拝啓、竜殺しの英雄様──この婚約、破棄してください。
華やかな庭園を彩る、色とりどりの花々。
そして、その花々に負けないほど色鮮やかなドレスを身に纏う令嬢達。
その輪の端で、私はただ静かに席に座っていた。
王城で開催されたお茶会──そこに集う貴族令嬢の興味は、いつだって殿方のことばかり。
彼女達の人気を一心に集めているのは、他ならぬ竜殺しの英雄カルヴィン・ヘザー伯爵令息……私の婚約者だ。
「今日早くに到着しましたら、ヘザー伯爵令息──カルヴィン様とお会い出来ましたのよ!」
「まぁ、なんと羨ましい」
「あのお顔立ちに、あの強さ、逞しさ……彼ほどの紳士はおりませんわぁ」
お茶会の席に着いた女性達が、今日も彼の話題で盛り上がっている。
「あの頼もしい腕に、一度で良いから抱かれてみたいものですわ」
「あら、はしたない」
「でも、皆様そう思っていらっしゃるのではなくって?」
甲高い笑い声が響く。
分かっている。
誰もがカルヴィン・ヘザー令息を褒め称え、誰もが彼と近付くことを望んでいる。
そうして、私に言うのだ──『どうしてお前なんかが、彼の婚約者なんだ?』と。
私と彼の婚約は、彼が英雄と呼ばれるようになる、遙か以前──私達が子供の頃に結ばれた。
『オーガスタ……君を必ず幸せにする』
あの頃は、幸せだった。
親同士が決めた縁ではあったが、私もカルヴィン様も、お互いに想い合っていた──そう信じていたのに。
彼が“英雄”と呼ばれるようになって、全てが変わってしまった。
「聞きました? 王女殿下の件」
「ええ、なんでもカルヴィン様を護衛騎士にしたいと、陛下に駄々をこねたそうですわ」
「いくら王女殿下とはいえ、カルヴィン様を独り占めするのは……ねぇ」
「陛下直々に、聖国から来訪された聖女様の護衛を命じられたそうではありませんの」
ひそひそと、声を潜めた会話が耳に届く。
王位継承を巡る渦中にある王女殿下までもが、カルヴィン様にご執心だという噂。
一介の伯爵令嬢である私に、出来ることなど何もない。
ティーカップを持つ指先に、力が籠もる。
そんなの、分かりきったことだというのに──私達の婚約は、いまだ解消されてはいない。
「独り占めと言えば……」
令嬢の一人が、声を潜める。
顔を上げずとも分かる、突き刺さるような眼差し。
隣のテーブルに座る彼女達は、容赦無い視線をこちらに向けていた。
「よくもまぁ、恥ずかしげもなく社交の場に顔を出せるものですわね、彼女」
「カルヴィン様も、お可哀想に……いつまでも婚約者の座にしがみついて、みっともない」
吐き捨てるような言葉。
彼女達は、私の耳に入るであろうことを分かっていて、わざと声高に言っているのだ。
彼が有名人になった後も、私と彼との婚約は続いている。
ただし──今はもう、彼と時を同じくすることはない。
私はただの風除け、お飾りの婚約者なのだ。
「──王女殿下のご入場です」
係員の案内に、会場が静まり返る。
先ほどまで王女殿下のことを口にしていた彼女達も、一斉に立ち上がり、頭を垂れた。
優美な足取りで庭園へと現れた女性──美しいドレスを身に纏った、ドレスに負けないほどの華やかさを持つ王女殿下だ。
くるくるとした赤い巻き毛に、勝ち気な目元。
ハッキリとした顔立ちは、意志の強さを感じさせる。
「皆様、ようこそ私のお茶会へ。どうぞゆっくりしていらして」
扇で口元を隠して微笑む彼女こそが、このファリントン王国で最も気高い女性──キャスリーン・ファリントン殿下だ。
王女殿下が席に着かれて、お茶会が始まる。
貴族令嬢の嗜みとして、招待されたお茶会には顔を出したものの、私にとっては針の筵だ。
ここに居るだけで、如何に自分が惨めかを実感させられる。
皆の興味は、私ではなく私の婚約者であるカルヴィン様に向いている。
私はカルヴィン様を縛る邪魔者、皆が妄想する恋の障害でしかない。
それが私──オーガスタ・オールダムという存在だ。
お茶会を終え、馬車でオールダム伯爵家へと戻る。
お茶会での皆の関心は、カルヴィン様を射止めるのは王女殿下か聖国から来られた聖女様かという、その一事だった。
無論、王女殿下の居る前では、皆王女殿下の肩を持つ。
腹違いの王子殿下と継承争いを繰り広げている王女殿下にとって、カルヴィン様を射止めることは、形勢を後押しする大きな一手となるのだ。
……疲れた。
今の私に、カルヴィン様を繋ぎ止めたいという意思はない。
ただ、容赦なく向けられる視線に、悪意に──嫌気が差してしまった。
どうか、少しでも早く解放してほしい。
その為ならば、彼との関係も、もう終わらせても構わない──そう思っていたのに。
「オーガスタ、お前のせいで我がオールダム家は笑いものだ!!」
屋敷に帰った私を待ち受けていたのは、お父様の鋭い一喝だった。
オールダム伯爵家は、古い家門だ。
カルヴィン様のご実家ヘザー伯爵家とも対等の家柄であり、この婚約は両者が望んで結ばれたものだったはず。
それが、今はどうだ。
カルヴィン様の活躍により、ヘザー伯爵家は伯爵家から侯爵家へ陞爵の話が持ち上がっている。
誰もがヘザー家を指示し、オールダム家には見向きもしない。
さらには、オールダム家には私と言う笑いものが居る。
婚約者に捨てられる寸前の、哀れな女。
「申し訳ございません、お父様……」
実の父にまで詰られる自分が、あまりに惨めだった。
「良いか、これ以上我が家に恥をかかせるようであれば、お前を修道院送りにする」
お父様の声音は、冷え切っていた。
……今更お父様を恨む気にはなれない。
逆に、よくぞここまで我慢してくれたと思うべきだろう。
それほどに、私という存在が我が家の瑕疵となっているのだから。
「承知、いたしました……」
深々と頭を下げる私の眦からは、自然と涙が滲んでいた。
翌日、私はヘザー伯爵家を訪ねた。
今まで何度もカルヴィン様にお会いしたい旨の手紙を書いたが、返事が来たことは一度もない。
仕方なく、不調法とは思いつつも、直接屋敷を訪ねたのだが──、
「申し訳ございません、当家のご子息は王城でお勤めの最中です」
「そう、ですよね……」
執事が深々と頭を下げるのみだった。
「あの、いつでしたらお会い出来ますか?」
「さぁ、私には何とも……」
返る言葉も、素っ気ないものだ。
「都合の良い日時を連絡いただけるよう、お伝え願いますでしょうか」
「お伝えはしますが、お返事は約束しかねます」
口調こそ丁寧なものの、早く引き取ってほしいという態度が透けて見えていた。
彼が英雄と言われるようになってから、もう何度も繰り返されているやりとり。
彼と私との間には、あまりに厚い壁が立ち塞がっていた──。
王城で行われた王家主催の夜会。
私の隣に──カルヴィン様の姿はない。
この日までに文の一つも届かず、仕方なく婚約者が居る身でありながら、私は兄と共に入場していた。
「はー、ったく、勘弁してくれよ。お前と一緒だと、俺まで変な目で見られちまう」
兄のフィリップは、付き合うのも億劫だとばかりに頭を掻いた。
「ごめんなさい……」
実の兄まで、この有様だ。
お茶会以上に、夜会の場で、私の居場所などあるはずもない。
「俺はチェルシーの所に行ってくるから。もし帰るんなら、先に戻っていてくれ」
そう言って、兄は意中の女性のところに行ってしまった。
もう私には見向きもしない。
兄が居なくなると、自分一人が外界から取り残されたような気分だった。
私に声を掛ける者など、誰も居ない。
目立つ場所を避けるように壁際に陣取れば、自然と皆が話し合う声が聞こえてきた。
「見ました? 聖国から来られた聖女様の、なんと美しいこと!」
「ええ、それに付き従うカルヴィン様のお姿といい、まるで一枚の絵画のようですわ」
令嬢達の噂は、聖国から来られた聖女様の話題に集中していた。
ホッと胸を撫で下ろす。
「聖女様は、カルヴィン様の為にわざわざ来訪されたのでしょう?」
「あら、そうなの?」
「竜は死に際に呪いを残すと言われておりますものね」
「ええ、英雄様の体調を気遣って来られたのですって」
「なんてロマンチックなのかしら!」
まるで絵巻物のようなお話ね……当事者が自分の婚約者でなければ、私も胸をときめかせただろう。
「この分だと、王女殿下よりも聖女様の方が脈ありかしら」
「どうかしらね……殿下は相当ご執心なようですから」
婚約者である私は兄と入場したというのに、夜会には、カルヴィン様も来場されていた。
どうやら王女殿下のエスコート役として選ばれたらしい。
楽団が賑やかに音楽を奏で、ダンスが始まる。
彼のファーストダンスのお相手は──勿論、パートナーである王女殿下だ。
先ほどの女性達の声が思い起こされる。
カルヴィン様がステップを踏む度に、蜂蜜色の髪が舞う。
その様子に、ギャラリーから感嘆の声が漏れる。
……どうして、私はただ見ているだけなのだろう。
貴方の婚約者は、私なのに。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
手袋越しに指先を握りしめても、その感覚は消えてくれない。
一曲目の演奏が終わり、ワァァァァ……と歓声が上がる。
そうして、曲の合間──王女殿下とのダンスを終えたカルヴィン様に、声を掛ける女性が居た。
華やかなブロンドヘア。
人目を惹く美貌。
息を呑むほどに美しい女性が、カルヴィン様に手を差し伸べている。
「まぁ、聖女様よ!」
それが誰かは、周囲の反応で分かった。
聖国から来られたという聖女アンジェリア様だ。
声を掛けられた瞬間、カルヴィン様の表情が綻んだ。
周囲の女性達が、黄色い悲鳴を上げる。
……彼のあんな顔、初めて見た。
私でさえ見たことのない表情を、聖女様には見せるんだ。
「やっぱり、カルヴィン様の本命は、聖女様ではないかしら」
したり顔で噂話に興じる女性達。
ホールに集う人々が新たなパートナーを見つけ出した頃、再び、楽団が曲を奏で始めた。
そんな華やかな世界に背を向けて、私は一人、夜会の会場を後にした。
彼が幸せそうに踊る姿を、見たくなかったから──。
翌朝、私は王城の騎士団宿舎を訪ねた。
屋敷に行っても音沙汰が無いならば、直接宿舎を訪ねるしかない。
騎士達が宿舎を出る前の時間。
出勤前の騎士達が、慌ただしく行き交っている。
その中の一人に声を掛ければ、どこか笑みを含んだ反応が返ってきた。
「カルヴィン? あいつなら、昨夜は戻って来ていませんよ」
「……え?」
夜勤だったのかと思いかけて、すぐに気が付いた。
昨夜は、夜会が行われていた。
彼が出勤していたはずはない。
「なんでも私用とかで、パーティーの後に聖女様と一緒に行ったっきり──」
「おい待て、その人はあいつの婚約者だぞ!!」
「あっ……」
通りすがった別の騎士が、声を荒らげた。
対応してくれた騎士が、しまったとばかりに声を上げる。
「そう……ですか」
それ以上、言葉が出なかった。
それが何を意味するかは、分かりきっていたから。
「ご丁寧に、ありがとうございます。それでは……」
力無く騎士達に頭を下げ、宿舎を出る。
馬車に乗り込むまでの記憶は、酷く朧気だ。
自分が真っ直ぐに歩けていたかどうかさえ、自信がない。
仕事ではなく、私用で聖女様の元に向かって、朝まで帰らない。
それが、何を意味するのか。
考えないようにしても、浮かんでくる答えは一つしかなかった。
ボロボロと、涙が溢れてくる。
馬車の中、誰に見られることもなく──私は一人、声を上げて泣いた。
屋敷に戻れば、丁度お父様が外出の仕度をしているところだった。
慌ただしい時間と知りつつも、急ぎの用があると、声を掛ける。
「申し訳ございません、私は婚約者の心を繋ぎ止めることが出来ませんでした」
絞り出した声は、驚くほどに掠れていた。
じっと、お父様の視線が私に注がれる。
馬車から降りてそのまま目通りを願い、化粧を直してすらいない。
……きっと、酷い顔をしていることだろう。
「婚約破棄の申し出と、修道院への受け入れ手続きをお願いします」
「……分かった」
お父様の答えは、簡潔なものだった。
こうして、私の恋は終わった。
いえ──終わったことに、してしまったのかもしれない。
住み慣れた屋敷を出て、一人馬車に乗り込む。
積み込んだ荷物は、最低限。
同行するのは護衛の騎士三人と、雇われ御者のみ。
伯爵家の令嬢とは思えぬ、質素な旅。
目指すは、聖国との国境にある修道院。
途中、途中で宿を取りながら、長い旅路を揺られていた。
思えば、いつからだろう。
政略結婚の相手だったカルヴィン様を、これほど大事に思うようになったのは。
幼い頃のカルヴィン様は、英雄と呼ばれるようになるとは思えないほど、気弱な少年だった。
二人で領都の視察に歩いた時なんかは、大きな犬に怯えて、私の背に隠れていた。
だから──、
『大丈夫、私が守ってあげる!』
『本当?』
なんて、幼い約束を交わしたものだ。
私も犬が苦手だとカルヴィン様が知ったのは、屋敷に帰ってからのことだった。
あの時は、何度も頭を下げられたっけ。
ヘザー伯爵様に『男のくせに情けない』と叱られ、泣きながら謝っていた。
『ごめん、僕、もっと強くなるから……君に守られるんじゃなくて、僕が守れるように……!』
そう言って泣いていた幼い少年が、いつの間にか竜を倒すほどに強くなったなんて。
嘘みたいな、本当の話だ。
約束通り、彼は強くなった。
でも──今、私の隣に、彼の姿はない。
揺れる馬車の中には、私一人。
あと半日もすれば修道院に辿り着き、神に仕える身となるのだ。
「──あっ」
不意に、馬車が大きく跳ね上がった。
石の上にでも乗り上げたのかと思ったが、どうも外の様子がおかしい。
「魔獣だぁ!!」
「どうしてこんなところに、こんな大量に!?」
騎士達の、緊張した声が聞こえてきた。
……魔獣?
確かに修道院へは森の近くを通るけれど、街道にまで魔獣が現れるなんて、滅多にないはずなのに。
馬車の外で、獣のような唸り声が響く。
騎士達の必死な声と、ぶつかり合うような音。
ガラガラと車輪が激しく回り、馬車は勢いを増す。
「一体、どうなって──」
御者台を覗き込めば、雇い入れたはずの御者の姿は、そこにはない。
慌てて外の様子を確認しようと、窓に顔を寄せた瞬間──、
「──!!」
何かがぶつかって、ガラスが甲高い音を立てて割れた。
咄嗟に目を閉じる。
顔中に降り注ぐ破片を払うのだけで、精一杯だ。
「──お嬢様!!」
騎士の悲痛な叫び声が聞こえる。
先ほど窓ガラスにぶつかったのは、魔獣の牙を受けた騎士の身体だった。
彼は、大丈夫だろうか。
衝撃を受けたことで、馬車はますます加速している。
もはや、制する御者もいない。
「あ……」
突然の浮遊感。
一瞬の間を置いて、馬車は落ちていった。
暗闇の中、目を開けることさえ出来ず、光は感じられない。
あるのは、ただ痛みだけ。
まるで地獄の淵で足を滑らせた気分だ。
暗い闇に飲み込まれるように、私の意識はゆっくりと沈み込んでいった──。
気付いた時も、変わらぬ暗闇だった。
自分が微睡みの中に居るのか、それとも目覚めているのか……それすら定かではない。
ただ、身体が酷く痛んだ。
身を起こそうとして、誰かの腕に阻まれる。
「あ……」
寝ていろとばかりにベッドに横たえられ、布団をかけられる。
私は、魔獣に襲われて──馬車の事故に遭ったのではなかったか。
「あの、誰かが私を助けてくれたのでしょうか……?」
問いかける声は、酷く掠れていた。
しかし、起き上がるのを制してくれた人からは、返事はない。
代わりに歩く音と、扉を開く音が聞こえた。
「大丈夫でしたか?」
暫くして、優しそうな女性の声が聞こえてきた。
扉が閉まり、女性が傍に来てくれたらしい。
細い、柔らかな手指が私の頬を撫でる。
「良かった、三日も目を覚まさないから、心配していたの」
「三日……」
あの事故から、もう三日も経つのか。
いや、すぐに救出してもらえたとは限らないから、あるいはもっと日が経っているのかもしれない。
そっと目元に触れようとした手を、誰かが握りしめた。
まるで“触るな”とでも言うように。
大きく、逞しい掌──耳に聞こえる女性の声とは、とてもそぐわない手だった。
「手当はしたのだけれど、目の損傷が激しくて……もう少し、包帯はそのままにしておいた方がいいわ」
「そう、ですか」
包帯……なるほど、視界が闇に包まれているのは、包帯を巻かれているからなのか。
確かに、あの時割れたガラスを浴びてしまった。
眼球が傷付いていても、仕方が無い。
「あの、護衛は……騎士達は、どうなりましたか?」
私を守って、戦ってくれていたオールダム伯爵家の騎士達。
彼等は、無事に魔獣から逃げ延びただろうか。
「……一名は、どうにかこの修道院に助けを求めに来てくださいました」
「……一名は?」
それっきり、重苦しい沈黙が流れた。
護衛は、確か三人居たはず。
残る二人がどうなったか──私には言えないのだろうか。
それは、つまり──。
「……ごめ、なさ……」
「え?」
私の小さな声に、女性の声が重なる。
「ごめ、んなさい……私なんかを、守る為に……」
じんわりと、目元が熱くなる。
……目を閉じたままでも、涙って次々と溢れてくるんだ。
そんなこと、知りたくもなかった。
「……貴女が謝る必要はないわ。全ては魔獣の仕業と、不幸な事故だもの」
「でも、でも……っ」
ぽんぽんと、優しい手が肩を叩く。
ぎゅっと、抱きしめてくれる。
……温かい。
こんな風に誰かに優しくされたのは、いつぶりだろう。
「不幸な出来事が重なって、今はきっと、心が疲れているのね。暫くの間、ゆっくり休むといいわ」
「はい……」
女性の言葉に、小さく頷く。
「ほら、涙で包帯が濡れてしまったじゃない。すぐに取り替えないと、気持ち悪いわよ」
茶化すように笑ってくれる、女性の優しさが、有難かった。
こうして、予想していなかった形で、私の修道院生活が始まった。
暫くの間は治療中の客人扱いということで、修道女としての活動は免除された。
何かしようにも、目の見えない私が手伝おうとすれば、余計に場を混乱させてしまうだけだ。
手を伸ばしても、そこにあるはずのものに触れられない。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
そんな私を慰めてくれたのは、言葉を持たない彼とのやりとりだった。
最初に目覚めた時から、誰かの気配を感じていた。
絶えず傍に居て、見守ってくれている気配。
私が動こうとすれば、すぐさま手を差し出してくれる。
……大きくて、無骨な手。
常に見守ってくれている誰かの存在は、私の心の拠り所になっていた。
「貴方は、喋れないの?」
暫しの沈黙。
返事の代わりに、手を取られ……掌に指で“はい”と書かれた。
少し、くすぐったい。
「そっか……お話出来ないのは残念だけれど、こうすればやりとり出来るものね」
重なった手は、少し汗ばんでいた。
緊張しているのかしら。
「いつもお世話してくれて、ありがとう。これだけは、どうしても伝えたくって」
目は見えぬままに、彼が居るであろう方に声を掛けると、重なった手が微かに震えた。
なんだか、少し照れ臭い。
それから、名前も顔も知らない相手との奇妙なコミュニケーションが始まった。
掌に書かれるのは、短い言葉ばかりだ。
それでも、イエスかノーかは、ちゃんと伝わる。
修道院の人達は皆穏やかで、優しい人ばかりだ。
流れる空気が、王都とはまるで違う。
何より、いつも傍に私を気遣ってくれる人が居るというのが、心強く感じるからなのかもしれない。
食事の時には、いつも手を添えてくれる。
私が火傷しないよう温度にまで気を使って、スプーンを手に持たせ、時には口元まで運んでくれるのだ。
介助してくれるのは有難いけれど、いつまでも世話になってばかりでは、心苦しい。
「私にも、何か出来ればいいのに……」
そんな声に、彼はじっと耳を傾けていた。
「あっ、ち、違うのよ、変な意味じゃなくって、その、流石にじっとしているばかりじゃ、退屈だなーって……」
誤魔化すように慌てて続けた言葉は、果たしてどの程度伝わったものか。
皆が忙しなく動くこの修道院にあって、私だけが一人客人待遇で、何もしないどころか介助まで受けている。
私が何かしたいと言ったところで、それが受け入れられるとは思えないけれど……それでも、ただじっとしているだけのこの身が、酷くもどかしかった。
彼が私の部屋に荷物を運び入れたのは、その翌日のことだった。
「なぁに?」
声を掛けたところで、返る言葉はない。
それを分かっていて、独り言のように私も言葉を紡いでいるのだ。
そっと、彼の手が私の手を取る。
掌に描かれたのは──、
「し、しゅう?」
──“刺繍”の文字。
屋敷に居る時は、余った時間にいつも刺繍をしていた。
針の使い方は身体が覚えているから、これなら目が見えなくても、ある程度は出来るかもしれない。
「貴方にもお手伝いをお願いすることになるけれど、良いかしら?」
返事の代わりに、力強く掌が握られた。
その日から、退屈なんて言葉は無縁となった。
糸の色を指定すれば、彼が針に糸を通してくれる。
刺繍枠に張った布地を、指で触って確認する。
一針、一針ずつ糸を潜らせ、出来上がった形を指でなぞる。
不思議なもので、目が見えない分、指先の感触が研ぎ澄まされているのが分かる。
使った糸の色も、どの色でどこを縫ったのかも、全て覚えている。
目には見えないけれど、脳裏には、確かに完成した絵が浮かび上がっていた。
「ちゃんと、出来ているかしら」
不安に駆られて、ふと声を零してしまった。
脳裏に浮かんだ絵なんて全ては幻想で、いざ目にしてみたら、とても見られたものではないのかもしれない。
それも、十分に有り得ることだ。
そっと、彼の手が私の手を取る。
針を扱うようになってからというもの、彼の動きは、前にも増して慎重になった。
“大丈夫”
“素晴らしいよ”
辿々しく、掌に書かれた文字。
その不器用な優しさに、じんわりと心が温かくなる。
彼が居てくれるから、この光のない世界でも、私は息苦しさを感じずに居られる。
無限に続く暗闇の中で、彼の存在だけが、確かな輪郭を象っていた。
目が見えない生活にも慣れてきた頃、日々少しずつ修道院が慌ただしく感じられるようになった。
どうやら、偉い誰かがこの修道院に来るらしい。
修道院といえば、教会の管轄。
私が王都を発つ前は、聖国から聖女様がいらっしゃっていた。
今度は、王都でお見かけした聖女アンジェリア様よりも、さらに位の高い御方らしい。
筆頭聖女であらせられる、ダーナ様がファリントン王国を訪れるらしい。
筆頭聖女様が聖国を出るなど、滅多にないことだ。
この教会でも、筆頭聖女様を迎え入れるべく、準備が進められた。
とはいえ、目の見えぬ私に出来ることは少ない。
せいぜい皆の邪魔にならぬよう、自分に出来ることは自分でやるだけで精一杯だ。
聖国から筆頭聖女様がお見えになるのに先だって、王都に滞在していた聖女アンジェリア様が国境の修道院を訪れた。
私にとっては気まずい相手だが、向こうは私の顔を知るはずもない。
ましてや、今の私は貴族令嬢ですらない──目の見えない修道女なのだ。
「今日は、王都から聖女様がお見えです。大丈夫、筆頭聖女様がお越しになる前の、予行演習と思いましょう。皆さん、緊張する必要はありませんからね」
そう言って皆を奮い立たせる修道女の声は、どこか緊張を孕んでいた。
やはり教会関係者にとって、聖女様は特別な存在らしい。
目の見えぬ私も、修道院の一員として聖女様を出迎えることになった。
皆と並んで修道院の前庭に立ち、聖女様の到着を待つ。
頬を撫でる風は心地よく、王都とは違う匂いが感じられた。
やがて、馬車の音がゆっくりと近付いてくる──。
「……っ」
車輪の音に、僅かに身を竦めてしまう。
大丈夫、ここは街道ではない。
もう、安全な修道院なのだから──そう自分に言い聞かせ、ゆっくり深呼吸をして、息を整える。
そっと、肩を抱く手があった。
彼が私の怯えに気づき、力づけようとしてくれているのだ。
「ありがとう、大丈夫だから……」
そうしている間にも馬車の音は止まり、皆が息を呑む気配が伝わってきた。
誰かが馬車から降りてくる気配……あのお美しい聖女アンジェリア様が、この修道院を訪れたのだ。
「聖女様、お待ち申し上げておりました」
「お出迎え、ありがとうございます」
鈴を転がすような、美しい声音。
そうして、聖女様が歩く衣擦れの音が近付いてきて──私の前で、ピタリと止まった。
「──あなたは……」
聖女様が、小さく呟く。
どなたか、知り合いでもいらっしゃったのだろうか。
「……目が、見えないのですか?」
「ええ、馬車に乗っている時に、魔獣に襲われてしまって……ガラスの破片で、目を傷付けたのです」
「まぁ……」
聖女様の気遣わしげな声。
ああ、この方は見た目だけではなく、心まで綺麗なのだ。
だからこそ、カルヴィン様が彼女に心を許したのね……。
「私ではまだ力不足で、高度な治療行為は行えません。でも、筆頭聖女様ならば、きっと貴女の目も治せるはずです」
「いえ、私はそのような……」
「いいえ、治していただくべきです」
首を振る私の手を、聖女様が握りしめる。
「貴女には……」
一瞬、言葉が途切れる。
「いいえ。貴女達には、幸せになる権利があるのですから」
……貴方達?
表現は少し気になったが、聖女様は本当にお優しい方だ。
彼女ならば、きっと彼のことを幸せにしてくれるのだろう……そう思えば、闇に包まれたままの眦が、ほんのり熱くなった。
そしてついに、筆頭聖女様が修道院を訪れる日が来た。
国境の修道院は、前とは比べものにならないほどの緊張感に包まれていた。
「旅程がかなり短縮されましたね。年寄りの身には、助かります」
馬車から降りたらしい筆頭聖女様が、苦笑混じりに零した言葉。
……旅程が短縮?
彼女はこのまま、王都に向かうのではないのだろうか。
不思議に思う私の元に、ゆっくりと足音が近付いてくる。
足音は、真っ直ぐこちらに向かっていた。
……まさか、筆頭聖女様が私の元に?
「可哀想に、目が見えないのね」
耳に響いた声は、慈愛に満ちていた。
そっと、頬に触れる指先。
温かな手。
「あ……」
指先から、じんわりと熱が広がっていく。
目元全体を覆う熱は、それまで残っていた違和感も、僅かな異物感も──全てを消し去っていた。
「……さぁ、包帯を外してごらんなさい」
言われるままに、後頭部の結び目を解いて、包帯を外す。
身体を綺麗にする時以外、ずっと包帯を付けたままだったから、外気がやけにひんやりして感じられた。
そっと、目を開く。
目の前には、目元に優しげな皺を刻んだ、老婆の顔。
──この方が、筆頭聖女様だろうか。
「よく、頑張りましたね」
「……はい」
世界中の光が一気に押し寄せてきたみたいで、とても眩しい。
眩しくて、筆頭聖女様の顔もまともに見ていられない。
そうしているうちに、視界が歪んできて──いや、違う。
これは私の目が涙で濡れているんだ。
「ありがとう、ござい、ます……!」
筆頭聖女様は、そんな私を優しく抱きしめてくれた。
「……さぁ、癒やさなければならない方が、もう一人」
そう言って、私の身体から離れた筆頭聖女様は、私の背後に立つ人物を見上げた。
「え──?」
……信じられなかった。
どうして、彼がここに?
先ほどまで目が見えなかった私の背後には、婚約者であるカルヴィン様が立っていたのだ。
いや、違う。
彼との関係は、私から終わらせたんだ。
私はもう、彼の婚約者ではない。
おかしい、こんなことは有り得ない。
だって、私のすぐ後ろには、ずっとこの修道院での生活を支えてくれたあの人が立っていたはず。
なのに、どうしてカルヴィン様がここに居るの……?
「呪いは、傷を癒やすより時間がかかります。暫しお待ちを」
筆頭聖女様の言葉が、耳を打つ。
呪い? カルヴィン様は、一体どのような呪いに罹っていたというのか。
……そこで、はたと思い出した。
そうだ、彼は竜殺しの英雄だ。
竜は、死の間際に呪いを残すと言う。
自らを殺した相手を、生涯苦しめる為の呪い。
彼は、今までそんな呪いに冒されていたというの──?
筆頭聖女様が、手を伸ばす。
その前に立つカルヴィン様は、目を閉じ、拳を握りしめていた。
……太く、大きな手。
彼がここに居るのなら──今まで私を世話してくれていた、あの人はどこに居るのだろう。
柔らかな光が、カルヴィン様を包み込む。
周囲から、ほぅ……と感嘆の息が漏れた。
私が治療して貰った時も、このような感じだったのだろうか。
全てを癒やす、心まで温かくなるような、神聖な光。
その光が、全てカルヴィン様の身体に吸い込まれていって──全てが収まった時、彼の碧眼がゆっくりと見開かれた。
その瞳が数度瞬いた後、ゆっくりと動く。
視線が向けられた先は──私の元だ。
「──オーガスタ!!」
「え……」
彼が──カルヴィン様が、私の名を呼んだ。
もう、とうに忘れ去られたものだとばかり思っていたのに。
真っ直ぐこちらに駆けてくる姿。
靡く髪。
どれも昔のように懐かしく感じられて……ズキリと、胸が痛む。
ああ、私はまだ彼のことが──。
「──っ」
突然、全身に熱を感じる。
強く抱きしめられ、心臓がうるさく鳴り響く。
どうして……どうして、私はカルヴィン様に抱きしめられているの?
「どれだけ……どれだけ、この日を待ちわびていたことか……」
「カルヴィン、様……?」
ふと、頬に熱い物が滴って、上を向く。
見上げた彼の顔は、涙に濡れていた。
「オーガスタ、ごめん……ずっと、君に何て言っていいか分からなくて……どうにかして呪いを解こうと、そればかり考えていた」
「呪い……」
彼が受けたという、竜の呪い。
それは一体、どのようなものだったのだろう。
「それが、君を傷付ける結果になってしまって……俺は、馬鹿だったんだ。最初から、ああやって君とコミュニケーションを取れば良かったんだな……」
彼の言っていることが、よく分からない。
私とのコミュニケーション?
コミュニケーションも何も、竜討伐から帰ってきた時から──彼は一度も、私と向き合ってはくれなかったではないか。
「俺は、俺は……」
溢れる涙は嗚咽となり、カルヴィン様は無言のまま私を強く抱きしめた。
どうして……状況が理解出来ず、疑問符ばかりが浮かんでしまう。
「彼は、竜の呪いで……大事な人との時間を奪われたの」
カルヴィン様の背中越しにかけられた、筆頭聖女様の声。
「え……?」
大事な人との時間とは、どういうことだろう。
「彼は……一番大切な人にだけ、言葉が届かなくなっていたの」
「言葉が……?」
全てが驚きに満ちていた。
言葉が、届かない──しかも、一番大切な人に?
ならば、彼に今まで避けられていると感じていたのは……。
「私は、嫌われているのだとばかり……」
「──そんな訳ない!!」
大きな声と共に、抱きしめる腕に力が籠もる。
「だって、私はお飾りの婚約者で……カルヴィン様にとっては、風除けの存在で……」
「そんなのは、社交界の連中が勝手に言っていることだ」
カルヴィン様の手が、頬を撫でる。
大きくて、無骨な手……ああ、私はこの手を知っている。
「君のことが一番大事だからこそ、君とだけは、話をすることが出来なくなっていたんだ……」
優しい指先。
私のことを慈しむように頬を撫で、髪を梳く。
「ここで、私と筆談を交わしていたのは……」
カルヴィン様が、ゆっくりと頷く。
彼は、私を見限った訳ではなかったんだ。
婚約破棄の申し出をして、家を出た私を追って──この修道院で、一緒に居てくれたんだ。
「婚約破棄の申し出は、家に留め置いてある。確かに、俺の行いは、婚約を破棄されるに十分な物だった──だが、俺は、君との将来を諦めたくはない」
「でも、貴方には、大事な人が──」
そうだ、彼は聖女様と思いを通じ合わせたはず。
身を強張らせた私の上で、小さな舌打ちが響いた。
「あいつら……同僚から聞いたんだろう? 面白おかしく好き勝手なことばかり……」
舌打ちの次は、大きなため息が零れた。
「ごめんなさい、私のせいで誤解させてしまいましたね……」
カルヴィン様の腕から抜け出すようにして振り返ると、聖女アンジェリア様が深々と頭を垂れていた。
「聖女様!? そのような──」
「いいえ、いくら解呪に挑戦する為とはいえ、婚約者の居る方を一晩拘束するなど、配慮に欠けた行いでした」
……解呪に挑戦?
では、あの日──聖女様とカルヴィン様は、呪いを解く為に一緒に居たというのか。
「しかも、力不足で呪いを解くには至らず、こうして筆頭聖女様にご足労願うことになってしまって……」
「まったくですよ、アンジェリア。まだまだ修行が足りません」
筆頭聖女様の笑い声が響く。
全ては、私の誤解だったということだろうか。
「聖女様にお越しいただき、解呪をお願いすることを条件に、王女殿下のエスコート役を引き受けたんだ」
「え……」
なんと、聖女様方は彼の呪いを解く為に、この国に来られたとは。
「俺は……怖かったんだ。君に何も言えない自分が。君の前で黙るしかない自分が」
カルヴィン様の声には、悔しさが滲んでいる。
「もっと、ちゃんと君と向き合うべきだったのに……俺は、なんて馬鹿だったんだ……」
再び私を抱きしめ、肩口に顔を埋めるカルヴィン様。
彼の話が真実ならば──まだ婚約破棄の手続きは進んではいないということで……。
「私は……まだ、貴方の婚約者でいられるのですか……?」
問いかける声は、酷く震えていた。
彼は、答えるより先に、私の手を強く握った。
小刻みに震える手が、何より雄弁に語っていた。
「当たり前だ!! ……いや、これは俺の方から聞くべきだな」
彼の手が、私の手を取る。
私の前に膝を着いたカルヴィン様が、手の甲にそっと唇を押し当てた。
「俺と結婚してくれないか、オーガスタ。俺には、君しかいないんだ」
「カルヴィン様……」
涙で、視界が霞んでくる。
一度は、諦めた恋だった。
ここで身を引いた方が、彼の為だと思っていた。
だというのに……彼は、私の為に奔走してくれていたなんて。
「勿論です、喜んで」
「──ありがとう!!」
再び強い腕に抱かれると同時に、歓声が沸き起こる。
修道院の人々が、温かな拍手を送ってくれていた。
王都に戻った私達を出迎えたのは、王女殿下が投獄されたという驚くべき報せだった。
いや、驚いたのは私だけで、カルヴィン様はもう知っていたのかもしれない。
彼は無言のまま、唇を引き結んでいた。
私が乗る馬車が襲撃されたのは、雇い入れた御者が香を炊いて魔獣を呼び寄せたからだとか。
全ては王女殿下の指示だったと、囚われた御者が白状した。
貴族令嬢である私の殺害は未遂に終わったが、この襲撃で、伯爵家の若い騎士が命を落とした。
王女殿下は、襲撃事件の首謀者として、生涯を白い塔で過ごすことが決まった。
「すまないな、疲れているだろうところをすぐに呼び出してしまって」
「いえ……」
私とカルヴィン様は、王城の一室に招致された。
私達を招いたのは、政敵である王女殿下の失脚により王太子の地位に就いた、トラヴィス・ファリントン殿下だ。
「全て上手く纏まったのは、君達のおかげだ。オールダム伯爵令嬢を害してまで、英雄どのを手に入れたかったのだろうが……いやはや、我が異母姉ながらに恐ろしい」
私が知る社交界の噂では、王太子殿下──当時の王子殿下は、竜殺しの英雄を嫌い、牽制していたと聞いている。
それも、彼が王女殿下の婿となり、王位継承で優位に立つことを恐れてのことだったのだろうか。
……私達は、知らないところで政争に巻き込まれていたのだ。
「して、君には改めて褒美をとらねばな」
王太子殿下の言葉に、カルヴィン様が深々と頭を垂れる。
「騎士団長の座も、陞爵も、望みのままだ。何でも言うがいい」
「であれば、一つだけ」
カルヴィン様の言葉に、王太子殿下がゆっくりと頷く。
「我等は結婚式の後、領地に戻って伯爵領で静かに暮らしていきますので、これ以上の関与はご遠慮願いたい」
「……は?」
王太子殿下の上擦った声。
王子様然とした美貌の彼が、大きく瞳を見開いていた。
「私の望みは、彼女と静かに暮らすこと……もうこれ以上の面倒事は、勘弁願いたい」
「──待て、地位も財産も要らぬと申すか!?」
「はい、私が求めていた者は、もう手に入れましたので」
彼の逞しい手が、私の肩を抱く。
一度は失った声を、彼は取り戻した。
それ以上、もう願う物は何もない。
「それでは、失礼します」
「あ──」
呆然とする王太子殿下を他所に、カルヴィン様が謁見の間を後にする。
私も殿下に一礼すると、彼の後に続いた。
「……良かったのですか?」
「何がだ」
「騎士団長の座です。憧れていたのでは?」
幼い頃から、彼は剣の腕を磨き続けていた。
それ全て、強い騎士になる為──そう思っていたのだが。
「……俺が剣を習い始めたのは、君の為だ」
「え……?」
突然の告白に、数度瞳を瞬かせる。
彼が強くなったのは、私の為……?
「約束しただろう──必ず、君を守ると」
そうだ。
犬に怯えていた幼い少年が、泣きながら誓ったこと。
『僕、もっと強くなるから……君に守られるんじゃなくて、僕が守れるように……!』
彼は、それを守る為に腕を磨いたんだ。
竜殺しの英雄と呼ばれるまでに。
「……君こそ、良いのか? 一度は、婚約の破棄まで決意したはず──いや」
カルヴィン様が、らしくもなく、口籠もる。
「今更結婚はお預けと言われても、俺はもう、我慢出来る気はしないのだが」
「もう、婚約破棄なんて言いませんよ」
私は、彼がどれだけ私のことを愛してくれているか……知ってしまったから。
彼が一瞬声を詰まらせた後、私の身体は、カルヴィン様の逞しい腕に包まれていた。
──拝啓、竜殺しの英雄様。
あの時、婚約の破棄を願った私を、どうかお許しください。
不束者ではありますが、末永くよろしくお願い申し上げます。









