どこかで、誰かが泣いています(二)
「ごめんなすって……龍さん、いますかい?」
剣呑長屋の自室で寝そべっていた龍。だが、表から聞こえてきた声を聞いて、思わず首を傾げた。自分を訪ねて来るのは、仕掛屋の面々くらいなのだが。
その日は、龍にとって特筆すべき事はなく、何の用事もなかった。表稼業を持たない龍にとっては、ただただ暇な一日である。外で日課である拳法の稽古を終えてしまうと、もはや何もすることがない。遊ぼうにも金もない。そこで仕方なく家に戻り、寝そべっていたのだ。
しかし表からの声を聞き、体を起こした。そして用心深く戸を開ける。
戸の前には、清太が立っていた。
「あ、どうも……今から一緒に、飯でも食いに行きませんか? 安い店なら奢れますよ」
「え、飯? どういう風の吹き回しだよ?」
龍が尋ねると、清太は照れくさそうに笑った。
「いえね、日当が入ったもんで……引っ越しの挨拶の時、土産が無かったんで、代わりにどうかなと思いまして……」
「何だそりゃあ。お前、島帰りの癖に、妙に律儀な奴だなあ」
そう言って、龍は笑って見せた。
そして清太と龍は、上手蕎麦に入って行った。客は二人の他はいない。龍がざる蕎麦と酒を頼むと、以蔵が運んで来た。
「俺は、本当についてますよ。善兵衛さんみたいな善い人と出会えて、雇ってもらえて……」
しみじみと呟いた後、蕎麦をすする清太。彼の前には龍が座っている。龍は複雑な表情で、清太の言葉を聞いていた。
「なあ清太、俺は善兵衛さんとやらのことはよく知らねえ。だがな、あんまり他人のことを信用しねえ方がいいぞ」
そう言うと、酒の入った御猪口を口に運ぶ龍。清太は不思議そうな表情になった。
「そうかなあ……善兵衛さんは、いい人ですよ。俺たちみたいな島帰りが相手でも差別しないし――」
「わかってねえなあ。島帰りはな、いつまで経っても島帰りなんだよ。こいつからは一生、逃れられないんだ……」
その言葉と同時に、龍は自分の逞しい二の腕を晒して見せる。
そこには、二本線の刺青が彫られていた。言うまでもなく、島帰りの印である……。
「龍さん……あんたも島帰りだったのかい……」
驚きの表情を浮かべる清太に、龍は頷いた。
「渡る世間なんざ、鬼ばかりだぜ。世間の連中はな、口ではいい事ばかり言う。でもな……腹ん中では俺たち島帰りを見下し、蔑んでやがるのさ。他人の善意なんざ、信じられるか」
吐き捨てるように言ってのけた龍。清太も感じるものがあったのだろうか、神妙な顔つきで話を聞いている。
そして、龍は言葉を続けた。
「俺たち島帰りはな、誰も信じちゃいけねえんだ。信じられるのは、てめえと銭だけだよ……」
明日は仕事があるから、と言って、清太は先に帰って行った。
残された龍は一人、御猪口を口に運ぶ。妙に苛ついた気分だった。清太を見ると、昔の自分を思い出す。島から帰って来たばかりの頃の自分を……。
「龍さん、今日はご機嫌斜めだね」
以蔵がさりげなく声をかけると、龍はじろりと睨みつけた。
「この野郎……学があるからって気取ってんじゃねえや。おめえもどうせ、俺を見下してるんだろうが」
「うーん、正直言えば、確かに見下しているかもしれないね」
あまりにも、あっけらかんとした表情で言ってのけた以蔵……さすがの龍も、怒るより前に笑ってしまった。
「ったく、ふざけた野郎だな」
「いや、ふざけちゃいないさ。それに、あんただって私のことを見下してるんじゃないのかい? 人間はみんな、学の有る無しにかかわらず、自分が一番賢いと思ってる生き物なのさ」
以蔵の言葉に、龍は目を白黒させた。
「え? あ、あの……何を言ってんのかわかんねえよ……」
「龍さん、あんたは正直だね」
・・・
その夜。
河原にて、みすぼらしい着物を着た女がふらふらと出歩いていた。俗に言う夜鷹である。客を求めて、縄張りとしている河原の周辺を徘徊していたのだ。
そして、夜鷹は歩いて来る者を見つけた。まだ若い男だ。顔はよく見えないが、背が低く小太りである。どうやら、ここらを仕切る怖いお兄さんや、町方の手先ではないらしい。
そっと、男のそばに近づいて行く夜鷹。
「ちょいと、そこの旦那……お暇なら、遊んでいかないかい?」
言いながら、夜鷹はしなだれかかる。すると、男はにやりと笑った。
「お前と遊ぶのかい……私は構わないよ」
「そう……だったら、こちらにいらして下さいな」
そう言って、夜鷹は手を引いて行く。
男は不気味な笑みを浮かべ、されるがままに付いて行く。
いつの間に取り出したのか、その手には剃刀が握られていた。
ひとけの無い河原のあばら屋に男を連れ込む夜鷹……だが次の瞬間、男は動いた。剃刀を振り上げ、夜鷹に襲いかかる。
夜鷹は完全に不意を突かれた。喉を剃刀で切り裂かれ、驚愕の表情を浮かべる……だが、男の手は止まらない。剃刀で、何度も何度も切りつける――
男の顔は、返り血で真っ赤に染まっていった。
やがて、夜鷹の動きは止まる。完全に動かなくなった……。
男は不気味な笑みを浮かべながら、夜鷹の血まみれの着物を剥ぎ取る。
そして、夜鷹の死体に覆い被さっていった。
それから一時ほど経った頃、木戸屋善兵衛の屋敷内では罵声が響いていた。
先ほど夜鷹を剃刀で切り刻み、そして犯した男が、善兵衛の前でぶるぶる震えているのだ……。
その横には冷酷そうな顔の同心が一人、思案げな顔で立っていた。
「茂三……お前って奴は! またやったのか!」
言いながら、男を殴り付ける善兵衛。普段の温厚そうな様子が嘘のように、鬼のような凄まじい形相である。
茂三と呼ばれた男は殴り倒され、惨めな表情で床に這いつくばっていた。
「お父っつぁん! 堪忍しとくれよ!」
先ほどの凶行が嘘のように、床で土下座し泣き叫ぶ茂三。まるで、叱られている幼子のようだ……。
しかし、善兵衛は容赦しない。なおも茂三を蹴り飛ばそうとする。だが、同心の男が割って入った。
「まあまあ……善兵衛さん、やっちまったもんは仕方ない。ただね、もう私だけでは誤魔化しきれなくなってきてるんだよ。茂三さんが、殺される前の夜鷹と歩いてるのを見たって奴もいる……こないだの話、やるしかない。身代わりは用意できたかい?」
同心の言葉に、頷く善兵衛。
「わかりました……人足の中に一人、年齢や背格好が似た感じの者がいます。しかも、おあつらえ向きに島帰り……村田さま、お願い出来ますか?」
言いながら、善兵衛は村田に小判を渡す。
村田は笑みを浮かべ、頷いた。
「善兵衛さんの頼みとあれば、嫌とは言えないな。俺に任せておけ」
それから三日後、いつも通りに木場にやって来た清太。
だが彼を待ち受けていたのは、善兵衛の予想外の言葉だった。
「清太、奉行所のお役人さまが来ているよ」
善兵衛の顔に浮かぶ表情は、いつもより堅い。そして冷酷な顔つきの村田が、十手をちらつかせながら近づいて来た。
「おい清太……お前、三日前に何してた?」
「え、三日前って……」
口ごもる清太。すると、村田はじろりと睨み、顔を近づけて来る。
「ちょいと番屋まで来てもらおうか」
・・・
その頃、政吉は町を歩き回っていた。とは言っても、今日の目当ては博打ではない。他の料理屋の繁盛具合を見るためであった。
だが――
「政吉さん、探したぜ……すぐに来てくれよ」
声の主は龍だった。彼にしては珍しく、何やら思い詰めた表情で政吉を見つめている。
「何だ龍かよ……何があったんだ?」
「仕事の依頼だよ」
「はあ? 仕事だあ?」
顔をしかめ、そっと周りを見回す政吉。しかし、二人の話を聞いている者はいないようだ。
「とにかく店に行こう。話はそれからだ」
「つまり、その清太ってのが夜鷹殺しの下手人として上げられた。だが本当の下手人は別にいる……そいつを探してくれって訳だな」
店の地下室で政吉は言った。龍に対し、射るような視線を向けている。一方、龍の表情は暗い。
「政吉さん……清太は、そんなことするような男じゃねえんだ。誰かにはめられたんだよ。だから――」
「だから何だ? 俺たちにどうしろと言うんだ?」
龍の言葉を遮る政吉。その言葉は、ひどく冷たいものだった。
「いや、清太は無実なんだよ」
「無実かどうか、お前に分かるのか? お前は、あの清太の何を知っていると言うんだ? 人間、裏で何をしてるかなんて分かりゃしねえよ」
「そんな――」
「いいか龍、仮に立場が逆だったらどうなる? お前が殺しの下手人としてお上に捕まったら、清太って奴も同じことを言ったんじゃねえのか? 龍さんはそんなことはしない、ってな」
「……」
龍は何も言えず、うつむいた。だが、政吉は喋り続ける。
「それにだ……仮にお前の言うことが本当で、清太は無実だとしよう。だがな、俺たちにはそれを証明できないんだ。俺たちは仕掛屋なんだよ。俺たちは金を受け取り、人を殺す……町方とは違うんだ。俺たちには何も出来ない」
龍が引き上げた後も、政吉は地下室から動こうとしなかった。一人で、じっと壁を見つめている。
そこに、以蔵が降りて来る。
「政吉さん、どうかしたのかい……龍さん、珍しく落ち込んでるような感じだったが」
「以蔵……すまねえが、ちょいとしばらくの間、龍の奴を見張っててくれねえかな」
「え、どういう事だい?」
尋ねてくる以蔵に、政吉は先ほどのやり取りを包み隠さず話した。
「とまあ、そう言う訳なんだよ。龍の奴、ほっといたら何しでかすか分からねえ……そこでだ、お前にしばらく奴を見張ってもらいたいんだよ」
「まあ、それは構わないよ――」
「待て、まだ話は終わっちゃいねえ。もし龍が、とち狂った真似をしそうだったら……奴を殺せ」
政吉のその言葉を聞き、以蔵は眉を曇らせた。
「はっきり言うよ。私じゃ、龍さんを仕留められるか分からない」
「大丈夫だ。お前の腕は信頼してる」
だが、その翌日。
今度は源四郎が店に現れた。
「政吉……ちょいと来てくれねえか。大事な話があるんだよ」
源四郎の表情は暗い。政吉はただならぬものを感じ取り、お春に金を渡す。
「お春、すまねえが今日は店じまいだ。以蔵もしばらく帰ってこれねえし、これじゃ商売にならねえ」
「政ちゃん、仕事の依頼が来てるわよ。ただし、今回はおすすめ出来ない。断った方がいいかも」
源四郎の態度は、いつもとは明らかに違っていた。その表情は堅い……政吉は眉をひそめた。
「おい源の字、もったいぶるんじゃねえ。さっさと言えよ。こっちは、わざわざ店閉めてきたんだぞ」
「……」
政吉の言葉に、源四郎はためらうような仕草を見せたが――
「今回の相手は、木戸善兵衛とその息子の茂三……そして、同心の村田庄之助よ。仕掛料は十両……どうすんの?」
「同心かよ……それは確かに、おすすめとは言えないよな……」
政吉の口調はとぼけたものだ。しかし、その表情は真剣だった。同心相手で十両……正直、割に合わない仕事だ。同心を殺るとなると、手間隙かけて準備しなくてはならないし、後始末にも手間隙かかる。その上、あと二人いるのだ……それで十両では、話にならない。本来なら、断るべき仕掛だろう。
だが残りの二人、木戸善兵衛と息子の茂三というのが引っ掛かる。確か、昨日に龍が話していた島帰りの清太……その雇い主が善兵衛だった気がする。
「どうすんの? 断るなら、言っとくけど……」
「ちょっと待て。源の字、詳しい事情を聞かせてくれねえか?」
「事情?」
「そうだ、事情だよ……どういういきさつで、その三人を殺そうなんて考えたのか……詳しい話を聞かせてくれ」
事の起こりは、茂三だった。
茂三は完全なる気違いであった。女を剃刀で切り刻んで命を奪い、死体となった女を犯す……その行為に茂三は病みつきになっていた。
もし茂三が普通の町人だったなら、すぐにお縄になり打ち首だったはずだ。
だが、茂三の父親は木戸屋の主人の善兵衛である。善兵衛は同心の村田庄之助と繋がっており、茂三の凶行を何度も揉み消してきたのだ。
茂三はやがて、夜鷹を狙うようになった。夜鷹を見つけては、誘いに乗るふりをする。そして、ひとけの無い場所で殺していたのだ……。
やがて、夜鷹たちは話し合った。そして金を出し合い、下手人を捜し出して殺してくれる人間を雇おう……となったのだ。
そんな折、下手人が町方に捕まる。
しかし、それは本物の下手人ではなかった。
「夜鷹たちはみんな言ってるの……清太は下手人じゃないって。本当の下手人は茂三なのよ」
自信たっぷりに言い切る源四郎。政吉は不思議そうに尋ねた。
「源の字……お前は何故そんなに、はっきりと言い切れるんだよ?」
「夜鷹の一人が、茂三が殺るのを見たんだって。それに、あたし聞いちゃったのよ……村田と善兵衛が話してるのを」




