析出した愛
5章終わりです。8
人口について調べたのは嘘だ。そんな時間は無かった。しかし幻影事件から何年も経って人口について言及されていないのはおかしいだろう。多くの人間が被害を被った割に数字として実態が現れない。集団幻覚として扱われるのはそこが由来か。
「………………………嘘」
「……嘘って。先輩が言った事でしょ」
「………………しんじません。しんじ、られません。だって。だって……ああ……」
「先輩?」
「クデキさんが…………そんな……筈…………は」
「うい~。全員その場から動くなよ~」
現れたのは金髪をオールバックに纏め、紅いパーカーを着た長身の男性。恐らく外国人であろう男の発音は少々怪しい。しかしこの場でそれを指摘しようものならただちに銃殺されるのではないかという予感があった。男を筆頭にして控えているのはフェイスマスクを被った人間が三〇人程。全員が自動小銃を装備しており、種類こそよく分からないが何であっても俺と諒子に当たればタダでは済まない。
『生命』の規定のリンクは、とっくに途切れている。どうも俺の首筋から繋がっていたようだ。視えない訳である。
「…………メサイアの人ですか?」
「おー? まあな。日本の支部には初めて来たが、あれだなー。だらしがないなー」
「メサイアは武力を持たないんじゃ?」
「おーだから後ろのは違うなー。その辺の奴等雇っただけだー。装備は軍からちょいちょいのちょいと」
何でもありか。何でもありだった。これば別にメサイア・システムだからこそ出来る特権ではなくて、誰にでもできる事。善人はそのような強制をしないだけで、その気になれば俺だって全身を武装する事が可能だ。
金髪の男は吸っていた煙草を放り捨てると、俺に近づいてきた。
「よおー。ミシャーナってのはどいつだー? お前じゃないよなー」
「…………さあ」
「おいおいー。知らないってのはおかしいだろー。それとも死にたいのかー?」
ああ、諒子以外に理解の得られない視界の悪さを、どうやって説明しよう。ただでさえそこら中に倒れている人間の糸が建物全体に広がっているのに、更に追加されては堪ったものじゃない。優先順位が逆転した。気分が悪い、
「……何だお前、体調不良かー?」
胸ぐらを掴まれたままの方が良かったかもしれない。手を離された途端に胃の中で滞留していたモノが翻って嘔吐。まだ消化の終わっていない食べ物等が床にぶちまけられる。
「式君!」
胃液に触れたせいで喉は焼けるよう。目に入った罅は広がるばかり。肌に滴る濡れた感触は血液に違いない。ただ糸が広がるだけなら病状が悪化しただけという事で済ませても良かったが、流石に進行形で悪化し続けているとなると話が違う。
脳はシェイクされ、耳鳴りは諒子の声も消すくらい大きく、手の感覚が焼失した。声を出そうとすれば声帯が擦り切れる。だから声は出せないが、出さないと窒息してしまう。
「あ……あ……ぐぅぅぅ」
「じゃあお前に聞くかー。ミシャーナってのは誰だ? それともお前かー?」
「煩い黙れ! 式君、しっかりし―――」
諒子の身体が視界から弾かれた瞬間、俺を苦しめていた全ての痛みが動きを止めた。
「黙れってさー。状況見て言ってくれよー」
背後に振り返る。諒子は顔を勢いよく蹴られ、崩れ落ちていた。
「ミシャーナを回収するんだからさー。お前がミシャーナだったら話が早いけど違うんだったら面倒だろー?」
「……そんなの、どうでもいい。お前等みたいな怪物となんか話したくも、ない。お前等みたいなのは、消えてなくなっちゃえばいいんだ」
「諒…………子」
何でお前が、先輩を庇うんだ。アイツにとっては俺に危害を加える危ない存在だった筈なのに。何で先輩を庇って、どうして俺の代わりに殴られて。何で頑なに相手をしない。男性からは苛立ちを隠せない様子が窺える。分かりやすく額に青筋を浮かべて、不機嫌そうに頭を掻いていた。
「困ったなー。俺は別に、ここで倒れてる奴等全員連れ帰ってもいいんだぞー。違う奴は殺せばいいだけだしなー」
「―――おい」
「んー体調不良が治ったのかー? いやいや、無理しなくていいぞー。流石にお前は違うって分か」
「煩い」
掌で鼻を叩くと、男性は鼻血を噴き出しながら面食らったように下がった。
「善人が聞いて呆れるんだよ。女の子殴っといて、他人の心配とかするなよ気持ち悪い。何の用事か知らないけど、未紗那先輩の事なんて話す事は一個も無い。とっとと帰れ。メサイアの内部抗争なんかに巻き込むな面倒だから」
「ああ…………? お前ー。何か知ってるみたいだなー。ちょっと来てもらおうかなー?」
「誰に、来てもらうですって?」
瞬きの瞬間、俺達の間に突如として割り込む女性の姿が。
「ねえねえ、誰に来てもらうかもう一回言ってよ♪」
人類の金髪を紛い物と切って捨ててもいいような眩い髪質。かつて俺が校舎に捨てたコートを羽織り、そいつは場違いにも現れた。
「……マキナ」
「あー? ……なんか面倒だなー。ちょっと数減らすか」
挨拶もなれ合いもなく男性は背後に指示を飛ばして発砲させた。最前列に立っていた人間が一斉に構えてマキナい対し全弾を射出したが、彼女の煌びやかな美貌に傷をつける事は只の一発もかなわない。
「…………は?」
男性は驚きを隠せていない。この世に銃を無力化する生物がいる筈がないと。そんな常識に縛られて身動きが鈍くなっている。背中を見せているのでこちらから表情は分からないが、今のマキナは多分、とても怒っている。
「現れただけで発砲なんて、ニンゲンの知性も堕ちたものね。少しは命乞いを聞いてあげようかなと思ったのに、つまんなーい」
「え。お。おま。おまえ。な、な、何者」
「でも私、我慢強いからもう一回だけチャンスをあげるわ♪ 聞き間違いかもしれないし、そうだったら有珠希に嫌われちゃうから。誰に来てもらうの?」
怖いくらいに、いっそ友達になってもいいくらいに動揺が読み取れる。マキナの存在はやはり異質だ。そうだ、居るだけで目立つだけではない。未紗那先輩はずっと追っているからリアクションが薄いだけで、その存在は。その非常識は。メサイア・システムの人間にとっても信じ難い、まして海外に身を置いているような奴には、到底信じられない。
「…………お前の背後にいるガキだが」
「ふーん。そうなの。じゃあ聞き間違いじゃないのね。そっかそっかー。ふーん。ニンゲンはいつから浅ましくなったのかしら。私の物に手を出すなんて、ミシャーナなんてすぐそこに転がってるのに、愚かなのね」
「……何?」
マキナが初めてこちらに身を翻した。満面の笑みは相変わらず、俺の目を覗き込んで、頼み込むように言う。
「ねえ、有珠希。アイツ等に繋がってる糸はどれ?」
ここでその頼みを断る選択肢はない。最初の時と同じだ。こいつに守ってもらわないと、俺は死んでしまう。或は俺が死ななくても未紗那先輩は連れて行かれ、逆らった罰として諒子は殺されるかもしれない。
地面に広がる糸を纏めて掴み、マキナの掌に重ねる。
「ありがと♪ やっぱり有珠希は私の味方ね! ……好きよ?」
蜘蛛の巣が無数に広がったような視界になってしまっても、絶対光輝のマキナには一本も繋がらない。彼女に握られた赤い糸はあれだけ試しても切れなかったのに、今にも引きちぎれてしまいそうだ。
「ずっと貴方達の組織が気に食わなかった。本当は全部潰したい所だけど、今はそれどころじゃないから。貴方達の首で我慢するわ」
そう言って、マキナが糸を改めて握った刹那、男性を含めた兵士達は煙のように姿を消してしまった―――いや、煙になって姿を消してしまった。
「兎葵も少しは役に立つわね。良い情報も聞けたし、帰りましょうか。ね、有珠希!」
「…………すまん。俺の為に」
死体が消えてしまえば、赤い糸も残らない。果たしてその事を伝えてあったかは忘れてしまったが、一気に視界の負担が減った。マキナは怒っている時と同じくらい笑ったまま俺の手を握る。精神的なものではなく、みるみる内に体調は回復していった。
「未紗那先輩は、いいのか? 俺は……嬉しいけど」
「情報料代わりに見逃してあげる。それに、これで思い知った筈よ。有珠希は私のモノで、絶対に奪えないって!」
たった数分で色々な事があった。先輩は全く外界の様子を気に掛けていない。己の何かを問うように蹲ったまま、動かない。
「…………諒子」
トモダチはとっくに体勢を立て直し、俺の手を密着状態で繋ごうとするマキナに対して敵意をむき出しにしていた。目の前で文字通り次元が違う力の差を見せられた筈だが、ひょっとしてアイツの視界ではマキナも溶けて見えるのだろうか。
「式君。そいつは……!」
「ああ、まあ気にしないでくれ。それより悪い。一緒に帰れなくなった。未紗那先輩の事、お願い出来るか」
カガラさんも何処かでここの様子を見ているなら、俺達が立ち去った後に現れる筈だ。それで一先ずはお終い。誰にとっても不利益だった未紗那先輩の暴走は終息する。
「し、式君……!」
マキナに手を引っ張られて支部を後にする俺の背中に、諒子が消え入るような声で呟いた。
「……また、明日……………………」
自分の家に帰りたかったのに、またマキナの家に連れて行かれた。でも今回は仕方がない。唐突に始まりかけた抗争に巻き込まれた所を助けられたのだ。それであまり文句を言うと、マンションから突き落とされるかもしれない。
「有珠さん。無事だったんですね」
リビングに入るや、兎葵が無愛想な顔でそう言った。いつもの事だが、どうも俺を心配していたようだ。糸にそう書いてある。
「まあ、心配してませんでしたけど」
「俺の視界を見て、良くそんな事が言えたな」
「それをマキナさんに伝えてたんですから……怪我とか、ないですよね? あったら手当してあげなくもないです」
「そんなもの必要ないわ。私の治療は完璧だもの。それはそうと……今日はごめんなさい。有珠希」
「え?」
まさかマキナから謝罪されるとは思わず、狼狽してしまった。心当たりがあるならまだマシな方で、何に謝られているかも実は良くわかっていない。
「な、何のことだ?」
「まさか家で待ってるなんて思わなかったの! ミシャーナがそこまで手段を選ばないなんて思わなかった!」
「あ、ああその事か。いやいいよ。お前が寝てる内に帰ろうとした俺が悪いんだし」
「駄目! 良くないわっ。貴方の力は特別なの。取引相手が居なくなったら取引は停止するのよ? だからね、これからは私が送っていくわ! これなら心配なんて要らないでしょ!?」
俺に危機感がないせいもあるが、マキナはマキナで全面的に自分に非があるとしているせいで断りにくい。断ったら、まるでやましいことがあるみたいだ。
「いいけど……お前目立つから遠くから見ててくれよ。話がややこしくなる。メサイア関係なく」
「決まりね、毎日貴方の姿を見られるなんて夢みたい! うふふふふ♡」
今日は新しく覚えたレシピを再現するらしく、マキナは意気揚々と厨房へ入っていった。アイツには規定があるから汚れないのに、何故かチェックのエプロンを着用した。
可愛いから、俺はいいけど。
「…………全然本題に入りませんでしたね」
「本筋?」
机の向かい側に座っていた兎葵が目を伏せた。
「マキナさん。ムカつくからってメサイア・システムのトップの名前を元々知りたがってて。私、有珠さんの視界から読唇で読んで…………」
「……いやに口が重いな」
「マキナさんが言うには、先代のキカイがそんな名前らしくて」
それで何故兎葵の口が重くなるのか。それはあの日のやりとりが影響している。
『……幻影事件の真っただ中。みんな、見境なくて。私も襲われました。有珠兄の為に買い出しに行こうとしたんです。その時……助けてくれた人が『距離』の力と視界をくれたんです。なので、有珠さんが追ってるような人からは貰ってません』
マキナがバラバラになったのは大雑把に区切っても直近半年の事だ。それより前に起きた幻影事件には別のキカイが降りている。兎葵の規定はそいつから得たとしか考えられない。
そして兎葵はその人物の詳細を知らなかった。分かるのは俺の友達だったという事……。
「…………俺、そんな奴。記憶にないんだけど」
記憶にない妹。
記憶にない友達。
記憶にない幻影事件。
何もかも思い出せない。その片鱗もない。俺の記憶では視界の異常を除けば平和そのもので、ある日突然変わってしまったような。
ここまで都合よく忘れるなんて偶然ではすまない。友達がメサイアのトップだなんて、何をどうやれば忘れる事ができようか。
じゃあ俺は、俺の記憶は。
なんなんだ。




