春には、春の花が咲きます(四)
次の日、政吉は珍しく店にいた。とはいっても、心を入れ換えた訳ではない。ただ単に、厄介事に巻き込まれたくないからだ。外をうろうろしていると、また捨三あたりに声をかけられそうな気がするのだ。
だが、政吉という男は厄介事から逃れられない星の元に生まれてしまったらしい……。
「政吉さん、ちょいといいかね」
珍しく真面目に仕事をしていた政吉。だが、不意に声をかけられ顔を上げる。
すると、そこには弁天の正五郎が立っていたのだ。言わずと知れた、江戸の裏社会における二大巨頭の一人である。
「これはこれは、正五郎さん……いったい、どうなさったんですか?」
「うん、政吉さんに話があってね……仕事中で申し訳ないが、ちょいと来てもらいたいんだよ」
正五郎の表情は険しい。政吉は内心、不吉なものを感じながらも笑顔で頷く。
「ええ、構いませんよ。以蔵、あとは頼んだぜ」
そして二人は、河原までやって来た。周辺には人通りが無く、向こう岸には河原者たちの住む集落が見えている。みすぼらしい格好の者たちが、やつれた表情でのろのろ動いていた。
「なあ政吉さん、近頃はどうもいけねえよ。俺も年を食ったせいか、とにかく切った張ったってのが面倒くさくなってきた」
集落を眺めながら、呟くように言った正五郎。
「いや、それはあっしも同じですよ……切った張ったが好きで好きでしょうがねえ、なんて奴は気違いですぜ」
政吉のとぼけた声に、正五郎は笑った。
「まあな。しかし、この年になっても許せねえ奴がいる。阿片を扱う連中だ」
そう言うと、正五郎は真剣な眼差しで政吉を見つめる。
「政吉さん、巳の会の巳之吉と伝八、それに用心棒の水鬼って人でなしを殺してもらいてえんだ」
その言葉を聞き、政吉は顔をしかめる。どうやら捨三は巳之吉を始末するために、正五郎を動かす事にしたらしい。あるいは、鳶辰の入れ知恵だろうか。
政吉の思いをよそに、正五郎は語り続ける。
「なあ、政吉さん。巳の会の元締め巳之吉は、阿片を捌いてやがる。しかもだ、巳の会の伝八って野郎は……あちこちの女郎を痛めつけてる、とんでもねえ野郎さ。そして水鬼は、あちこちで人を切りまくってやがる……全員、生かしておけねえ連中さ」
いかにも憎々しげな表情で言い放つ正五郎。政吉は心の中でため息をついた。さすがに、鳶辰と弁天の正五郎の二人に頼まれたのでは、やらない訳にはいかない。
「わかりました。あっしらが始末します」
その日の夜、政吉は仕掛屋の面々を地下室に呼び寄せた。
「いいか、今回の相手は巳の会の元締めの巳之吉と用心棒の水鬼、そして伝八という男だ。手強いが、殺るしかねえ」
「なるほど、なんとも面倒な連中ですねえ。ま、あっしは相手が誰だろうが、銭さえ貰えば殺りますよ」
そう言って、真っ先に手のひらを突き出したのは多助だ。政吉はその手のひらに、小判を十枚乗せた。
すると、そのやり取りを見ていた以蔵が口を開く。
「前金で一人五両かい……また、大物からの仕事のようだね」
以蔵の言葉には、微かな皮肉があった。政吉は眉をひそめる。
「以蔵、どうしたんだ。やりたくねえのか?」
「いや、そういう訳じゃないよ。ただね、最近はえらく景気のいい話が多いな、と思っただけさ。もちろん、殺るに決まってるよ」
言いながら、以蔵は机の上に手を伸ばした。五両の小判を掴み取る。
「んー、何にせよ安いよりは高い方がいいよな。巳之吉が相手なら、俺にいい考えがある。お膳立ては、俺に任せてくれ」
左内はそう言って、笑みを浮かべながら小判を手にした。
そして、龍だけが残る。
「おい龍、お前はどうするんだ? 殺るのか殺らねえのか?」
政吉の言葉に、龍は苦渋の表情を浮かべた。
「殺るよ。こいつは、俺が殺らなきゃならねえ」
「中村さん、こいつは一体どういう訳なんです?」
尋ねる巳之吉。だが、左内はすまなそうな表情で頭を下げる。
「すまねえな親分。こっちも立場があるんだよ。あんたら三人を名指しで訴えた奴がいる以上、形だけでも調べない訳にはいかないんだよ。本当に、すぐ終わるから……頼むよ」
言いながら、揉み手をする左内。巳之吉は顔をしかめながらも、仕方なく頷いた。
すると、左内はにっこりと笑う。
「いやあ、助かるよ親分さん。じゃあ、さっさと終わらせるから来てくれ」
巳之吉と水鬼そして伝八の三人は、左内に連れられて歩いて行く。
だが突然、妙な声が聞こえてきた。
「お役人さま、大変です! 来てください!」
言いながら、走ってきた者がいる。色の白い、涼しげな目元と整った顔立ちが印象的な若者だ。
左内は足を止めた。
「何だ、蕎麦屋の以蔵じゃねえか。どうしたんだ?」
「いえね、そこで若い娘が襲われたんでさあ。ちょいと来て下さい」
「何だと? 仕方ねえな。おい三人とも……すぐに終わらせるから、ここで待っててくれや」
そう言って、左内はいそいそと姿を消す。後には、巳之吉ら三人が残された。
「何なんですかね、あの昼行灯は……」
呆れ返ったような顔で言う伝八。ぼさぼさのざんぎり頭を振りながら、辺りを見回している。
この男は、巳之吉の子分の中でも異常な性癖を持つ男として知られていた。これまでにも、多くの女郎の顔に傷を付けたために、あちこちの店を出入り禁止になっているのだ。
もっとも、水鬼の異常さに比べれば物の数ではないが。
その水鬼は下を向き、じっと地面を見つめていた。
しかし、不意に顔を上げる。
「お前……」
言いながら、にいと笑う水鬼。その瞳には、狂気めいた光が宿っている。
彼の視線の先には……茂みの中から立ち上がり、水鬼を睨みつける大柄な男がいた。
龍だ。
「水鬼さん、鬼退治に来てやったぜ……さあ、殺り合おうや」
低い声で言い放ち、龍は身構える。
すると、水鬼は嬉しそうに笑った。
「面白い……久しぶりに楽しめそうだな」
言いながら、刀の柄に手をかける水鬼。すると、巳之吉が慌てて止めに入る。
「馬鹿! お前なに考えてるんだ! 中村さん、変なのが来たぞ! 早く来てくれ!」
喚きながら、水鬼を止めようとする巳之吉。だが、水鬼は巳之吉を突き飛ばした。
「あんた、気づかなかったのか。あの同心と龍は組んでいたのさ。血の匂いをぷんぷんさせていたではないか……」
水鬼の言葉の途中で、杖を突きながら現れた者がいる。多助だ。多助は目を瞑り、杖で足元を探るようにしながら歩いて来る。
「何だおめえは……めくらの来る所じゃねえ」
言いながら、多助に近づいて行く伝八。
だが次の瞬間、多助の仕込み杖が抜かれた。
そして切りつける。腕、胸、首……滅多切りだ。伝八は悲鳴を上げる。だが多助は容赦しない。凄まじい形相で切りまくる――
「てめえ! 何しやがるんだ!」
巳之吉は喚き、懐に呑んでいた短刀を抜く。
その騒ぎを尻目に、水鬼はじっと龍を見つめる。
「龍、お前もしょせんは俺と同類なのだ。俺と同じく、人間をやめた鬼だ」
「違うな。俺は地獄逝きの身だが、鬼じゃねえ。鬼は鬼の居場所に帰してやるよ!」
叫ぶと同時に、龍は襲いかかっていった。
その場で前転し、一気に間合いを詰める龍。水鬼もこの動きには意表を突かれ、反応が遅れた。
龍は立ち上がると同時に、正拳を振るう。杉板をもぶち抜く正拳が、水鬼の顔面を襲う――
だが、水鬼は大振りの正拳を躱した。同時に、後ろに飛び退き刀を抜く。
「ほう、考えたな。だが、お前はもう終わりだ。今すぐ、俺の刀で地獄に送ってやる」
にやり、と笑う水鬼。龍は顔をしかめながら、再び身構える。やはり水鬼は強い。刀を抜かせてしまった以上、打つ手は一つ。
だが、しくじったら命はない。
一方、巳之吉は短刀を構えて間合いを詰めていく。それに対し、多助はじりじりと後退する。
巳之吉は笑みを浮かべ、短刀を振り上げ突進した。
だが、茂みの中から立ち上がった者がいた……お松だ。お松は竹筒を構え、火縄で点火する――
轟く銃声。
巳之吉の眉間を、正確に貫く銃弾。彼は短刀を振り上げた姿勢のまま、仰向けに倒れた。
その銃声に、水鬼が反応した。彼の視線が、一瞬ではあるが龍から離れる。
しかし、龍にとってその一瞬こそが重要であった。
龍は一気に間合いを詰める。と同時に、鳩尾めがけて爪先蹴りを叩き込む。
三日月のような軌道を描き、龍の爪先は水鬼の鳩尾に打ち込まれる。
思わずうめき声を上げる水鬼。だが、龍の動きは止まらない。直後に水鬼の腕を掴む。肘の関節を極め、一瞬でへし折った――
悲鳴とともに、刀を落とす水鬼。龍は、その刀を拾い上げる。
一方、水鬼は折られた肘を押さえたまま、片膝をついている。視線は地面に向けたままだ。
しかし、その姿勢のままで喋り始めた。
「聞こえるか、龍……」
「何を言ってやがる?」
「俺には聞こえるのだよ。俺が地獄に送られることを知り、亡者どもが喜んでおる……その喜びの声が聞こえる」
そう言って、くっくっく……と不気味に笑う水鬼。龍は、これ以上の会話をしたくなかった。
「あいにくだがな、俺はそんな声が聞こえるほど狂っちゃいねえんだよ。有馬さん、あんたはもう完全に鬼畜だ」
「俺の名は……水鬼だ!」
凄まじい形相で立ち上がる水鬼。その瞬間、龍は刀を振った。
水鬼の首が落ち、一瞬遅れて体が後ろに倒れる。
・・・
町外れにある、一軒のあばら家。
慎重にあたりを見回しながら、そこに入って行く男がいた。男はそっと、足音を忍ばせて入って行き――
「お前、誰だ」
「誰だ」
声と同時に、いきなり伸びて来た腕。男は襟首を掴まれ、天井近くまで持ち上げられた。
「ちょっと待ってください! あっしは捨三です! 栗栖さんに、仕掛屋の情報を持ってきたんですよ!」
叫ぶ捨三。すると、のっそりと出てきた者がいた。
「大吉、離してやれ」
栗栖が言うと、大吉と呼ばれた大男は捨三を下ろした。捨三は荒い息を吐きながら、にやりと笑う。
「栗栖さん……仕掛屋の元締めは、上手蕎麦っていう蕎麦屋の主人、政吉です。間違いありませんよ」




