命を求める理由
山を下りる頃には夕方になっていた。夜から夕方になるのは急に外国へ行ったみたいで違和感が拭えないが、ここは同じ国の同じ場所。空を覆い隠していた枝葉が薄い場所にまで下りて月を見上げようとしたが、いつもの糸を忘れていた。そんな物は見えないし、妨害されているなりに怪物の姿は何処にも見当たらない。
「……本当に視えないんですね」
「視ようとしても無駄ですよ……それよりも式宮さんはあちらを対応するべきでは?」
「へ?」
まだ山を下りきった訳ではないが、地上が問題なく見通せるくらいにはもう下りていて、殆ど地上と言っても差し支えない。時間帯も夕方で、余程目が悪くない限りは外に居る人間も俺達が山を下りてきたばかりだと認識するだろう。
そんな中で、マキナだけは違った。
「…………ん? ん~! ん~!」
目の前で背伸びをして山の中を見ようとしている。塀が邪魔とか、そういう訳ではない。そもそも塀どころか、背伸びをしないと視覚の邪魔になるような物体も存在しない。目と鼻の先で、そんな事をしている。
腕を組んで足をぱたぱた動かしたり。
両手を頭の後ろに置いてちょろちょろ動き回ったり。
俺の存在はまるで見えていない。
「……なんか、出たくなくなりました」
「おや、どうなさいましたか?」
「面白いので、眺めていたいです」
胸の下で腕を組んで碧花さんがため息を吐く。丁度マキナも同じように腕を組んで眉を顰めていた。勝手に動きがシンクロしたみたいで面白い。
「………………有珠希」
俺の名前を呼んだだけに過ぎないが、彼女はとても寂しそうにしている。手を伸ばせば触れ合える。何処にだって触れる。顔にも髪にも胸にも腕にもお腹にも足にも。そんな至近距離でも彼女は俺に気づいてくれない。
―――こんな未来もあったんだろうな。
彼女と触れ合う事もなく、ただ見つめる事しか出来ない。それは日常の様に残酷で、儚い。通りすがりに一目惚れをしても、その思いが通じる事はない。
「……マキナ」
俺はコイツの正体を知った。月に巣食う怪物の分身、それがキカイ……マキナやクデキの正体だ。その上で俺は彼女に対してどう思っている。今更彼女を拒絶するのか? それが許される立場ではない。大体許しなんて求めてもいない。人の世は全く寛容ではない。たとえ俺のこれまでの弊害が全て『意思』の規定によるものでも、善意の押し付けから始まる世の中は表面的に平和を保っていただけで、全く平和ではない。善意がない奴には何をしても良いそれは決して罪ではない……反吐が出た。
だから俺は、コイツの傍に居る。居心地が良い。まるでヒトの代表であるかのように振舞える。マキナは俺を見てヒトを学習する。
「…………はぁ。いつまで見つめているのですか? じれったいですね」
ドンッ。
拳で背中を軽く押され、山の外に体が飛び出した。目と鼻の先にはマキナが居るのに勢いを殺しきれず、そのまま衝突してしまった。
「きゃあッ!?」
「うおおおおお!」
彼女がクッションになって俺はそうでもなかったが、重さがかかるマキナはどうだ。珍しく完全に不意を突かれており、俺の顔を見つめたままフリーズしていた。俺も、何を言うべきかなんて考えていない。胸に手を突きそうになったのを辛うじてマキナの掌が受け止めて、そのまま柱の様に俺達を繋いでいる。
「…………た、ただいま。マキナ」
「………………お、おかえ、り?」
身体を起こして彼女の手を引っ張り上げる。『清浄と汚染』によりマキナの体には土一つ付いていない。銀色の瞳は星のように煌めく涙を滲ませながら俺を睨んで……おもむろに首を掴んできた。
「遅い! ずっと待ってたのに、どこ行ってたのよ!」
ヒトがか弱いと知っていながら、マキナは余りある力を俺にだけはぶつけてくる。それが彼女なりの信用なのか、それとも単に力の制御が下手なのか。前者だと思いたい。首の骨がみしみしと悲鳴を上げているが、マキナが俺をこんな形で殺す事はないだろうと信じて、耐えている。
「ずっと……ずっと待ってたのに。消えちゃうんだから。私、もう帰ってこないんじゃないかってすっごく不安になったのよっ?」
「…………ごめん。ちょっと遅れた」
「ごめんじゃない! バカ! バーカ キライキライ! キライキライキライキライキライキライ! 顔も見たくない!」
俺の胸に顔を埋めながらポカポカと身体を叩かれる。俺にとっては一瞬の登山でも、時間の流れは違っていて、マキナにとっては余程堪えかねる退屈だったようだ。首を絞められながら体重を預けられてもうどうすればいいかさっぱりだが、とりあえず背中に手を回して抱きしめてみる。
「……仲直りしたいな」
「………………今日も、泊まってくれる?」
「それで許してくれるのか?」
コクンと後頭部が頷いた。だからコイツは人間にちょろいと思われるのだ。どんな頼みをしても俺は聞くのに、ただそれだけで良いと勝手に妥協してくれるのだから、本当に安い。断る選択肢なんて用意するまでもない。
「……一旦家に帰らせてくれ。その後は、ずっと一緒にいるよ」
「出かけたりしない?」
「しない」
「一緒に寝るのよ」
「分かった」
「…………………」
フワフワで、フカフカで、この瞬間が永遠に続けばどんなに良いだろう。それこそ真の平和だ。やはりマキナには帰ってほしくない。どんな事があっても、彼女は彼女のまま、ここに留まっておいて欲しい。
「……マキナ。そろそろ碧花さんが困りそうだから離れてくれるか? 車で帰らないと」
「私の事はお気になさらず」
碧花さんも山から出て、俺達を横目に車の方へと歩き出した。まさにその声がしたと同時に胸の中にあった感触は消え、マキナの姿は跡形もなく失せてしまった。
「え……え?」
「異形に嫌われるのはいつもの事です。それよりも私に気を遣わず、キカイのご機嫌を取った方がよろしいのでは? 車は後で回収させますし、私はツテを頼って帰宅しますから」
「え? い、いいんですかね。そういうの。なんか申し訳ないんですけど」
「その申し訳なさは私を頼ろうとした時に感じるべきでした。今更気にする事ではありません。二人のお時間を邪魔する様な野暮がどんなに不愉快か、痛いくらいに知っております故。善は急げとも言うでしょう? しかし……最後に、一つだけ」
碧花さんは車を背中に据えながら、見通すように目を細めた。
「クデキさんと戦わなければならない理由を、今一度お尋ねします。何故ですか?」
キカイの正体を知った。
本体の目的を知った。
幻影事件を人質に、クデキは己の命を保障している。真実を知れば戦えない。それが平和を維持する最も簡単な方法だ。それがアイツを守る無敵のバリアだ。真実を知っても知らなくてもどうせ殺せやしないと。高を括っている。俺が、人間だから。
「マキナが、困ってるからです」
「…………それだけですか?」
「俺は笑顔が好きです。誰かが幸せそうにしているならそれだけで、自分の生きてる意味があるとさえ思えてきます。マキナのは格別で、心の底から俺を幸せにしてくれる。自分の価値を他人に預けるもんじゃない。そんなの分かってますけど、それでも俺はアイツが笑顔になってる限り、まだ生きていていいって思えるんです。どんなにこの世界が酷くても……アイツだけは、味方をしてくれるから。大体、誰かが困ってるのに助けないのは人としてどうなんでしょう。俺は弱いかもしれません。でもアイツの前では強くありたいんです。その為にクデキは邪魔だ。奴が居る限り、マキナはずっと困って幸せになれない。だから…………」
キカイを愛した代償を。
マキナに手を伸ばした反動を。
人間社会を拒絶した罪過を。
その全てを責任として。
「クデキはこの手で、殺さないといけないんです」
それが全てを知った上で得た、俺の動機。碧花さんは特に余韻も持たせず、車に乗り込んだ。
「そういう動機を聞きたかったのです。改めて……クデキさんへの案内、お引き受けいたします。後日未礼さんにお伝えいたしますので、後の事は彼女に。それでは式宮さん―――幸運を。特にその愛を、私は肯定します」
上空を舞う身体が慣れ親しんでもいない家に到着したのは一瞬の事だった。風圧で体がどうかなりそうだったが、以前に比べれば慣れた方だ。あんなに不機嫌だったのに、碧花さんが居なくなったのと約束を取り付けたからかマキナは目に見えて舞い上がっていた。
「じゃあ、待ってるわね!」
「お前って本当……分かりやすいな」
「うふふ♪」
地面が陥没し、マキナは空高く飛んで行ってしまった。力の制御を少しはしてくれないだろうか。以前よりもかなり配慮が欠けているというか、自分の力を弁えているならもう少し繊細な努力をしてほしいものだ。コンクリートの陥没なんて早々起きるものではないのだから。
―――ん?
煙の臭いがする。家の裏側、このマンション自体ではないが、かなり近い。周囲に巡らされた糸が、五感が漏らした情報を補完させてくれる。
「……諒子!?」
考えるより先に走り出す。臭いの出所を教えてくれるのは五感ではなく赤い糸。無数の糸の中に、まるでこちらを導く様な糸が存在している。それを辿って駆け抜けると、未紗那先輩が隠れ家とするゴミ捨て場に、火が放たれていた。犯人は『未礼紗那に復讐を!』というプラカードを掲げた何十人もの集団。自作の火炎瓶やライターを使い周辺の可燃物に向かって無差別に放火を繰り返している。
「あぐ……やめ……ああああああああああああ!」
先輩はこんな事では死なない。だとしても助けた方が良いか。抱えた袋を守ろうとする諒子に放火されて、そんな前向きな逡巡さえ灰になった。
「おい」
トモダチに向かって火炎瓶を投げつけようとする男の糸を切り払い、奪った瓶をコンクリートに投げ捨てる。
「先輩以外に手を出すのは違えだろ。なあ―――分かったら全員とっとと失せろ! てめえら全員ぶっ殺すぞ!」
人海戦術で抗うならこちらは質だ。見せしめに近くに居た女性の肩を刺してその血しぶきを全体に向けて振り払うと、俺の凶行にほぼ全ての人間が怯んでいた。
「こゆるさんを殺したのは俺だ! 分かったらとっととその手に持ってる物全部俺に向けてかかってこい! ―――全員あの人と同じ所に送ってやるからよ」




