基本のキはキカイのキ
「よっと」
逆さづりの状態から自由落下したかと思うと、数メートルの短い間に再反転。緩やかに足から着地すると共に、雨から逃げるように橋下へと入ってきた。
―――え、何この人?
兎葵が連絡を入れていたのかとも思ったが、家もなくて学校にも行っていない少女とどんな接点があるのだろう。俺の困惑と疑いを否定するように未紗那先輩は兎葵の事など気にも留めていない。そして傘も差していない。数時間前の俺と同じくらいずぶ濡れのまま、顔色一つ変えずに立っている。
「―――せ、先輩。な、何でこんな時間に?」
「それはこっちが聞きたいですッ。式宮君、私との約束破りましたね!? もー見てたんですよ私。病院から走り去ってく君の姿を。てっきり私を見て慌てて逃げたのかと思っちゃいました。夜遊びなんて感心しませんね」
「いや、それは先輩の方だって問題があるような」
「私は君と『一人で病院に行くな』なんて約束はしてませんからいいんです。ほら、考えてもみてください。私は悪い事をしていないから君を見つけられた。式宮君は私との約束を破る悪い事をしたので雨に見舞われ家に帰れなくなった。因果応報ですよ?」
俺に糸は無いので応報もクソもない。家に帰りたくないものだから逃げ回ろうとしたが、未紗那先輩の身体能力をすっかり失念していた。今度は二秒で確保され、歴史的瞬殺は目にもとまらぬ速さで更新されていくのだった。
「さ、帰りましょう。こんな所に居ては風邪を引きますよ」
「それは先輩だって同じでしょ!?」
「私は大丈夫です。この通り身体が強いものですから。―――くしゅんッ!」
「激弱ッ」
身体能力はともかく、目の前で風邪を引かれるのは見捨てたみたいで申し訳ない。何としても抵抗してやろうという気概はとっくに消え失せていた。ちょっと前の転倒と言い、今のくしゃみと言い、未紗那先輩は強い癖に弱っちい。何を言っているか俺も分からないのだが、警戒するのが馬鹿らしくなってくる、というか。
「―――分かりましたよ。取り合えずここを出ましょう。賭けにも負けたんでね」
「そうそう。さっさと帰るがいいです不審者高校生」
背中を追撃する兎葵の発言は一々癇に障る。しかし賭けに勝ったのは彼女で、明らかに分の悪い勝負だったのも両者承諾済みだ。その上でこういう結果が出るなら何を言われても黙るしかない。
「―――貴方こそ風邪を引かないようにして下さい。体調崩すくらいだったら傘は返さなくてもいいですから」
「敗者は去るのみだ。そう言ってくれるなら傘は返さないかもしれない。兎葵も―――まあお前の発言が嘘か本当かは置いといて、風邪引くなよ」
「また会いましょう。あり―――」
雨音に少女の声はかき消されていく。一つ屋根を追い出された俺達は予期せずして相々傘の形を取りながら強制的に帰路に着いていた。先輩にブレザーを貸している関係で俺は人一倍寒い。風邪を引かれるよりは全然いいのだが。
「知り合いですか?」
「え? まあそんな感じですね。それで先輩は、何で俺の所に来たんですか? ていうかよく居場所分かりましたね」
「ずっと尾けてましたからね」
「…………」
「おや、何か言いたそうな目付き。しかし元を辿れば約束を破った式宮君に原因があります。タチの悪い先輩にストーキングされても文句は言えませんよ? 一度、ちゃんと家には戻ってるじゃないですか。何でまた急にほっつき歩くんです?」
「……家は今、危ない状態なんです。多分、病院に居た人と同じ人が来てる。だからその……なんて説明したらいいんでしょうかね」
「説明でしたらとても簡単に出来ると思いますよ」
「え?」
「君には何が見えてるんですか?」
背筋の寒気は、雨によるものだと信じたい。先輩の声音は至って普通だ。特別恐ろしい事はない。体の一部が変形していたり、みるみる内に傷が快復したり。そんな事は決して。
「それ、聞かない約束なんじゃ? 日付が変わったから有効切れって感じですか?」
「いえ、式宮君が約束を先に破っているので、わざわざ私が守る必要はないかなと」
未紗那先輩は致命的な勘違いをしている。俺は病院に一人で行った訳ではないという部分だ。しかし『不思議なキカイと一緒に行きました』なんて言っても信じてもらえるか怪しいし、仮に信じてもらえたとしてもマキナの存在を他の人にばらすみたいで気が引ける。
かと言って糸について話さずこの場を切り抜けるのも不可能だ。己の矮小なプライドとマキナからの信用を天秤にかければ、答えはとっくに決まっていた。
「…………信じてもらえないかもしれませんけど、俺には因果が視えるんです」
先輩は言葉を返さなかったものの、いつにない食いつきの良さを見せた。傘を握っていた手を抑え込まれいよいよ逃げ場が無くなっているが、背水の覚悟で話している。この秘密を話すのは、俺からの信用の証と言ってもいい。
だからこれで、三人目。
「…………因果を糸として捉えている、ですか。成程。保険を掛ける訳ですね。普通の人なら信じないでしょう」
「信じるんですか?」
「君と同じで少々変わった先輩なんですよ私。成程、私も含めて人間が傀儡のように見えるんですか。それでいてこの世界全体が君にとっては檻に見える……分からない事があります。確かにそういう力があるなら君の行動原理にも納得がいきます。不思議なのは、どうして発狂していないのかです」
「……そんなの、見え始めた頃に散々したので。今はもう、割り切ってる感じで」
「そんな簡単な話じゃないと思いますけどね。君一人で気付けるような事でもなさそうです。因果については誰に聞いたんですか?」
「……そこまでは、約束の範囲外なので」
「そう来ましたか。ではその方面はまたいずれ。何にせよ式宮君の精神が強い弱いの話では済まされません。それは本当に異常です。存在さえ許されないくらいのね」
「死体みたいな、ですか」
「ええ。在るだけでも悪いってくらいです」
足元でずぶ濡れになった死体を跨ぎ、歩き続けている。従来の帰路からは外れ、それとなく先輩の誘導に従っていた。事情だけは理解してくれたようだ。もしも当てがあるならホテルでも何でもいいから俺を休ませてくれるといいのだが。この視界について教えたお礼として何とか……ならないか。
「未紗那先輩。お願いがあります」
「何でしょう?」
「俺、病院で何とかして元凶を追い詰めたんです。でも逃げられて……多分ですけど。もう一人じゃ捕まえるとか無理だと思います。なので、二人で協力しましょう」
「おや? おやおや? それは助けを乞うているのですか?」
未紗那先輩は意地の悪い笑みを固く結びながら煽るように尋ねてくる。タチが悪いと自称するだけあってその性格の悪さは筋金入りだ。そう言われると、違いますと言いたくなる。何なら発言を撤回しそうだ。これはもうどうしようもない。癖の領域を超えて性分だ。
内心の狼狽えを隠すように沈黙していると、未紗那先輩が片足で前方を塞いだ。
「ふふふ。では取引と行きましょうかッ。君は……そうですね、絶対に一人では行動しないようにしてください。その代わりに私は君を守ります。もし破ろうものなら、今度はストーカーじゃ済みませからね~?」
「な、何する気ですか」
「それはその時になってからのお楽しみという事で! 今日は私の家で泊まっていって下さい。ルームメイトがいますが、彼女はもう就寝している筈なのでお気になさらずッ」
―――泊まってばっかだな、俺は。
マキナの家で泊まって、今度は未紗那先輩の家に泊まるらしい。ルームメイトの存在には気を遣うものの、我儘は言えない。風邪を引いた挙句に睡眠不足まで煩ったら『傷病の規定』関係なしに著しく行動を制限されかねないからだ。
「…………先輩」
「はい?」
「家族―――無事だと思いますか?」
「まだ襲われたと決まった訳ではありませんよ。もしかしたら君みたいなおっちょこちょいの集団を泊めているのかもしれませんから」
気休めだ。そんな楽観的な考えは通用しない。彼女は俺に気を遣っている。余計な心労を溜める必要はないと思っているのだろう。有難い話だが、それが何よりも結果を実感させてしまった。今、未紗那先輩を向かわせた所でとうの昔に手遅れなのだと。
出来る事があるとすれば、無事を祈るばかり。
そして妹からのお願いを、聞くばかり。
「式宮君は家族が大切ですか?」
「…………妹以外は、そんなに。でも―――死んだり妙な目に遭うのは、違うと思います」
「そうですか。でしたら明日の朝にでも様子を見に行きましょう―――それと式宮君」
「はい?」
「本当は最初に言うべきだったんですけど、今言います。ごめんなさい。私が迂闊に苗字を口走ったばかりに貴方が規定者のターゲットになってしまうなんて。本当にごめんなさい!」
それはきっと、心からの謝罪。
深々と頭を下げる先輩はいつになく小さく見えていた。
「―――こんな場所で謝らなくてもいいですよ未紗那先輩。あれは単純に先輩をからかいたかっただけでそこまで怒ってる訳でもありませんし。ただまあ―――そこに付け入れば取引とかする意味がなかったなあとは思いますけど」
「―――からかった?」
「……あ」
微妙に語弊があるが怒りがないのは本当なので間違ってもいない。それにしても語彙のチョイスが不味かった。
「式宮くぅん?」
「………………………ごめんなさい」
最初に言うべきだと思ったので、未紗那先輩の家に着くよりも前に謝った。
「……ふっふっふ。意趣返し成功ですねッ!」
そして未紗那先輩も別に怒ってはいなかった。
一勝一敗。ままならない戦績である。




