皆に愛されたアイドル
波園こゆる。
インターネットの記事によると小学二年生の頃にその素質を見出されて芸能界へ。天性の歌唱力と蠱惑的なカリスマ性により瞬く間にトップアイドルへと君臨。彼女が出した歌の多くは何らかの賞を受賞しており、特に最初の曲である『ティルミーラブ』は歴史に残る売り上げを記録した。
例によってテレビは見ないのでさほど詳しくはない。俺と同い年だったなんて知らなかったし、本当に知っているとすれば妹がファンな事くらいだ。昔はちゃん付けだったので、わざわざ敬称に言い直したという事はやはり本人が居るのか。単純に中学生にもなってちゃん付けは恥ずかしくなったという可能性もある。
「…………そう言えば、お前が髪を伸ばし始めたのもこゆるさんの影響だっけか」
今でこそ可愛い方の妹は背中くらいまで伸びた髪をストレートに伸ばしているが、そのきっかけになったのが波園こゆるだった記憶がある。妹の様子から又聞きのような形式で情報を得ている為詳しい事は分からないが、昔の牧寧からは考えられない変化である。
「兄さん、覚えてたんですか?」
「お前の事だしな。あ、別に昔の方が良かったとかそんな野暮なことを言うつもりはないぞ。今は今で似合ってる」
「……そ、そう……ですか? い、以前も言ってくれたのは……その。嬉しいんですけど」
敬語はともかくきちんと喋って欲しい所だ。牧寧は外見を褒められる事に慣れていないのか突然言葉がたどたどしくなって、何故かよそよそしくもなる。兄としてもどう反応していいかそれこそ分からない。
「に、兄さん的にはどの辺りが―――私に、合って……ますか?」
「清楚な感じ。お前くらい長いと髪質のきめ細やかさみたいなものもハッキリしてくるだろ。手入れが大変な分、お淑やか……いや違うな。上品な感じが出る、みたいな。見返り美人じゃないけど、やっぱ髪型一つとっても奥ゆかしさって変わるからさ」
語彙力皆無の褒め方だったが、妹を喜ばせる事には成功したようだ。何も言ってはくれなかったが、髪の毛を擦りながら俯いている。耳を澄ませると『そんなに好きなんだ……知らなかった』と言っているのが聞こえる。
スキンヘッドがあまり好きではないくらいの拘りしかないなんて、今更言い出せる空気ではない。泣き虫で弱虫な妹が見てくれだけでも上品になっているのは事実なので、もうそういう事にしておこう。
悲しい事に一部分が全く真似出来ていないが、そこまで完璧に再現しようとすると手術っぽいものが必要になる。費用はどうせタダだが、妹には妹の良さがあるのでそれはそれでありだ。
「あの……兄さん。急にどうしてそんな事を? 兄さんもファンでしたか?」
「俺がテレビ見ないのは知ってるだろ。お前が好きだったから知ってるだけ…………しかし、そうか。そうなるか。はぁ……」
『強度』の規定よりも『傷病』の規定よりもハッキリしている。多分それは、糸が視える俺だからこその特権。物理的に変化が出るこれまでとは違い、この謎の規定は糸以外のあらゆる箇所に変化がない。
―――規定持ちかあ。
薄々そうではないかと思っていたが、非常に問題がある。妹の推しを殺していいものかという躊躇だ。いや、殺人はそもそも躊躇されなければいけない事だが、結々芽は俺が殺されるのを良しとしなかったマキナが、一神通は被害を看過しかねた未紗那先輩がそれぞれ殺害した。
それを責めるような真似はしない。俺だって死にたくなかったし、一神通は放置すれば被害が大きくなり過ぎる。捕まえればいい、という意見については是非この世界の良識から学び直して欲しい。免罪符が通用する限り、社会上正当な手段で無力化は不可能だ。
なので今回もマキナないしは未紗那先輩に殺してもらえばいいのだが、それこそまともな人間としてどうなのだろう。自分は手を汚したくないから任せようなんて卑怯だとは思わないか。先輩はともかく、マキナは俺の意図に拘らず殺してくれるだろうが……そこに頼り切るというのは何とも。
交渉の権利は一応与えられているとはいえ、規定がどんなにか便利な力かというのは嫌という程思い知った。あれを手放させるには相当の努力か信頼が必要になる。
「えっと、俺は何処で眠ればいいんだ?」
「兄さんさえよろしいのでしたら、私の部屋を貸しますけど」
「……お前はどうするんだ? まさか寝ずの番?」
「………………えっと、兄さんが寝る部屋は私の部屋ですから、つまり兄さんさえ宜しければ一緒に眠らせて頂きたいなと」
……糸に変化が無いから、普通に見えるな。
普通、なのだろう。実際。どういう規定かは判別出来ないが大方の特性を把握しておけば仮に交渉が決裂しても状況を有利に運べる。問題は、家族との仲が悪いせいで偏見が入って変化があるかどうか分からない可能性があるという事。例えば家族が俺を邪険にしていても、それはいつも通りなので分からない。
「牧寧。波園さんが来た時の状況を教えてくれないか?」
「来た時の状況……? どうしてここに来たか、ではなく?」
「そんなのどうでもいい。クラスの奴等と違って俺はファンじゃないからな。大体、理由を教えてくれたのか? 俺達と波園さんには何の接点もない。つまり理由も只事じゃないよな。俺だって人の事をとやかく言える立場じゃないんだ。家族の誰も、俺が門限を破る理由について知らないだろ?」
それに、糸だらけの視界についても話していない。厳密には大昔に話した覚えもあるが子供の戯言と受け止められているのでノーカウント。式宮有珠希にはあまりにも隠し事が多すぎる。メサイア・システム然り、マキナ然り、この世界の裏側のような事情に足を踏み込んでいるせいだ。
「えっと、波園さんが来て……匿って欲しいって言われたんです。お父さんもお母さんも事務所の方に電話しようとしたんですけど、それをなんか……やめてほしいって。とにかく、誰にも気付かれたくないって」
「ほらな、訳ありだ。聞くだけ無駄なんだよそういうのは……しかし、そうか。分かった」
「夜食はどうなさいますか?」
「下で摂ろうもんなら家族喧嘩待ったなしだ。食べさせてくれるなら廊下かお前の部屋で済ませたいな」
妹はざわっと髪をはためかせて隠し切れない微笑みを浮かべた。
二つ分かった事がある。
まず一つ。波園こゆるは何者かに追われており、規定拾得者でもある。追跡者はメサイア・システムの人達ではないと考えられる。もしメサイアなら未紗那先輩がここを尋ねてくるだろうが、その気配はない。彼女が何故この家に駆けこんだのかは分からないが、何か信用に足る根拠があってやってきたという訳ではなさそう。
二つ目。本人の因果が変質している可能性がある。俺の部屋を占拠していながら、因果の糸は屋根を貫通していなかった。そもそも糸がない可能性も考えられる。とにもかくにも一度対面しないことにはハッキリしないが、因果次第では更に面倒な事に巻き込まれる事請け負いとなる。
「……ストレスのない食事は美味しいな」
「兄さん好みの味付けを模索中なんですけど、どうでしょう?」
「今も結構好きだぞ。特にこの鮭が上手い。塩気が効いてる」
「……ふふッ。兄さんって、正直な人ですよね。美味しいって思ってくれてるんだなって、私から見ても伝わってきますから」
「捻くれてるんだけどな」
「兄さんは素直だと思いますよ? 私は……その。兄さんのそういう所、好きですから。よく見てるんです……!」
褒めるのが照れくさいか、牧寧は頬を染めてそっぽを向いた。半年口をきかなかっただけでこうなるのか、と反省している真っ最中だ。因果は全く関係ないが、これはこれでかったるい問題である。
「…………兄さん。私、中学を卒業したらずっと考えてた事があったんです。まだお父さんにもお母さんにも話してませんが、兄さんにだけは先に話しておきたいなって……」
「ん?」
牧寧は箸置きに箸をおいて、居住まいを正しながら告げた。
「―――中学を卒業したら、この家を出ようと思うんです。兄さんと二人で、暮らしたくて」




