っていた本を鞄に入れてからあたりをきょろきょろ見回し、セラフィナの方に身を寄せてきた。
「……このようなことを伺うのは無礼であると承知の上で、お尋ねします。お嬢様は第二書庫の司書であるジルのことを、本当に愛しているのですか?」
低い声で尋ねられて、セラフィナはどきっとした。
ジルとの関係が偽りのもので、呪術によるセラフィナの体への影響を緩和させるためである――というのは、ラモン以外誰にも言っていない。そして故郷の家族には、恋人ができたことも教えていなかった。
トリスタンにはすぐに、「お父様とお母様には教えないで」と口止めをお願いしている。トリスタンはそのときは快く了解してくれたが――今はどこか探るような目で、セラフィナを見ていた。
「もちろんよ。ジルの方から告白してきたのだけれど、私だって彼のことが……す、好きだし……」
「本当に、ですか?」
仕事仲間なら「熱いわねぇ」と流してくれるのだが、トリスタンは引っかかるところがあるようで質問を重ねてくる。子どもの頃から一緒に遊んで育った仲のトリスタンは、セラフィナがつく嘘に薄々気づいている……のかもしれない。
(でも、いくらトリスタン相手でも言えない……)
「ええ。それに……トリスタン。私はもう大人だから、自分のことは自分で決めるわ。ジルとの恋愛のことだって、責任を持ってお付き合いしているわ」
「……。……もちろん、分かっております。出過ぎたまねをしたことをお詫びします。が……」
トリスタンの深い青色の目が、まっすぐセラフィナを見つめてきた。
「……俺は、あなたに不幸せになってほしくない。恋をするにしても、幸せな恋をしてほしいと……心から思っています」
「……」
「俺の気持ち、分かってくれますよね?」
「……ええ、もちろんよ」
セラフィナは微笑み、トリスタンの手の甲をぽんぽんと叩いた。
「本当にあなたは昔から、心配性ねぇ」
「すみません、口うるさい存在で……」
「ふふ、いいのよ。……でも、まだお父様たちには何も言わないでね?」
「お嬢様がそうおっしゃるのなら」
トリスタンはそこでようやく笑顔になり、お辞儀をした。
「では、このトリスタンはお嬢様の恋を応援させていただきます。……相手が司書だろうと何だろうと、もしお嬢様を不幸にしようものなら全力で戦いますので」
「わ、分かったわ。ジルにも言っておくわね」
トリスタンが納得してくれた様子なのはありがたいが……このままではジルがトリスタンにぼこぼこにやられてしまいそうだ。
(恋人関係を解消することになっても、その方法はもうちょっと相談するべきね……)
そう思いトリスタンを見ていると――ふと、顔を上げた彼がぎょっと目を見開いた。
「っ……す、すみません、お嬢様。ちょっとこちらへ……!」
「え? ええ……」
いつも穏やかなトリスタンらしくもなく慌てた様子なのでセラフィナは文句を言わず、彼に従った。トリスタンと一緒に木陰に隠れてしばらくすると、さらさらと柔らかな布地が草に触れる音がした。
「間違いないわ。さっきこちらでお見かけしたの」
「……ですがお嬢様、どこにもいらっしゃいませんが……」
「もしかすると、詰め所の方に行かれたのかもしれませんよ?」
「それもそうね。……行くわよ」
数名の女性の声がしたが、すぐに足音は遠のいていった。
セラフィナとトリスタンはしばらくの間黙ってその場にいたが、やがてセラフィナは顔を上げた。
「……トリスタン、あの人たちから逃げていたの?」
「……」
「やっぱり、ああいう女性が怖いのね」
セラフィナが気遣うように言うと、トリスタンは青い顔でうなずいた。
平民が多く集まる兵士でありながら貴公子顔負けの整った容貌を持つトリスタンだが、かなりの女性恐怖症だ。幼い頃からずっと一緒にいるセラフィナや母親、中年以上の女性ならばともかく若い女性となると声が聞こえただけで青ざめている。
本人曰く、近くを通るだけなら問題ないし仕事の都合上話しかけることもあるが、仕事と割り切ればなんとかなるらしい。彼が極度に恐れるのは……自分に言い寄ってくる派手目な若い女性だ。
いくらセラフィナとはいえ「なぜなのか」と深くは聞けないが……女性関連で恐怖心を抱くような経験をしたことがあるのだろう。
(穏やかでおとなしい女性ならまだいいけれど、それでも世間話をするのは無理だって言っていたわね……)
「無理はしないでね」
「……すみません。はっきり言えたらいいのですが、最近俺によく声を掛けてくる女性は国王陛下の遠い親戚らしくて……」
なるほど、それではトリスタンも強くは言えないだろう。
「ラミレス家では風よけにもならないけれど、いざとなったらうちが全力であなたを守るわ。だから、一人で抱え込まないでね」
「……申し訳ありません、お嬢様」
「いいのいいの、お互い様じゃない」
話をしているとトリスタンも少し気持ちが落ち着いたようで、「水を飲んでから仕事に戻ります」と言って去っていった。
(……ジルのことに、トリスタンのこと。いろいろあるわね)
トリスタンを見送り宿舎の方に向かって歩きながら、うーん、とセラフィナは悩んでいた。
悩んでいたので――少し離れたところでこちらを見つめる者の存在に、気づかなかった。




