春には、春の花が咲きます(三)
「その水鬼ってのは、人の肉を食ったのかい……恐ろしい奴だね」
以蔵が呟くように言うと、龍は頷いた。
「ああ……その時以来、気が触れちまったみてえなんだよ。取り憑かれたような目で、刀を振り回してきやがった」
以蔵と多助は今、龍の住む長屋に来ている。二人を呼び出した龍は、水鬼の事を話して聞かせたのだ。誰かに聞いてもらわなければ、龍自身もおかしくなりそうだった。
「龍さん、あんたは……その水鬼って奴を、どう思っていなさるんで?」
不意に、多助が口を開いた。
「どうって、俺にも分からねえよ」
「龍さん……人の肉を食うなんざ、珍しい話じゃないですよ。あっしも餓鬼の頃、食った事があります」
「えっ……」
思わず口ごもる龍。以蔵も驚愕の表情を浮かべ、多助を見つめた。
一方、多助は淡々とした口調で語る。
「あっしが餓鬼の頃、住んでいた村を飢饉が襲いました。その時、家族で肉鍋を食ったんですよ。久々に腹一杯になるまで食いましたが……その肉の正体は、病気で死んだ兄弟の末っ子だったんですよ。そいつを知った時、あっしは食ったものを全部吐いちまいました。以来、どんな肉も食えなくなりましたよ」
一切の感情も交えず、事実のみを語る多助。すると、以蔵が恐る恐る口を開いた。
「た、多助さん……それは仕方ないと思うよ」
以蔵が声をかけると、多助は頷いた。
「ええ、あっしも仕方ないとは思っています。ただね、人間はいざとなったら……簡単に鬼と化すんです。肉鍋を食ったのは、あっしらだけじゃありません。貧乏な村では、珍しくもなんともないんですよ」
多助の言葉を聞き、龍が顔を上げた。
「多助さん、そいつぁ違うぜ。あんたは、食いたくて食った訳じゃないんだろうが……けどな、あの水鬼は何か違うんだよ。好き好んで、人の肉を食ってるんじゃねえかと――」
「ちょっと待ってくれ、龍さん」
不意に、以蔵が鋭い声を発した。その眉間には皺が寄っている。彼にしては珍しい表情だ。その表情に気圧され、龍と多助は黙り込んだ。
「実は、八丁堀の奴が言っていたんだがね……最近、体をばらばらにされた死体が見つかったんだ。しかも、肉を削ぎ落とされていたらしいよ」
「何だと……」
龍の表情が歪む。
「それに蘭学の本にも、似たような事が書いてあったんだ。長い戦から帰ってきた男が、気が触れてしまう……自分が今どこにいるかもわからず、いきなり人に斬りかかったりするらしいよ。体と同じく、心も怪我をしたり病にかかる事があるのさ。その水鬼も、心の病にかかったんだろう……殺しの病にな」
「じゃあ、有馬さんは……いや水鬼は、人を殺して食ってるのか?」
尋ねる龍。その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。そう、彼はやりきれない気分だった。ひょっとしたら、また殺さなくてはならないかもしれない。
島で共に苦労した仲間を……。
「分からないね。明日あたり、八丁堀を呼び出して聞いてみるよ。ところで龍さん、あんたに一つ聞きたい事がある」
そう言って、以蔵は龍をじっと見つめる。
「な、何だよ」
「仮に、世間を騒がせている殺しの下手人が水鬼だったとしたら……あんた、一体どうするつもりだい?」
「どうするって……」
龍は口ごもった。今日は水鬼の話を聞いてもらうために、二人を呼んだのだ。まさか、こんな展開になろうとは。
困惑の表情を浮かべる龍に向かい、以蔵はさらに言葉を続ける。
「龍さん、私たちは仕掛屋だ。依頼人から金を受け取り、人を殺す。だが、私たちは役人じゃないんだ。人殺しを裁くのは、私たちの仕事じゃない」
以蔵の言葉に、龍は何も言えず黙りこむ。確かに、その通りだ。自分たちは役人ではない。むしろ、役人に取り締まられる側の人間なのだ。
それに……水鬼が何をしていようが、依頼人の無い今は自分たちに殺す資格はない。
「龍さん、仮に江戸を騒がせている殺しが水鬼の仕業だとしても、あんたには何の責任も義務もない。もし、あんたが個人的な想いから水鬼を殺すというなら……申し訳ないが、私はあんたを止めなきゃならない。仕掛屋の人間として、危険な真似をさせる訳にはいかないからね」
以蔵の言葉に、龍はうつむいた。
「んな事、しねえよ……俺には関係ねえ話だ」
「それならいいんだがね……龍さん、くれぐれも馬鹿な真似はするんじゃないよ」
二人が去った後、龍は一人で考えていた。
もし、水鬼が江戸を騒がせている殺しの下手人であるとしたら……。
自分は、どうすればいいのだろう。
・・・
その翌日、政吉はいつものように町をぶらついていた。あちこちを歩き回り、賭場に関する情報を集めているのだ。
何せ、博打の開かれる場所は日によって変化する。常に新しい情報を仕入れなくてはならない。政吉は今日も、遊び人仲間の立ち寄りそうな場所をうろついていた。
だが、そんな政吉に声をかける者がいた。
「政吉さん、ちょいといいですかい」
政吉が振り向くと、そこには捨三が立っていた。何やら、思いつめたような表情である。
「何だい捨三さん、どうしたんだよ?」
政吉が尋ねると、捨三はあたりを見回した。そして、手招きする。政吉は不吉なものを感じた。これは間違いなく、裏の仕事の話であろう。出来ることなら、鳶辰の絡む話は勘弁願いたいのだが。
「政吉さん、あんた巳之吉を知ってますかい? 近頃、巳の会なんてのを作ってる奴なんですが……」
「ああ、名前だけは知ってるよ。まだ会った事はないけどな。そいつがどうかしたのかい?」
口ではそう言ったが、政吉には既にこの先の展開が読めていた。
「巳之吉の奴、最近はすっかり図に乗ってやがるんですよ。あの巳の会ってのも、鳶辰さんの辰の会に対抗してのものでさぁ。そろそろ叩いておかないと、あとあと厄介なことになりますぜ」
言いながら、捨三は意味ありげな笑みを浮かべる。
「捨三さん、もっとはっきり言ってくれねえかな。俺たち仕掛屋に巳之吉を殺してくれと、そう言いたいのかい?」
「だとしたら、あなたはどうしますか?」
逆に聞き返してくる捨三……政吉は目を逸らした。
「さあね。俺もこれからは本業に身を入れないといけないからな……やるとも言えないし、やらないとも言えない」
「なるほど、それが政吉さんの気持ちですか。よく分かりました」
そう言うと、捨三はじっと見つめた。氷のような冷たい目だ。
しかし、政吉は平然と受け流す。鳶辰に対抗できる者がいてくれるのは、政吉としてもありがたい話だ。このまま行けば、鳶辰は江戸の裏社会を牛耳るような存在になるかもしれない。
それは避けたいところだ……。
「なるほど……わかりました。ただね、鳶辰さんを敵に回しても得はしません。そのあたりを、考えておいてください」
そう言うと、捨三は去って行った。
政吉は再び歩き始めた。どうやら、巳之吉という男は鳶辰の怒りを買っているようだ。巳の会については、よくは知らない。ただ、近頃めきめき頭角を現してきている……とは聞いている。ただ、今のところ仕掛屋とは全く接点がない。したがって、特に気にも留めていなかった。
もっとも、辰の会の対抗勢力となると話は別だ。鳶辰を牽制してくれるとありがたいのだが――
「よう政吉、おめえ何やってんだ?」
不意に、後ろから声をかけて来た者がいる。振り向かなくても、誰かは分かった。
中村左内だ。
「これはこれは……中村の旦那、どうかしなさったんですか?」
へらへら笑いながら、揉み手をする政吉。すると、左内は十手をいじくりながら、じろりと睨む。
「実はな、おめえを探してたんだ。ちょいと店まで行こうか」
「へっ? 店と言いますと?」
「おめえの蕎麦屋に決まってんだろうが」
言いながら、左内は顔を近づけて行った。
そして、耳元で囁く。
「ちょいとな、裏の仕事のことで話がある」
そして二人は、店の地下室へと降りて行った。
「いったい何の用なんだ八丁堀。こう見えても、俺は忙しいんだぜ」
「忙しいだぁ? よく言うぜ……博打場を探してうろうろしてたろうが。それよりも、一つ気になることがある。諸田慎之助って同心を知ってるか?」
尋ねる左内。その顔は真剣そのものだ。
しかし、政吉は首を傾げるばかりだった。そんな者とは何の関わりもない。
「諸田? 知らねえな。そいつがどうかしたか?」
「実はな、お前ら……いや、俺たちのやった仕事をしつこく嗅ぎ回っていやがるんだ」
「何だと……どういうことだ?」
「いや、俺もよく分からねえんだよ。ただ、諸田の野郎が妙にしゃかりきになって調べてやがる。まあ、何も出て来やしないだろうが、一応はお前の耳に入れておこうと思ってな」
「そうか……わかった。ありがとうよ」
そう言うと、政吉は眉間に皺を寄せた。諸田なる同心のことなど、聞いたこともない。何故、自分たちの殺しをしつこく調べているのだろうか。
「あと、もう一つ気になることがある。俺の下に付いてる源四郎って奴なんだがな、やたらと俺の周りをうろうろしたがるんだよ。あの野郎、なに考えてやがるのか……うっとおしくて仕方ねえ」
言いながら、顔をしかめる左内。
それに合わせて、政吉も顔をしかめる。だが、内心では笑いをこらえていた。源四郎は、自分の指令に忠実に動いているらしい。もっとも、それは左内が知る必要のない事だ。
万が一の時は、源四郎に左内を殺させるつもりなのだから。
「まあ、源四郎の件はともかくとして……諸田には気をつけろ。俺も、何か分かったら知らせるよ」
言いながら、立ち上がる左内。政吉は頷いた。
「ああ、わかった。お前も気をつけろよ」
左内が帰った後、店に戻る政吉。すると、以蔵が案じるような表情で顔を近づけて来た。
「八丁堀の奴、何しに来たんだい?」
「諸田とかいう同心が、俺たちのことを嗅ぎ回っているらしい。おめえも気をつけろ」




