06退屈な悪魔
我々の世界において、フィクション以外の異世界は一般的に無いものとされている。
だがこのメリクルリングRPGの世界においては、人間たちの住む『物質界』以外の異世界が、常識的に存在する。
まず比較的交流の多い『妖精界』。エルフやドワーフ、ケットシーと言った、『物質界』に住む亜人種たちの祖先が住む異世界であり、またゴブリン、コボルトといった妖魔たちの遠い故郷でもある。
他にも『精霊使い』が使役する万物に宿る精霊たちの住む『精霊界』。死人の魂が逝くと言う『神霊界』。正体不明の魔物や魔族が住む『魔界』などがある。
古代の『魔術師』たちは、これら異世界の特異な存在を召還し、使役したと伝えられている。『大魔法文明』時代の遺跡では、そうした使役の傷跡を、さまざまな形で目にする事ができると言う。
暗い窓のない円形の広間から上階へ上がってみれば、そこもまた窓の無い円形の広間だった。また下階と違い、中央の柱に螺旋階段は無く、代わりに壁際に登り階段がついていた。
他の違いと言えば、その広間は松明なくとも明るいと言う事が挙げられる。何の変哲もない石造りの天井が、うっすらと光を発していたからだ。
またこの広間には少しではあるが生活の匂いがした。
壁際にはいくつかの書棚があり、その横には人が3人は横になれるだろう、巨大な寝台があった。
うっかり吊り上げられたアルトたちは、今、この広間で、その寝台の主であろう、2メートルを越す巨身と対峙していた。
筋骨隆々とした黒光りする上半身を晒したその巨身は、首から上が馬の頭である。
ねこ耳童女が当たり前に闊歩する世界の事だ。馬頭の人がいたっていい。だがそういう問題ではない。彼は明らかに尋常ではない迫力を身にまとい、異形ゆえに感情のわからぬ赤く血走った瞳でアルトたちを見下ろしていた。
「ででででで、出たな悪魔っ」
すっかり怯え上がったアルトだが、それでも仲間の前衛を勤めるべく踏みとどまり、震える手で『無銘の打刀』の柄に手をかけた。
「アル君、待ちや。まだ敵と決まったわけやないで」
アルトのその味方の盾となろうという行動は賞賛されるものだったが、それにしても性急すぎる。モルトはそれを諌めようとアルトの背に声を投げかけた。
だが恐怖に身も心も震え上がっているアルトの耳には届いてないようだった。
「アルト殿は身体以上に心を鍛えるべきですなぁ」
すでに本日だけで何度目の恐慌状態かもわからないアルトである。これから先も続くであろう、この世界での旅路に向けては、レッドグースの言うのももっともである。もちろん、ここでその旅路が終わらなければの話だが。
「『やるしかないなら、躊躇せずに思いっきりやれ』と昔、偉い人が言ってた。やっちゃる!」
虚勢だろかアルトの鼻が荒く息を吐く。だが身体の震えは隠せるものではなく、手をかけた『無銘の打刀』の鍔と鞘が、激しく当たってガチガチと音を立てた。
「ふむ」
いっそもう一度『キュアセイン』を使おうか、とモルトが考え始めた時、威圧的に見下ろしていた馬頭が鼻息と共になにやら頷いてみせた。
「我が身もずいぶん退屈していたところよ。それもよかろう」
よく通る低い声がそう1人呟くと、馬頭は胸の前で組み合わせた屈強な腕を解き、大きく構えた。
「我は魔界にて20の軍団を統べる偉大なる君主オリュバスの眷属、オリュフェスである。我に挑んだ数々の勇士と共に、おぬしらの名を墓標に刻もう」
彼の声が広間にて所狭しと響き渡り、かくして空気が一変する。
「あかん、間に合わんかった」
「皆さん、戦闘ラウンド始まりますよ!」
モルトの嘆きの声が空しく散り、薄茶色の宝珠は非情にも戦いの開始を告げるのだった。
「さくら肉にゃーっ」
アルトとは別の方向性に目を血走らせたマーベルが、ねこ耳をピンと立てて雄たけびを上げる。4人の中で最もモチベーションが高いのが彼女だと言えよう。
「勇気の精霊、召還にゃ」
「承認します」
例の如くマーベルの宣言が承認されると、頭上の虚空に六角形の紋様が描き出され、空間を割ってコブシほどもあるミツバチが生まれ出た。召還に応じた勇気の精霊はブンという羽音を立てて、マーベルの頭上に居を構える。
「ウチは…困ったな」
続いての手番を受けたのは『聖職者』と『警護官』を兼業するモルトだ。しかし彼女はすべき行動を考えあぐねた。
『傭兵』4レベルのアルトに比べ、モルトの『警護官』レベルは2である。相手が推定高レベルの悪魔では、おそらく役に立つレベルではないだろう。そうなると、対ゴブリン戦のように前衛に出る気には到底なれない。
一方『聖職者』の『神聖魔法』はどちらかと言えば対処療法が多い。まず初めにすべき事として手をこまねいてしまうのも無理からぬ事だ。
「ええい、しゃーない『ブレッシング』や」
「承認します」
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ブレッシングは『聖職者』が取得する事のできるスキルのひとつだ。
『神の祝福』と言う意味を持つそのスキルを使用すると、スキルのランクと同数のラウンド間、神の祝福を授けられ、仲間一同、あらゆる判定ロールにボーナスを得る事ができる。
**********
モルトが右手を高く上げると、その掌から紙吹雪にも似た光のシャワーが仲間たちの頭上へと降り注ぎ、どこからともなく荘厳な鐘の音が脳裏に鳴り響いた。これにより、一同はモルトの信仰するキフネ神からの祝福が与えられたのだ。
「ま、ランクは『1』やから1ラウンドしか効果ないけど、なんも無いよりはマシやろ」
自分で使っておきながら、ランクと同ラウンド数しか効果が持たないと言うのは、いかにも半端なスキルだと、モルトはため息混じりに呟いた。しかしスキルは使用していかないと育たないのもまたジレンマである。
そして前衛に1人立つ、アルトの番となる。
アルトがスラリと、『無銘の打刀』を抜き放ち中段正眼に構える。するとそれまで続いていた手の震えがピタリと止まった。
傷を負おうが緊張に背が固まろうが、戦闘となれば身体が職業の持つ技能通りに動き出す。これがこのゲーム世界における最大の利点ではないだろうか、などとアルトは思う。ならば彼のやるべき事は、職能通り敵を打ち倒すのみだ。
『無銘の打刀』の切っ先が跳ね上がる。
「チェイ!」
モルトからの祝福を背に受け、アルトは猿叫などと揶揄される掛け声と共に、振りかぶった刀を馬頭の肩口へと突き出した。
しかし、鋭く空を裂いた切っ先は、キィンという金属同士が激しくぶつかるような音を響かせ、『無銘の打刀』を握るアルトの手に固い感触と痺れを瞬間的に伝える。
「なにぃ!」
アルトはつい、驚愕に声を上げる。悪魔の肉を斬り裂くはずの切っ先が、その馬頭の肩口で止まっていたからだ。
そんなまさか、とアルトは目を見開いた。
鍛え抜かれた身体を『鋼鉄の筋肉』などと例える事がある。しかしそれはあくまで例えであり、本当に金属に成り代わっているわけではない。なのにどうだろう。この上半身を晒した馬頭の悪魔に切りつけた『無銘の打刀』は、まるで全身を覆う『板金鎧』を打ち据えたかのように弾かれたではないか。これが悪魔の身体だとでもいうのか。だとすれば何を持って斬り裂けるのか。
「あー、やっぱり」
「何がですかな?」
後方で観戦モードのレッドグースと元GMが人事のように囁き合う。
「レベル差が圧倒的すぎるんですよ」
戦闘において攻撃をした時のダメージは、基本的に武器の強さに依存するが、戦士職のレベル等による追加ダメージと言うものが存在する。同様に、攻撃を受けた場合も、ダメージを減少させるのは鎧の性能に依存するのだが、やはり戦士職のレベル等によるダメージ減少も存在するのである。
すなわち、馬頭の悪魔のレベルによるダメージ減少が、アルトから見ると圧倒的すぎて、命中しても一切ダメージが通らない、と言う状態なのだ。
「なるほど、アレはそういう表現なのですな」
結果、鋼を打ち据えたかのように弾かれた、と言うわけだ。
さて、レッドグースを抜かした3人が行動を終えたということは、ラウンド最後に待つのは馬頭の悪魔オリュフェスの攻撃と言う事になる。
「ふむ、その程度であるか。ならばこの勝負、圧倒的に我が勝利として終えよう」
突き出されていた『無銘の打刀』をゆっくりと逸らし、オリュフェスは大きなモーションから、一瞬身体を沈めたかと思うと、たった一歩でアルトの至近の間合いへと入った。
そして悪魔の拳が風を切り轟き唸る。
「オリュフェスパーンチ!」
響く声と共に、巨大化したようにも見えた悪魔の拳がアルトの腹部を捉える。抉るように捻られたその拳打が振り抜かれると、アルトの軽い身体は宙を舞った。
「ふごっ」
口元からキラキラとした粘液を撒き散らしながら、アルトの身体は垂直に打ち上げられ、そして重力の名の下に、やはり鉛直に床へと吸い込まれ、叩きつけられた。
この一撃で、アルトのHPは約9割を失った。
「あれは? 力学的にちょっとおかしい飛び方ですな」
「オリュバスの物理攻撃には『ノックバック』効果が無いからじゃないでしょうか」
『ノックバック』とは、攻撃などの勢いで、定められた距離だけ強制的に後退させられる特殊な効果の事だ。両手武器ビルドの『傭兵』が身につける必殺スキル『バンディッドストライク』などでダメージと共に発生する。また突進物理攻撃を行う怪物がこの特殊効果を持っていることもある。
結局この一撃でアルトの戦意はすっかり消沈し、一同はこの馬頭の悪魔に決死の命乞いをする羽目になった。
だがもともとオリュフェスには、アルトたちの命を断つ気が無かったようで、大仰な頷きを持って命乞いは受け入れられた。
「さて、戦いが我が勝利と終わった以上、おぬしらには我が望みを叶えて貰わねばならぬのだが」
続けてオリュフェスが言い出した時、一同、血の凍る思いだった事は言うまでも無い。
アルトの治療の為、しばしの時間を費やし、人心地ついた後にオリュフェスは話を始めた。彼を含めた一同で車座になるその光景は少々シュールにも感じる。アルトなどは、この馬頭、案外、気のいいヤツなのかも知れない。などと思い始めた。もちろん最後に『悪魔だけど』と付け足すわけだが。
「さて、どこから話したものか」
そう前置き、オリュフェスはいよいよ語り始める。
「およそ5、600年前になるか、我が身はとある『魔術師』の召還に応じ、ここに馳せ参じた」
「『大魔法文明』後期から末期あたりですか」
合いの手を入れるように補足する薄茶色の宝珠を物珍しそうに横目で眺め、オリュフェスは先を続ける。
「我が修めたる秘術は『転移術』であり、契約において、何度もその『魔術師』を、さまざまな地へ送り届けた。が、かれこれ数百年、その『魔術師』が姿を見せぬ」
「さくら肉は暢気にゃ。とっくに死んでるにゃ」
マーベルの言う通りなのだろう。オリュフェスを召還した『魔術師』はとうに亡くなり、そして契約を解除する機会を永遠に失ったのだろう。
「ところでそのさくら肉というのは、我の事か?」
マーベルは無言で頷いた。馬の表情については詳しくないが、その直後に浮かべたのが、おそらく不満を表す顔だったのではないだろうか、と一同は推測する。
「察するところ、御身の契約からの解放が、オリュフェス殿の望みという所ですかな」
「その通り。ここ数百年、一度だけ人間が紛れ込んできたことがあるが、それだけではさすがに飽きると言うもの。そろそろ故郷へ帰りたいのだ」
「…ちなみにそのたまたま来た人間はどうなっちゃいました?」
恐る恐る訊ねるアルトに、オルフェスは首を傾けて、広間の隅の麻袋を指し示した。
「人の子は脆いからな。ひとまず骨だけはまとめて置いた」
「は、アリガトウゴザイマス」
アルトはつい意味もなく礼を述べるのだった。
「んで、その、契約からの解放? …の方法はわかっとるん?」
そう重要なのは方法だ。望まれたからと言って、彼らにも出来る事と出来ない事がある。ナトリに『脱出不能』と言わせた遺跡であるし、出来ない公算が高いのではないか。
「知らぬ」
オリュフェスが自信満々に胸を張る。
「が、この上階へ行けば何か判るかも知れぬな。我が身はこの広間に縛られておるゆえ、おぬしらに頼むしかない」
ゆっくりと指差した壁際の登り階段の上に、またしても塞がれたマンホールの蓋があった。果たして今度は無事に持ち上げられるだろうか。
「ところで」
やるべき事が判ったので、最後に、とアルトがひとつ疑問をぶつける事にした。
「前に来た人には頼まなかったんで?」
オリュフェスは遠い目で虚空を見つめた。
「暇つぶしには、なった」
どうやら頼まなかったらしい。
結局、オリュフェスの力を借りて、上階へと続く通称マンホールの蓋を開けた。
開けて、上階から流れてくる熱風に、一同は一斉に顔を逸らした。
「あつっ、めっちゃくちゃ熱い!」
アルトたちが元いた階を1階だと仮定すれば、新たな階は3階になる訳だが、そこはサウナの様な焼けた空気が充満していた。
「では一刻も早い解放の時を待っている」
あまりの熱気に辟易しているのは、馬頭の悪魔でも同じらしく、オリュフェスはアルトたちを上階に押し出したかと思うと、早々にマンホールの蓋を閉じる。そうして、熱く暗いその階に、アルトたちは取り残された。
やはり窓は無いようで、その階は闇に閉ざされていた。闇の中でわかるのは、空気の温度が非常に高いと言うことと、さっきから聞こえていた低いゴウンゴウンという音が、一際大きく聞こえると言うこと位か。
「アル君、松明松明」
すでに燃え尽きた松明に代わる、新しい松明を求めてモルトが促す。応じて、アルトは再び松明に火を灯した。もう手探りで火をつけるのも慣れたものだ。
燃え盛る松明の炎に照らされ、新たな階の全容が明らかになる。そこはやはり下階と同じ広さの円形の広間で、中央には柱が無く、代わりに白い円筒形の物体が鎮座していた。
円筒は直径、高さ、共に3メートル程度で、上部が徳利のように一度括れてから広がっており、東西の壁に向けて太いパイプを延ばしている。どうやらゴウンゴウンという音は、そのパイプの先、壁の向うから聞こえているようだった。
「巨大熱燗にゃ」
徳利型から連想されるごく単純な連想だったが、誰もが納得気味に頷く。色が白いだけに、陶器のようにも見えるせいもあるだろう。
「いやいや、マジで何これ?」
額に浮かぶ汗を拭い、拭う先からまた溢れる汗を振るい、アルトはウンザリした様に疑問を口にする。
「これは…いや、なんでしょうな?」
だがその疑問に答えられる者はいない。『学者』にて『アナライズ』や『ノウレイジ』を修めた者がいないというだけでなく、プレイヤー知識にしても該当するものが無いのだ。
「強いて言えば、ですが、この部屋の熱から察するに、ボイラーの様な物かもしれませんね」
熱さも寒さも感じるのか判らない無機物然とした薄茶色の宝珠が、マーベルの掌の上からそう仮説めいたことを言う。アルトは「ああ」と小さい声を上げた。
「言われてみれば、ゴブリン王の館で見た風呂釜に少し似てる、気がする、かも」
以前、紆余曲折の後に奪還したあの屋敷の事だ。アルトが湯沸し釜の操作をしたのでよく憶えている。その割には曖昧な頷きだった。
巨大徳利に近づいてみれば、さらに空気は熱い。この広間の熱気の主は、やはりこの謎のボイラー装置のようだ。
「アっくん、ほれ、触ってみるにょ?」
平然とした表情でマーベルがアルトの手を取り、何気ない仕草でその手を巨大徳利に押し当てる。途端、アルトの掌には、灼熱の日差しを浴びたアスファルトの様な、痛々しい程の熱が伝わった。
アルトは声もなく飛び跳ねながら後退り、熱に触れたのと逆の手で、ねこ耳頭に拳骨を浴びせるのだった。
「まぁなんだか解りませぬが、ここはこれ以上何もないようですな」
レッドグースの言に一同頷き、彼らはさらに上の階層を目指すことにした。熱いし、早くここを立ち去りたい、と言う気持ちも半分はあった。
下階のオリュフェスの間から続く階段は、丸く黒いマンホールの蓋の様な扉を挟んでさらに上階へと続いている。しかし、今度の上扉はマンホールの蓋ではなかった。
よく磨かれた鈍色の金属扉で、簡便なスライドロックがかけてあった。
「おい、なんか厳重そうな扉があるぞ。大丈夫かこの部屋」
あまりの重厚さにアルトは悪い予感を浮かべつつスライドロックに手をかける。これまで以上の重さを覚悟していたが、ロックも扉も驚くほど軽く手前に開く。軽かったのだが、扉の先にはさらにもう一枚、同じ色の扉があった。二重扉である。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな、この部屋」
もう一度、同じ疑問を口にしてみるが、誰も回答を持ち合わせてはいなかった。
気を取り直してアルトは2つ目の扉のロックを解除し、今度は上に向かって押し上げる。やはり扉は驚くほど軽く開き、上階である扉の先から降り注ぐまばゆい光がアルトの目を焼いた。
松明の淡い光などとは比べ物にもならない圧倒的光量である。これには多少身に覚えが無い事も無い。そう、これは天然の日の光に他ならない。
「まさかオレたち、脱出しちゃったのか?」
徐々に慣れる瞳を巡らせ、アルトは上階の情景を捉えようと、開いた扉から頭を半分出してみる。目に飛び込んでくるのはどこまでも続く蒼穹。深く透き通った大空の青。
「下は熱いにゃ。早く出るにゃ!」
あまりの美しい情景にポカンと口を開けたアルトは、階下からの圧力に押し出されて、新たなその階へと転がり出た。
しかし続いて登り出たマーベル、モルト、レッドグースもまた、アルトに続いてポカンと口を開けることになる。
「いや、これは…!」
いち早く我に返ったレッドグースは、その酒樽のような体形からは想像できないほど軽やかに駆け出し、すぐに透明な壁に阻まれた。
触れると冷たい透明な壁の外には床も地面も無く、眼下には白い雲の絨毯がどこまでも広がっていた。
「これは、飛んでますな」
彼らが踏みしめるこの建造物は、地上約5000メートルの空の上にあった。




