第13話
シャワーを浴びながら、さっきの棗との会話を思い出していた。
「嫁さんって…」
「あの場で穏便に専務の娘との結婚を断るには、丁度いい手だったんだ。専務と本家の女狐と皇輝の顔…見せてやりたかったぜ!!」
「…お前…そんな事の為に…」
「違う違う…」
そう言いながら、持って来た鞄等をベッドルームに運ぶと、棗は照れ臭そうに笑った。
「結婚は、前から考えてたんだ…だから、気にすんな」
「だが…」
「だから…婚姻届けに署名して、判迄付いて…女に渡す機会を探してたんだって」
「…相手は?」
「前に言ったろ?部屋に転がり込んで来た女…アレだ」
「…」
「ちょっとした因縁のある女でな…まぁ、そう言う事だ。今日ぐれぇは、顔見せてやりたくてな」
「馬鹿野郎!!…しばらく休んで、一緒に居てやれ!」
「何言ってる、こんな時に!?」
「一生の事だ…ちゃんと、新婚旅行も連れて行ってやれ!」
「そんな事を望む奴じゃねぇ」
「棗…ちゃんと式も挙げて…こんな生業だからこそ、キチンとしてやるべきなんだ!!」
「…」
「1つだけ、頼みがある」
「何だ?」
「彼女にだけは、内緒にしてやってくれないか?」
「彼女って…お嬢ちゃんか?何で…」
「いいから!!」
「セイヤ?」
「……自分が命を狙われいる時に…辛いだろ…」
「……わかった」
言い訳だった……確かにこんな状況で、他人の結婚を祝うのは厳しいだろうが、彼女はそんな女性じゃない。
きちんと割り切って『おめでとう』と言うだろう。
だが…俺は、違う意味で彼女の辛い顔を見たくなかったのだ。
シャワーから出ると、パジャマに着替えた彼女が、眼下に広がる夜景を自分の携帯で撮影しようとしていた。
よく撮影出来る様にと部屋の明かりを消してやると、彼女の手元から携帯が落ちてしまい…彼女は、その場にしゃがみ込んだのだ。
「萌奈美?」
いつまでも携帯を拾わない彼女を不振に思い近付くと、掌で口を塞いで床に俯せて震えている。
迂闊だった…音が聞こえない事で不安になっていた事を思い出し、そっと肩に手を置くと、手の隙間からくぐもった叫び声が漏れた。
「…ごめん」
慌てて彼女の携帯を拾い上げ、同じ言葉を打ち込んで見せると、片手で尚も口を押さえ込み、激しく首を振りながら俺のバスローブの袖を握り締めた。
どうすればいい!?
激しく動揺し、不安に震え…叫び出すのを必死で堪える彼女の手に自分の手を重ね、その躰を抱こうとすると胸に手を付いて拒まれる。
「萌奈美?」
俺の手をポンポンと叩き、彼女は立ち上がるとベッドの中に潜り込んだ。
さっき迄は俺を拒否する様な事はなかった…駐車場でも、俺の部屋でも、この腕の中で胸に縋り唇を重ね…。
俺に心を許したのではなかったのか?
ベッドの縁に座り、枕を抱き締めて横になる彼女の髪を撫でてやる。
ベッドサイドのランプを点けて、打ち込んだ携帯を見せた。
『少し話してもいい?』
頷く彼女に、再び携帯を見せる。
『森田さんと、何を話したの?』
眉を寄せてフルフルと頭を振ると、抱き締めた枕に顔を埋める。
やはり彼女の様子が変わったのは、森田さんと話した事が原因か…一体何を話したんだろう…。
『隣に寝てもいい?』
枕をずらして携帯を見せても頭を振るが、強引に彼女の横に潜り込んで背後から抱き締めた。
『何か言われた?』
そう打ち込んだ画面を見せると、ようやく携帯を受け取り操り出した。
『別に何もない。世間話をしただけ』
『じゃあ何故俺の事を避けるの?』
『別に避けてない』
『狙撃される前の事…まだ怒ってるの?』
『何?』
『あの後…気持ちが通じ合ったと思った』
フッと身を固くする彼女に、再び打ち込んだ画面を見せる。
『キスは恋人同士がするものだって言ったの、君だよね?』
しばらく逡巡していた彼女は、俺の手から携帯を受け取った。
『ごめん』
『どういう意味?』
『少し動揺して不安になっただけ』
『それだけ?』
そう尋ねた俺に返した回答は、思いもよらぬ物だった。
『明日、家に戻るよ』
『駄目だって言ったよね?その直後に狙われたの、わかってる!?』
『大丈夫だよ』
『大丈夫じゃない!!耳だって聞こえなくなってるのに!?』
『平気。前にも聞こえなくなった事あるし』
『叔母さん達にも、危害が加えられるかもしれない』
『それも平気。もう大丈夫。だから帰る』
『帰せる訳ない!!』
そう打った画面を見せると、彼女の躰を強引に仰向けにして、抱いている枕を取り上げると彼女に覆い被さった。
「帰せる訳がないだろう!?俺のせいでこんな事になってるんだぞ!?」
聞こえないにも関わらず、彼女は済まなそうな顔をして微笑んで見せた。
「…萌奈美」
顔を近付けると、彼女は俺の肩に手を付いて拒もうとする。
その手を握り込み、強引に彼女の唇を奪う…背けようとした顔を顎を捉えて深く口付けると、やがて彼女は観念した様に俺に身を任せ、解放した時には上気しながらも少し咎める様な表情を見せた。
「俺には守らせても貰えないのか?…やはり、棗の事が…」
そう呟いた時、彼女が不意に携帯を差し出した。
『聖さんは、私の事どうしたいの?』
意味がわからず、彼女の顔を見詰める。
『悪い人から守ってくれるのは、聖さんの事で巻き込んだからだよね?』
『そうだね』
『じゃあ、告白して抱き締めて…キスして、私の気持ちを翻弄するのは何故?』
何だ…何を言いたい?
『私は、ひと月前と一緒…聖さんの事、よく知らないままだよ?なのに聖さんは、私の気持ちばかり掻き乱す』
背筋に冷たい物が走り抜ける。
『聖さんは、私の事どうしたいの?』
『支えたい』
『どうやって?部屋に閉じ込めて?』
『守りたいんだ』
『じゃあ、狙われなくなったら?その時は役目が終わったから、私の事捨てるの?』
『そんな事はしない』
『じゃあ何だっていうの!?』
答えられずにいる俺に、彼女は怒りの眼差しを向けた。
『無責任に弄ぶのは止めて!!秘密主義で、自分の事何も話そうとしない聖さんの事で、モヤモヤしてどうしようもなく不安なの!一体私に、どうしろっていうの?』
『少なくとも、命を狙われている今は、俺の事を頼って!』
『それって、やっぱり今だけしか守ってくれないって事じゃない!やっぱり私は、聖さんの所に来るべきじゃなかったんだよ!!』
「…萌奈美」
そう打ち込む彼女の瞳が潤み、眦からポロリと涙が零れた。
家に戻る、来るべきじゃなかったと打ち込みながら、どうしてそんなに悲しそうな顔をして涙を流す?
俺は、自惚れてもいいのか?
「好きだよ」
「…」
「君が好きだ」
「…」
「本当は、この一件が片付いたら…君を元の世界に戻してあげなきゃいけないのはわかってる…でもね…」
何も聞こえない彼女に一方的に話すのは、反則であるのは重々承知していた。
だが、気持ちが抑えきれない…それに、聞こえないからこそ本音を口に出来る。
「…手離したくない…その気持ちばかりが膨れ上がる。どうすればいい?君を手離さないという事は、君をこっちの世界に引き擦り込む事だ。それに何よりも…俺は…君と一緒にはなれない。なのに…君を欲しいと思ってしまう」
彼女は、じっと俺を見上げていた…視線を逸らす事なく、真っ直ぐに…。
彼女の頬を包み込む様に撫で、クルクルとした巻き毛に指を絡めた…。
「その躰も心も俺だけのモノにして、その瞳に映るのは俺だけにしてしまいたいんだ。話し掛けるのも、笑い掛けるのも、俺だけにして欲しいと思ってしまう…可笑しいだろ?キモいよね?それでも、こうやって君に触れるのも、キスするのも…俺だけの特権にして欲しいんだ…」
「…」
「萌奈美…俺の半分と迄は言わない…せめて君が、俺の1/4でも俺の事を好きになってくれればいいのに…」
話をしながら、フワフワとした彼女の唇の感触を愛おしむ様に触れていた俺の親指を、突然彼女の舌がペロリと舐めた。
「!?」
瞠目する俺の反応にニヤリと笑い、今度は口に含んでしゃぶり出す。
「…それがどういう行為か、わかってやってる?」
「…」
わかる訳がないだろう…彼女の恋愛経験値はゼロに等しい筈だ。
「誘ってると誤解されても、仕方ないんだけどな」
「…」
指を引き抜こうとすると、口から出る寸前に今度はカリッと噛まれ、俺を見上げてヘニャリと笑った。
「…お仕置き」
俺は笑う彼女にのし掛かり、深く唇を奪った。
『お前は聖の恋人か?』
『違います』
森田さんに尋ねられ、そう打ち込んだ途端に胸がキュッとなった。
アレ?
…何よ…コレ?
『聖の気持ちは、聞いているのか?』
『告白は、されました』
『一緒になる気はないか?』
驚いて森田さんの顔を見詰めるが、別に冗談やからかいで書いている訳でもなさそうだ。
最近のヤクザって、如何にもって感じの人ばかりじゃないんだ…森田さんの最初の印象は、会社の社長さんみたいな人…。
肩幅が広く、めちゃくちゃスーツが似合う…スーツもネクタイも靴も上等で、上品なデザインだ。
お連れの黒いスーツの人達が居なかったら、絶対にヤクザなんかに見えない。
『一緒になるって、結婚するという事ですか?』
『そうだ』
『それって、所謂[極妻]って事ですか?』
『そうなるな』
真面目に答えられても困る…大体、告白されても付き合っている訳じゃないんだから!
恋人じゃないって言ったよね!?
なのに、何で結婚!?
意味不明だ…これがヤクザの思考なら、とことん世間からズレてる。
『私は聖さんの恋人でもないし、付き合ってもいません』
『その気はないか?』
まだ言うか、この人は!?
『おかしくないですか?プロセスをすっ飛ばして結婚というのは?』
『そうか?』
『それともヤクザの方々は、それが普通の事なんですか?』
『ヤクザは嫌いか?』
『大嫌いです!』
森田さんの口が少し緩んだ…怒っている訳ではなさそうだ…寧ろ、楽しんでる?
『どんな所が?』
ホラ…でも、正直に書いていいのかな?
聖さんの迷惑にならない?
チラリと聖さんの方に視線を向けると、森田さんが携帯の画面を見せた。
『大丈夫だ。聖に累は及ばない』
成る程ね…大人な対応…なら、遠慮なく。
『人の上前を撥ねる事しかしないのに、徒党を組んで偉そうにしている人達。意に介さない事があると、恐怖と暴力の手段を行使する団体。違法な事も、平気で手を染める…それが、貴殿方に対する世間一般の評価です』
『手厳しい。聖もそうだと?』
『わかりません。聖さんは、何も話してくれませんから』
『何も?』
『仕事の事も自分の事も、私には知られたくない様で、部下の人達にも口止めしている様です。だから私は、聖さんの事を何も知りません。ヤクザである事より前に、知らない人と結婚なんてあり得ないでしょう?』
『成る程』
『私がヤクザを嫌いな事を知っているから、聖さんは私に良い顔しか見せてくれません。好きだと言う割には、自分の気持ちを自己完結ばかりしてるみたいだし、関係性を発展させたくないのは、寧ろ聖さんの方だと思いますが?』
私は、チラリと聖さんを盗み見た。
『君の方はどう思っている?』
『今夜、少しだけ今迄と違う聖さんを見ました』
左手の掌の包帯を眺め、事務所での出来事を思い返していた。
あの時聖さんは…本当に真木さんの事を殺そうとしていたのだろうか?
顔付きも雰囲気も、いつもと全然違った。
ナイフを構えた彼に驚いて、止める事しか考えられなくて…無茶な事をしたけれど、直ぐにいつもの聖さんに戻ってくれたから、痛い思いはしたけれど、あれはあれで良かったのだと思う。
『少し怖かったけど…でも私には、優しくしてくれます』
『もしも、お前にその気かないのなら、早く離れた方がいい』
驚いて顔を上げると、優しく微笑まれた。
『お前の住む世界と、我々の住む世界は、全く違う。お前が聖を受け入れる事が出来ないと思うのであれば、早く離れなさい。聖の近くに居ては、余計に狙われる。離れるのであれば、しばらく私が護衛の者を付けよう』
聖さんから離れる…又胸がキュッと痛んだ。
近くに居るから狙われるの?
離れたら平気なの?
でも離れたら、二度とあの腕の中には戻れない…。
アレ…変だ…胸が痛いよ…。




