救世末期
多分ここは雑居ビルという奴だ。俺の為に当てられた部屋は少なくとも二階より上の階層の一室。扉を開けるとただならぬ様子の人々がイーシンツとやらに対する悪態を吐きながら会話していた。
「マジでクソ。マジでクソ。もう三年もこき使われてんんだ。お前はどうだっけ?」
「一年だよ。いつになったら解放してくれんだろうな。はあ……」
「何で離婚しなきゃいけなかったの……何で、一回も逆らわなかったのに…………」
「……病気が治っても、これじゃ入院してる時と何も変わらないじゃんかよ」
俺に話しかけてくる気配はない。悪態は吐きつつも、逆らう気概はとうの昔に奪われてしまったようだ。その意思自体は傷でも病でもないので長期間の支配が抵抗心を殺してしまったという事か。始まっているのは奴隷の鎖自慢にも似た支配期間の語り合い。
―――協力とかってのは、無理そうだな。
八太郎君も半年以上拘束されて怨みこそあれど反抗する気が削がれていた。どうもイーシンツとやらに対して一番可能性があるのは手駒にされて間もない俺一人だけらしい。分からない事があるとすれば、何故こんなにも自我が残っているかという事だ。
『傷病の規定』は洗脳ではない。拾得者は現在生命の危機を人質に強制的な支配を強いている。言う事を聞かなければいけないだけで態度や言葉までもが従順である必要はないが、この世には規定など一切関係のない最強の免罪符があるのを忘れている。
もっと最初に気が付くべきだったが、『俺を助けると思って何でも言う事を聞いてくれ』と言えば、こんな真似をする必要は無かったのでは?
善人にノーという選択肢はない。従順を願えば叶えてくれる、そんな救世主様がこの世界にはごまんといる。その方が軋轢もなくて扱いやすいだろうに、何故、敢えて縛るような真似をしたのか。今の所単に趣味が悪いだけだ。
まあ何にせよ、早期決着が望ましいのは変わらない。特別メンタルに自信のある人間ではないのだ。一か月も二か月も胸糞悪い人間の言う事を聞かなければいけないと思うと―――
「思う…………と」
―――半、年?
三年?
一年?
ちょっと待ってほしい。俺の記憶違いでなければマキナと出会ってまだ一か月も経過していない。その頃彼女は完全体だった筈なので規定者がいた道理はない。彼等はその年数一体誰に支配されていたのだろう。
『傷病の規定』が全く関係ないという線もあり得ない。今だけはノーリスクに見える赤い糸がそれを証明している。彼等は例外なく人生をイーシンツ(実際に確認した訳ではないが暫定的に)に握られ、取り敢えず発言を真実とするならかなり精神が摩耗している。健全な精神は健全な肉体に宿るとも言うが、規定に侵されている間は身体だけが良くなるばかりで精神は考慮されない。体調不良にならない程度の鬱状態になり続けるというのもそれはそれで苦しいだろう。真綿で首を絞めるとは多分そういう状態の事を指すのではないか。
「あの、すみません。イーシンツは何処ですか?」
「…………」
床に座り込んでいた男に声を掛けたが、会話に応じる気配もない。それは規定に縛られている訳ではないだろうと呆れていたら、男は急に立ち上がって手に持っていた酒瓶で俺の側頭部を強打した。
「…………ッ!」
痛くない―――が、衝撃は殺しきれない。転倒した。俺が驚いている内にもその一撃で割れた酒瓶で今度は左目を刺された。これも痛みはないし、異物が邪魔で瞬きが出来ないくらいの違和感が生まれるくらいだ。瓶が引っこ抜けたら視界は元通りで、瞬きも正常。
――うそ、だろ。
何も感じないという恐怖に固まっていると、男は俺の前に屈んで微笑んだ。
「なあんだお前も仲間か。新入りか? いやあ悪い事は言わねえ、逆らわねえ方がいいぞ」
「……は、は?」
「痛くねえだろ、今の全部。でも逆らったら死ぬほど痛え。死なせてもくれねえ。イーシンツは神の手の持ち主だって話だ。俺あ科学的じゃない話はあんまろ好きじゃねえが、こんな状態だ。信じるしかねえよ。警察もあれには手が出せねえんじゃねえか。ご自慢の拳銃が通用しねえんだからな! ははは!」
「―――どうせ警察が来ても、お前達が身体を張るんだろ」
「お前達って、なーに自分は違うみたいな顔してんだよ。お前もだぞ新入り。イーシンツはマジのゴミクズ野郎だ。ちょっと前までは病弱だったとか何とか言われてるが、だったらもうちょっと他人に対する敬いとか気遣いをしてほしいもんだよな。入院とかしてたんなら、散々看護師とか医者に世話になってんだろうによ」
傷病人と看病人の関係を、マキナは被支配と支配に置き換えていた。普段は強気な人間も体調が悪化すれば態度だって軟化する。自分が助かりたいが為のある意味当然の反応。元々支配される側だったのなら、イーシンツも元々は善人であった筈だが……『規定』を拾っただけでそこまで変わるものだろうか。
結々芽は合意の上に形成された歪な善を嫌っていたが、俺にとって馴染み深い価値観から言わせればそれは正しい。今まで当たり前とされてきたものがおかしいと分かったから暴走した。アイツはそれで説明がつく。
イーシンツはどうだ。病弱が本当なら今まで散々その善人にお世話になってきただろう、いや、この際善人でなくてもいい。誰かに優しくされて来たなら、そこには感謝の念があった筈だ。何故その気持ちがあってこんな真似が出来るのか、理解出来ない。人格形成において環境は何割かを占める大切な要素らしいが、それなら我儘になる事こそあれ、こんな悪党にはなるまいと。
「イーシンツは何処だ?」
仲間らしいので、呼び捨て。
「おい、やめろって。万が一にも連帯責任で俺達にまでオシオキが来たらどうすんだよ」
「四〇超えたおっさんがオシオキ如きにビビんな。俺は猛烈にあの野郎にムカついてるんだ。知らねえよ連帯責任とか。知ってるなら教えて、知らないなら知らないって言ってくれ。それだけでいいから」
「―――んでお前も気遣いとかがねえんだ? 分かった。俺を助けると思ってイーシンツに逆らうのはやめてくれ」
「絶対に断る」
助けるという言葉が嫌いだ。受動的な恩着せがましさはもっと嫌いだ。俊彦の例に漏れず、ノーという選択肢を突き付けた俺に慈悲はない。この場に居る全員が狂ったようにこの身体をリンチし続けた。
「俺達の事も少しは考えろっての!」
「いや、いや。痛いのが嫌だから従ってきたの! やめてよ! やめろ!」
「イーシンツに負けず劣らずのゴミがよ!」
痛みが感じないと、こんなにも恐怖心は薄れるらしい。最初は怖かったが僅か二回目にしてもう慣れてしまった。腕が折れても頭が潰れても心臓を刺されても、次の瞬間それは幻になる。痛くも痒くも熱くも冷くもない。
「…………善い事が正しいってのも考え物だよな」
歯が折れようと、舌が切れようと喋り続ける。一音紡ぐまでに治るダメージなんて怪我でも何でもない。気のせいという。
「世の中善人ばっかりで……一日一善だの百善だの…………寒気がするような標語も掲げて…………平和のあまり、正しくない事に寛容じゃなくなったとかさ―――だから嫌いなんだよ」
だから、舌が痛くない。
だから、迎合したくない。
「人の死に目も分からなくなったようなお前らに、俺の事でとやかく言われるつもりとか、ない。画一的な善行がそんなに求められなきゃいけない事かよ。いつから都合の悪い事を無視出来る様になったんだよ」
いつから。
『社会』の規定は変わったんだよ。
比喩として言ったつもりだが、そうであったとしても不思議ではない。俺の知る常識はいつ何処で何時何分何秒地球が何回回った時に終わったのか。
「………………もういいや、変な事聞いて悪かった。勝手に探すわ」
俺の身体に群がる三人の白い糸を力任せに引き裂いて、その隙に部屋を脱出。廊下に出ると見知らぬ女子高生が死んだ目で携帯を弄っていたが、俺の事をとやかくするつもりはないようだ。それどころか多分気付いていない。
これ以上騒ぐと流石に規模が大きくなりそうなので、話しかけないでおこう。
「ビルなら、やっぱ上か?」
マキナによって追い詰められた時も、イーシンツは確かに病院の最上階―――院長室に居た。高い所が好きなのだろう。規定の使い方を考慮するなら人を見下すのが好きという可能性もあるか。
「上に行くの、やめた方がいいかんな」
「んおッ」
扉の前に突っ立っていた俺が悪い。ドアノブが脇腹を直撃した。振り返ると、八太郎君が咎めるような目つきで俺を睨んでいた。ランドセルは置いて来たようだ。
「…………追いかけて来なくてもいいんだけどな」
「お前があんまり馬鹿な事しそうだから止めに来たんだよ! ……上って行っちゃ駄目なんだぞ。シューヘイに怒られるし」
「シューヘイ?」
「イーシンツの右腕? とか言ってた人の名前。俺は興味ねーけどお前に教えたら喜ぶかなって思って」
「…………お礼は言わないぞ」
「―――ワカンネ。高校生って頭いいんだろ。何でそんな事言うんだよ」
「高校生だからって頭がいいとは限らないし、いい加減お前って呼ぶのはやめてくれよ八太郎君。俺は式宮有珠希だ。しきみやうずき。おっと小学生には漢字が難しいか?」
「馬鹿にすんな! ウズキだろウズキ! おいウズキ! お前さ、学校行った事ねえだろ! 学校行った事あるなら何でそんな馬鹿な事出来るんだよ!」
「ロクデナシだから。それより上に行かなくていいってのはどういう意味だよ」
「ウズキって高校生の癖に中学生みたいだから教えねえ! 礼も言わねえしな!」
…………?
高校生と中学生では学習深度に違いがあるから、要するに頭が悪いと言いたいのだろうが、小学生に言われたくない。その理屈を採用していいなら小学生は中学生よりも頭が悪いという流れになり、最終的に八太郎君は自分を正真正銘の馬鹿と言った事になる。
「―――分かった。じゃあもう帰ってくれ。俺は勝手に行くし、君は適当に何処かに居ればいい。なんかもう君とか他の奴等と話してるからかイーシンツに対して更にムカついてきた。ただでさえお前達みたいな善人は嫌いなのに、規定に侵された善人ってのはどうしようもないな。救いようがないよ、マジで」
苛立ちから小学生を相手にかなり大人げない事を言った気もするが後悔はしていない。年齢がどうであれ彼等の価値観に相違はない。善を愛し、善を信奉する紛れもない善人だ。親切は受け取るし気軽にしてくれるが、それ以外は微塵も受容出来ないそんな無個性の集まり。
だから、そんな彼が突然飛びかかってくるとは夢にも思わなかった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「ぐおッ!」
八太郎君が泣きながら突っ込んできただけならまだしも、その状態にこそ問題がある。出目金の様にギョロリと飛び出した両の瞳が焦点の会わないまま震え、それでいて涙を流しているのだ。彼は隠し持っていたナイフを俺の喉元に突き立てると、倒れ込むようにマウントを取って、力任せに何度も突き刺し始めた。
「やめろ! 何するんだ!」
「嘘だ嘘だ嘘だうそだあああああああああああああ! うわああああああああん!」
傷病の規定に侵されていなければ確実に殺されていた。それくらいの殺意と躊躇のない衝動がこの小学生に憑りついている。どうして相対的に落ち着いていた方の彼がここまで取り乱したのか。されるがままに殺されながら考えた所、俺は自らの発言にとんでもない地雷が潜んでいた事に気が付いてしまった。
救いようがない。
救ったり救われたりする善人達に、救世主症候群に罹った人間にそれは禁句だ。試した事なんてないが見たまんま駄目だと分かる。死体が認識されないのは、それ自体がとっくに手遅れだからだ。助けようがない存在を、お礼など決して言わぬ存在を助ける程、善人達は優しくない。だから合意の上で殺人があってもその死体は放置されるという理屈がまかり通る。
まだ生きている彼等にとって、救いようがない存在はあるべきではない。その目に映っていい訳がない。誰かが善人でなくなるような要素は排除されなければならない。簡単に言ってしまえば、俺はこの小学生に『お前の存在は無くなってしまってもいい』と言ったのだ。
「ちょ、悪かった、悪かったって! だから取り敢えずおちつ―――うごッ!?」
頭突きが口唇に直撃。減らず口を黙らせるように八太郎君は何度も頭突きを仕掛けてきた。
「しねよおおおおおおおおお! しんじゃえよおおおおおおおおおおおおおおお!」
気が済むまで殺させればその内落ち着くだろうと思って無抵抗を貫いていたが、流石に十五分も同じ方法で殺され続けると不愉快だ。元は俺が撒いた火種だが、これ以上付き合う義理は無い。次の刺突を掌で受け止めると、背中側から繋がっていた白い糸を引っ張って切断。動きが止まった内にナイフを奪い、裏拳で少年をマウントから引きずり落とす。
「―――悪かったって! 救いようがないってのは言い過ぎ…………」
…………ては、なくないか?
『傷病の規定』に侵された善人の危険性は、たった今証明されたではないか。
「…………とにかく、俺は上に行く。君は来なくていい。ていうか来るな。迷惑だし邪魔だ。顔も見たくない。イーシンツをぶっ飛ばしてくるから、それで家に帰れるようになったらさっさと帰ってくれ。じゃあな」
携帯に夢中な女子高生の横を通り過ぎて、俺は階段に足を掛けた―――その直後。
「教育を済ませねばと降りてみれば…………呪いを解いた恩も忘れ、貴方は何をしているのでしょう。式宮有珠希さん?」
階段の先に、俺に糸を繋ぎやがったスーツ姿の男性―――シューヘイが立っていた。




