14恐怖飛蝗男
右足前、左足後と、左右を真っ直ぐ前後に並べる様に立ち、アルトは珍しくも『胴田貫』を下段に構えた。
下段、とは剣先を下げた構えである。
本来の下段は相手の足を狙ったり、襲い来る敵に迎え突きを食らわせたりと言った奇策的な使い方が多い。上半身ががら空きになるので誘いにも使える。
だがアルトはそうした攻防的な思惑で構えたわけではなかった。
4ラウンド目、偽アルトを討ち果たしていざ向かう敵は、かの蓬色の昆虫じみた怪人であり、またそれは姿が変わり果てたアルトの義理の家族である可能性を秘めていた。
正体がわからない。だが、だからこそ可能性が排除できない。
あれがもしアルトの思う様に「ライナス傭兵団」の団員であるなら、どうすれば助ける事ができるのだろうか。
あちこち節くれ立ったおぞましい人型の化け物。今、同じ隊にいる『学者』カリストは『合成獣』だと言った。
おそらく今回の事件の首領であるドクター・アビスが、『錬金術』の秘術を用いて作り出したのだろう。
果たして、この戦闘を乗り切って助けたとして、この怪物を元の人間に戻す事ができるのか。
いや、それ以前の話もある。
この蓬色の怪人の能力を先日に垣間見たが、全力で戦って勝つ事もまた難しいと思われる。
一筋の光明と言えば、怪人の左腕に着けられた、鳥の羽の様な飾りをあしらった地味な鉛色の腕輪だ。
これもまた『合成獣』の成り立ち同様に推定でしかないが、彼はこの腕輪の力でドクター・アビスの命令を聞かされているのだろう。
ならば、この腕輪を奪う、または破壊さえすれば救えるのではないか。
だがそこでもまた、この怪人からいかに奪えるのか、が問題となるのだ。
さっきから数秒にも満たない短い思考ではあるが、アルトの脳内をぐるぐると巡るのはそういった考えだった。
「アルトさん。迷っているのは判りますが、このラウンドを放棄するつもりですか」
そんな堂々巡りの最中、後衛にいるねこ耳童女のベルトポーチからの声でアルトはハッと目を覚ました。
そうだ、今は戦闘中であり、躊躇一瞬が死に繋がることもある。
そう言う意味では、ここがゲームルールに支配される世界で良かったと言える。
ルールには「ボーっとしていたから回避にペナルティ」とは書かれていないのだ。
だからアルトはハッとしつつも、まだ躊躇していた。先に、自分と同じ姿をしたゴーレムには見せなかった躊躇だ。
大事な仲間や家族に斬りつける事に比べれば、自分を殺すなどどれ程に楽か。
だが、そんな一瞬の躊躇を打ち破るように、背中越しに振り返った怪人は、静かに頷きながらも右手の指をそろえて2度、扇ぐ様に振った。
言うまでもなく「来い」と言う意味のサインである。戦闘中であることを考えれば挑発だったのかもしれない。
「アっくん、舐められてるにゃ。やっちゃえ!」
正しく挑発と取ったマーベルが叫ぶ。まるで頭から湯気が噴出しているのが見える様な沸騰っぷりだ。
しかしアルトは彼女とは別の意味で、頭を沸騰させていた。頭には血が昇りカッとなりつつも、その表情は蒼ざめる。
彼には、この怪人の正体が透けて見えたのだ。
「おまえ…、まさかファルケか」
そんなアルトに呟きに、怪人は応えずフイっと視線を前方のバーター中佐へと戻すのだった。
アルト・ライナーと言う少年が孤児であり、『ライナス傭兵団』で拾われて育った事はすでに何度か述べた。
また『ライナス傭兵団』にはアルト同様の拾い児がいたのだが、その一人がファルケと言う少年である。
ファルケはアルトの一つ年上で、傭兵団ではアルトの義兄とされていた。また、年長のルクス、アルトと同年のエイリーク。この4人が義兄弟として育てられた。
そう言えば夏ごろ再会したエイリークの依頼で、このファルケの実姉に会いに行ったのも記憶に新しい。
そのファルケの姿が、このおぞましい怪人に重なった。
これは正しく義兄弟だ。アルトは確信を持って固唾を飲む。飲み込み、一種吹っ切れた様に剣先をツイと上げ、中段に構えなおした。
迷いは、ある。だがお互い引けぬのだ。
片や自分の受けた仕事の為、ひいては街の平和のため。片や、忌々しくも腕輪の強制力により与えられた抹殺命令の為。
「さてそろそろワタクシは隠れさせてもらいますぞ」
「おっちゃん、気ィつけてな」
前衛でアルトたちの無言のやり取りがあった直前の話だ。
その最後衛では3ラウンド目の順番の最後となるレッドグースがそう言い残して闇夜に消える。
ご存知、『盗賊』のスキル、『ハイディング』だ。
この戦力も足りない大事な戦闘中に、と思う向きもあるかもしれない。だが、実は彼の役目はこの戦闘が始まる前で終わっているのだ。
西部方面軍所属騎士を大動員してボーウェン市内の捜査網を敷き、敵暗殺者を釣り上げる。
その作戦の核となる『噂の流布』こそが彼の仕事であった。「大捜索が行われている」と言う事と、「作戦本部の場所」が噂の内容である。
『ワイルドルーマー』と言うスキルが『吟遊詩人』にはある。言葉の意味としては、流言、飛語と言ったところだ。
メリクルリングRPGにおいてこのスキルは、その名の示すと通り、様々な噂を街に広める事ができる技術だ。
時に酒場で、時に詩に乗せ、『吟遊詩人』はこのスキルに費やす時間とランクによって、より深く噂を浸透させる。
この度レッドグースが利用したのも、このスキルである。
そう言うわけで一仕事終えたレッドグースは姿を消した。
そして直後から第4ラウンドが始まるのだ。
昆虫怪人の挑発とも取れるハンドサインでアルトはやっとやる気になった。
訓練は実践のつもりで、だが実戦は訓練の様に。とは、いつか戦いに思い悩んでいた時にレッドグースが彼に語ったご高説であるが、アルトの脳裏に映る朧気な偽りの記憶の中では、『ライナス傭兵団』の訓練でもよく聞かされた言葉だった。
その『ライナス傭兵団』にいた頃、もっとも多く訓練で剣を交わしたのが、同じ『傭兵』で義兄弟のルクス、そしてファルケだった。
つまり眼前の怪人が本当にファルケであれば、これは意識の上ではもう訓練と同じであった。
「参る」
気を引き締める為の一言と共に、中段に構えた『胴田貫』を八相に引き上げる。
4ラウンド目の一番初めの行動順は、どうやらアルトだったらしい。
味方内の魔法使い達は彼の行動を見定める為に先を譲り、蓬色の怪人もまた様子見のつもりなのか行動を控えていた。
「アルト君、同時に掛かるぞ」
さらに敏捷同点位だったのが、怪人を挟んで向こう側で『両刃の長剣』を構えるバーター中佐だ。
2人は怪人を前後から睨みつけつつ、前に出した右足の指で数ミリだけにじり寄る。いや、傍目にはそう見えるが、これは体重移動の結果による動作だ。
すなわち、次の瞬間に2人の剣が同時に動いた。
「秘剣『ツバメ返し』!」
「『セイバーアクセル』ランク2!」
袈裟懸けに斬り下ろされる『胴田貫』、喉元に向けられる鋭い『両刃の長剣』の突き。各々の一撃目が襲い掛かる。
だが怪人は無駄が見えない涼しい動作で半身を引き、『胴田貫』も『両刃の長剣』も空を割いた。しかしアルトたちの攻撃もまだまだここからだ。
まずアルトの『胴田貫』が床のスレスレで反転、逆袈裟に跳ね上がる。
そしてバーター中佐は『両刃の長剣』の残像を僅かに残しつつ、横薙ぎに振るう。
今度は別々の方向から斬撃だ。それでも、互いの剣が彼を傷つける事は叶わない。
強く握って下げた右拳が、跳ね上がる『胴田貫』を、立てた左手甲が、横薙ぎの『両刃の長剣』をそれぞれ受け止める。
人間大に巨大化した昆虫の恐るべき甲殻は、まさに全身鎧と言っていい程の防御力を誇るのだ。
それでもバーター中佐の『セイバーアクセル』は止まらない。ランク2と言う事は3連撃と言うことである。
止められた『両刃の長剣』はすぐさま切先を空に躍らせ、身体ごとクルリと独楽の様に回転させたバーター中佐により、怪人の天頂より振り下ろされた。
これは大きく車輪を描く様に横転され、やはりかわされる。
「ちぃっ」
「くっ」
2人は悔しげに口元をゆがめて思い思いに息を吐く。
アルトとバーター中佐、併せて5連撃だ。それがこうも容易く避けられようとは、さすがに両人とも思わなかった。思わなかった故に慄かずにいられなかった。
だがそんな戦慄に身を固めている暇は無い。横転、つまり横移動する事で、前後に挟んでいた両人を正面に転換した蓬色の怪人は、素早く身を翻して矢の様に向かって来た。
先ほど両者の剣を受け止めた鋼鉄の様な両拳を腰に据え、次の瞬間には弾丸の様に打ち出す。
空手で言う『諸手突き』と言う技に近い。
蓬色の全身が床から斜めに伸び、そして突き出された両拳はアルト、バーター中佐、それぞれの胸に叩きつけられる。
それぞれ上半身は鎧で守られているが、それでもその一撃はまるでスレッジハンマーの如き威力を持って2人を吹き飛ばした。
「ごはっ」
拳から受けた慣性を以って宙を舞い、そして壁に背中から激突する。息が詰まるような衝撃と、先に胸に受けた打撃痛とで、両名は同時に床に転がった。
「アっくん死ぬにゃ」
「中佐はんもしっかりしい」
急ぎ、待機していたマーベルとモルトが駆け寄り、回復の光をかざす。
神聖魔法と精霊魔法で色は違うが、その光によって前衛の2人はすぐに戦線復帰可能な身体となった。
「強いな、そう来なくては」
「うぉ、めげないなこのオッサン」
身体の傷が癒えれば、バーター中佐はすぐに立ち上がり、ファイティングポーズへと戻る。対してアルトは一瞬の躊躇の後に負けじと並んだ。
痛いのは嫌だ。それはいつも通り変わらないが、もう戦いが始まっている以上は逃げる事はできない。これもまたいつも通りのルーチンで覚悟を決めるしかないのだ。
それでも今日は隣に同等の力を持つ前衛がいるので心強い。
「よし、アルト君。援護は任せろ」
そこへさらに心強い言葉が掛かる。
様子を伺っていたが為に出来た状況にほくそ笑むカリストだ。
「GM、『ブリザード』だ」
「承認します」
カリストが『漆黒の外套』を翻して魔法の指輪を突き出すと、その指し示す場所でキンと甲高い音が鳴る。昆虫怪人の後方約4メートルの地点だ。
そして次の瞬間、音の場所を基点として氷の嵐が吹き荒れる。
空気中の水分が冷やされて氷の粒となり、その粒は暴風に乗り、刃となって範囲内の者を切り裂く。
『緒元魔法』5レベルの範囲攻撃魔法にして、現在カリストが最大ダメージを期待できる魔法である。
範囲の中心基点を誰もいない場所に設定し、敵がギリギリ入るようにすることで、単体のみをターゲットにしたのだ。
「ギギッ」
どうやらこの魔法攻撃は怪人のふいを突けたようで、彼は溜まらず声を上げる。
アルトたちにとって、この怪人の声を聞くのは初めてのことだった。それは正しく昆虫が鋭い顎をすり合わせる事で出す鳴き声だ。
「よっしゃやったで兄ちゃん」
思わず一同、ガッツポーズだ。ここまで有効そうなダメージはまったくと言って通っておらず、これが初めて与えた苦痛と言えるのだから無理もない。
だが、その猛吹雪が掻き消えた所で、一同は喜んでばかりもいられずに絶句した。
なぜか。その氷雪の猛威が去った床に、見慣れた酒樽体型の中年が横たわっていたからだ。
「おやっさん!」
「まさか『ハイディング』していたせいでフレンドリファイヤを受けるとは。む、無念」
言うなり、ガクリと力なく伏せた様を見て、さすがに全員肝を冷やす。が、その直後に彼の懐からこぼれたのは、割れた菱形の石英ペンダントであった。
「あれ、『石英の護符改』やんか。おっちゃん、ちゃっかりさんやな」
「『石英の護符改』の効果で生死判定自動成功。仮死状態です」
一同はその一連の様子を見て、ホッと安堵の息をつくのだった。
さて、一応解説しておこう。
『石英の護符』とは、港街ボーウェンの『錬金術師』ハリエットによって作り出された身代わりアイテムである。
ただし、異世界の知識で作られたこのアイテムは、この世界の住人には正しく作用せずエラーを起こすという事件があった。
その事件を経て、この世界の住人に合わせて改良されたのが『石英の護符改』だ。
ちなみにレッドグースは、ハリエットが留守なのを良い事にこっそり拝借していたのである。
とにかく、仮死状態ではあるがとりあえず生きていると言う事で安心した面々は、次に戦犯へと視線を向けた。
「カーさん、気をつけにゃダメにゃ」
「ゴメン、ゴメン。でもおやっさんは何であんなところに?」
「アっくんの話を聞いて、鉛の腕輪をスチールするつもりだったにゃ」
「ああ」
つまり、あの怪人が腕に嵌めた鉛の腕輪こそが彼を操るアイテムという、アルトの推測を採用した上での作戦であった。
まぁ皆を驚かそうと内緒でいたのが裏目に出た結果だ。
などと和む事件で4ラウンド目は終了し、5ラウンド目が始まる。
やはり怪人は様子を見てから行動するつもりらしく、アルトとバーター中佐が先攻者となるようだった。
2人は先の無様だったラウンドを思い返しながら、脇を締めてそれぞれの得物を構えなおし、また戦列を整える為にそのままニジリニジリと横移動した。
これで倒れ伏したレッドグースを除く全員が、このアパートの玄関を背にして隊列を組み蓬色の怪人と正対する形となった。
場が乱れればそれだけイレギュラーが生まれ易くなる。先の味方撃ちもそう言った悲劇の一つだ。
ならミスが起こり難いように単純にしてやればいい、と言うわけだ。
ところが、そうは問屋が卸さない、とでも言うように、彼らの最背後となる玄関から、新たな闖入者が現れた。
「何をしているこの愚図が」
現れざまにそう怒鳴るのは、誰あろう、港街ボーウェンに侵入した暗殺者の首魁、ドクター・アビスであった。
その骨と皮だけと見紛うほど痩せこけた老爺は、忌々しいと言わんばかりの表情で室内を見回し、そして背中を向けたバーター中佐を見つけて声を上げた。
「冒険者など放って早くバーターを殺せ。まだ殺し足りないが、それで撤退だ」
『殺せ』との言葉を発する時、僅かにだが、楽しげに眉が上がる。やはりこの男は『悪の錬金術師』の名を冠するに相応しい気狂いだ。
ここにいる誰もが嫌悪感を覚えずにいられず、ただ眼前の怪人を倒さない限りは仕方が無いためにあえて振り向かなかった。
ただ一人、最後尾に回って気の違った老爺に対する盾となる者を残して、だが。
それは白い法衣の上から『胸部鎧』を着込んだ、乙女神官モルトだ。
「さぁちゃっちゃとバッタ男を片付けて、楽しい晩酌へいくで」
愛用の『鎧刺し』を正眼に構え、モルトは少しだけ未来を思い浮かべて舌なめずりをした。
さて、突然やって来たドクター・アビスの言を訊き、蓬色の怪人は赤い複眼に妖しい光を湛えて唐突に屈んだ。
床に片膝を付きまるで偉人に頭を垂れるかのごとく、片拳を置く。
「また風の精霊が集ってるにゃ。何かする気にゃ」
その様子に自然現象の一部を可視するねこ耳童女が叫ぶ。
彼女としては、この光景はすでに一度見た光景だ。
数日前のこと、マクラン卿の館で平和なお茶会に闖入したこの怪人が、逃亡の為の超ジャンプを見せた時である。
ここは粗末ながらも帝国騎士が居を張るアパートだ。さすがに天井を突き破って逃亡などと言う真似はできないだろう。
だからこそ注意が必要だと、マーベルは思ったのだ。
あの、天に向かう筈のジャンプエネルギーがもしこちらに向けば、もうそれだけで大惨事間違いなしである。
「させるかっ」
マーベルの言葉を受け、アルトとバーター中佐が己の剣に力を込める。斬り付ける刃は鋭く、ただ膝を突く怪人へと殺到した。
避ける気は無いのだろう。その態度に腹も立ったが、勝ち負けはそんな綺麗ごとではないとアルトももう知っている。
とにかく強者に対し遠慮など要らぬのだ。
ガッという硬く鈍い音が響く。
振り下ろされた『胴田貫』と『両刃の長剣』は、昆虫の硬い甲殻を僅かに叩き割るに留まった。
ノーダメージではない筈だ。だが、それでも怪人の赤い複眼は光を失わず、また微動だにせず力を溜めていた。
「ちぃ、やっぱり普通の剣打じゃダメか」
ダメと言う事はないだろう。このまま数ラウンドかければ打ち倒す事も可能であろう。しかしそれでは遅い。
今、この時、すでに何かをしようと準備をしている怪人に対し、次のラウンドがアルトたちに訪れるとは限らないからだ。
「僕がトドメをさせればあるいは。しかし、『ライトニング』で果たして足りるか」
このラウンド、すでに前衛の攻撃は終わり、あとダメージを稼げるのはカリストの攻撃魔法だけだ。
ただ、その躊躇いを誰が待つわけも無く、蓬色の怪人は準備を終えつつあるのか僅かに腰を上げた。
跳ぶ気だ。
先のドクター・アビスの言葉から、逃げるつもりは無いだろうから、ここからこの怪人の、脅威の必殺技が繰り出されるのは間違いないだろう。
ターゲットはバーター中佐。受ければ、即死もあるかもしれない。
誰もがこの刹那の内にそう悟った。
「く、どうすれば。そうか」
そんな長い一瞬の中、カリストはまた別のことを悟り、自らの行動を下した。
このラウンド、様子を見て行動順を遅らせたのはカリストも怪人も同様だ。
そうするとどうなるかと言うと、「遅らせた者はそのラウンド最後に行動する」となっているメリクルリングRPGのルールに則り、ラウンドの最後に同時行動となる。
つまりこの時、怪人が超脚力を見せつけようと、溜めた脚のバネを伸ばしかけたその時に、カリストの声が、そしてその手足が部屋に響いた。
「行け、ヤマト」
「にゃっ」
動体視力に長ける者はその瞬間を見ただろう。
命じたカリストの足元から小さな黒い塊が飛び出し、跳び上がり掛けた昆虫怪人と交差した。
怪人はそれを意にも介さぬ様に、宙で捻りを加えてクルリと一回転、続いて片脚を伸ばしたキックの形となり飛翔する。
あえて空手技に例えると跳び足刀に近いだろうか。プロレスで言うならば片脚ミサイルキックだ。
誰もがことの最後を思い浮かべた。
この鋭くも恐ろしい破壊力を秘めたキックが、バーター中佐の胸を貫く様を。
倒れ逝く中佐を後目に、ドクター・アビス共々撤退して行く怪人の様を。
そして指をくわえて見ているしかない自分達を。
だが、その想像はただの幻だった。
一瞬だけ目を閉じてしまったアルトとバーター中佐の間を、一陣の風切り音が通り過ぎる。
いや、彼らだけではない。その後ろにいたアルト隊の面々、全ての身体を風は通過し、そして玄関で睨みを利かせている老爺へと突き刺さった。
何が起こったのか。もっとも理解していなかったのは当のドクター・アビスだ。
まさか自分の下僕と化しているはずの怪人が、自らの命を断とうとは。
「いったい何が。いや…」
息も絶え絶えの中、ドクター・アビスが憎しみに満ちた瞳で蓬色の怪人を見上げる。
その節くれ立った昆虫と人間を掛け合わせた禍々しい脚が、ドクター・アビスの胸に突き刺さっている。
さらに見れば、彼の腕にあるはずのものが無かった。
「貴様腕輪はどうした」
だが返事は彼の場所からはるか向こう、部屋の奥からやって来た。
「探し物はこれでありますか?」
見れば、毛並みの良い黒猫の背に乗った人形サイズの少女が、得意げに鉛の腕輪を高々とかざしていた。
先ほど、カリストの命により飛び出した使い魔、黒猫のヤマトがかの怪人から掠め取ったのだ。
その後の光景はまるでスローモーションのようであった。
死を悟ったドクター・アビスから怪人が離れて着地すると、当の狂人はよろよろと後退った。
背後にはこのアパートの共用廊下と、その先は粗末な手すり柵を挟んで外。ここは2階であったから、外はすなわち宙であった。
「よもや捲土重来ならず、か。後は頼みますぞヴァナルガンド様」
息も絶え絶えに呟き、ドクター・アビスは手すりに背もたれ、そのままクルリと落下した。
皆一様にその光景をただ見ていた。
倒すべき敵であるので、当然ながら助けるつもりも無いし逃がすつもりも無い。だが、もう彼が助からないという予感だけがなぜか共通の認識として全員の脳裏にあった。
果たして、その予感は正しかった。
手すり柵を彼の身が越えて数秒もしないうちに、大きな轟音と共に火柱が立った。
ドクター・アビスの身体は四散する炎により粉々に吹き飛び、燃え盛る火柱はそれからしばらく月夜の空を静かに照らすのだった。
「にゃんで人間がキック喰らって爆発するにゃ」
そして最後に上がった、半眼のねこ耳童女の呟きは、誰の耳にも届かずにただ掻き消えるのだった。
思ったより長くなったので行ったん切ります。スイマセン。次回が6章の最終回です。
また次回更新は7/22を予定しております。




