春には、春の花が咲きます(一)
多助は逃げていた。
めくらの演技を忘れ、なりふり構わず必死で逃げ惑う……だが奴らは、しつこく追いかけて来る。
息が切れ、多助は立ち止まった。振り返ると、奴らはすぐ近くに迫っている。
殺したはずの者たちが、白骨と化した体で多助に迫り、手を伸ばしてくる。
そして、多助の両手と両足を掴み――
「うわああああ!」
叫ぶと同時に、多助は目覚める。一瞬、自分がどこに居るのか分からず戸惑う……。
すると、お松が不安そうな表情を浮かべて、にじり寄って来た。
「あんた……うなされてたみたいだねえ。大丈夫かい?」
「あ、ああ……」
言いながら、多助は額の汗を拭いた。どうやら、知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。それにしても、まさかお松の居る場所で眠ってしまうとは。
自分も、もう年なのだろうか……。
「あんた、もしかして……夢の時は、目が視えてるのかい?」
不意にお松が聞いてきた……多助はどきりとなりながらも、平静を装って答える。
「あ、ああ……そうらしいな」
「ふふふ、それも不思議な話だねえ」
言いながら、おかしそうに笑うお松……多助はたじろいだ。やはり、誤魔化すにも限界がある。今こそ、真実を話すべきなのかもしれない。
「あ、あのな……お松、俺は本当は……」
言いかけて、多助は口ごもる。それ以上、どんなに頑張っても言葉が出てこないのだ……自分は、本当に度胸がない。
「なんだい、あんた?」
「いや、その……なあ、あの夫婦のことをどう思ったよ?」
「えっ……夫婦って、誰のことさ?」
「この前に殺した神谷右近と、嫁のはなだよ」
そう……多助はあの夫婦の事が、未だに気にかかっていたのだ。足の動かなくなった右近に、献身的に尽くしていた妻のはな。自分には理解できぬ話だ。
あの右近は、恐ろしく気難しい男であった。あんな男の下の世話までしてやる……どれだけ辛抱強いのだろうか。
「さあね。長く寄り添ってりゃあ、好きだの嫌いだのと言ってられないんだろうさ。腐れ縁、って言葉もあるしね」
「腐れ縁、か……なあ、もし俺の足が動かなくなったら、お前はどうする?」
多助の問いに、お松は笑った。
「冗談じゃないよ。これ以上、手間をかけさせないでおくれ。あたしにゃ、あの奥方さまみたいな真似は出来ないね」
「だろうな。もし万が一、俺があんな体になっちまったら……その時は、鉛玉で俺の頭をぶち抜いてくれ」
・・・
その日、龍は市場をぶらついていた。もっとも、真っ当な市場ではない。江戸のあちこちから盗まれた盗品が集まる市場……通称・泥棒市である。様々な品物が並び、見ているだけでも楽しめる。
あちこちの屋台を、冷やかしながら歩いていた龍……だが、その顔が歪む。
見覚えのある同心が、十手をちらつかせて屋台の主人に因縁を付けているのだ……。
「おう金次、この反物には見覚えがあるな。確か、盗まれたと奉行所に届け出があったんだが……まさか盗品じゃねえよなあ?」
ねちねち言いながら、十手を軽く振る中村左内……すると、金次と呼ばれた男は愛想笑いを浮かべた。
「何を言ってるんですか中村さん。よく見てくださいよ」
そう言うと、袖の下に金子を滑り込ませる金次。すると、左内はうんうんと頷いた。
「おう、言われてみればその通りだな……俺の早とちりだ。悪かったな金次」
「あの野郎……相も変わらず、こすい真似をしてやがるなあ」
二人のやり取りを、顔を歪めながら見つめる龍。
一方、左内は満足げな表情であたりを見回す。その時、龍と目が合った。
その途端、にやりと笑う左内。いかにも愉快そうに、龍のそばにやって来た。
「おい龍、おめえ何やってんだよ」
「別に……それより、あんたも随分と御立派な仕事ぶりだな。まさに、役人の鏡だよ」
呆れたような表情の龍。だが、左内には全く堪えていない。
「馬鹿野郎。たかが盗品くらいて、いちいち取っ捕まえてられるかよ。こちとら忙しいんだ。だいたい、この泥棒市は皆にありがたいんだぞ。お前ら庶民は、高級な品を安く手に入れられる。悪党は盗品を捌いて金に変えられる。そして俺は、悪党からおこぼれを貰える……みんな得してるじゃねえか。それを取り締まってどうするんだ?」
「けっ、本当にこすい野郎だな。おめえみたいな奴が同心とは、世も末だぜ」
吐き捨てるように言い、目を逸らした龍……その時、妙な二人組が目に留まった。
「なんだよ、ありゃあ……地回りのやくざか?」
龍の言葉に、そちらを見る左内。
「ああ、あれか……近ごろ売り出し中の巳之吉さ。巳の会の元締めだよ」
身なりのいい強面の中年男が、ご機嫌な様子で歩いている。年は四十代半ばであろうか。がっちりした体格で、その表情からは自分に対する圧倒的な自信が窺える。もっとも、それだけなら何という事もない光景だ。
しかし、その隣で歩いている者はさらに異様であった。真っ白な髪は、肩まで伸びている。顔には大きな火傷の痕があった。背は高く、逞しい体つきをしている。黒い着流し姿で、中年男の隣を歩いていた。
「何だ、あいつらもご同業かよ」
龍の言葉に、左内は頷いた。
「ああ。ここ最近、急にのしてきた連中さ。あの巳之吉てのは、もともと上方でも、ちっとは知られた男だったがな……江戸に出てきてから、運はぐっと昇り調子なのさ。鳶辰や正五郎も、うかうかしていられねえぜ」
「じゃあ、いずれは奴らから仕事を貰う事もあるかもしれねえな」
言いながら、二人の動きを見る龍。だが、その白髪の男の動きに見覚えがある事に気づいた。無論、その顔には見覚えはない。だが、その動作には懐かしいものを感じるのだ。
思わず首を捻る龍。あんな知り合いがいただろうか……。
「おい八丁堀、あの白髪の幽霊みたいな男は何なんだよ?」
龍が尋ねると、左内は首を振った。
「知らねえな……まあ、仕官がかなわなかった浪人の成れの果てだろうさ。それにしても不気味な奴だ。幽霊とは、おめえも上手いこと言うなあ」
確かに、龍の言う通りだった……白髪の男の顔は、死人のように青白い。そのくせ、目だけはぎらぎら輝いている。人混みの中から、何かを探し出そうとしているかのように。
そして、龍と目が合った――
男の動きが止まった。明らかに表情が変化している……火傷痕のある醜い顔に、奇妙な感情が浮かんでいた。
龍も、男を見返す。特に敵意や悪意を感じた訳ではない。だが、懐かしい何かを感じる。いったい誰だろう……。
だが次の瞬間、男は目線を移した。そして、巳之吉と共に歩いて行く。
「あいつ、どっかで見たような気がするな……誰だったかな?」
首を捻り、一人で呟く龍……すると、左内が彼の顔を覗き込んできた。
「おい、一人で何をぶつぶつ言ってるんだ? おめえ、武術の稽古のし過ぎでおかしくなったか?」
「いや、別に何でもねえよ……」
言いながら、龍は頭を掻いた。が、次の瞬間――
「おい、どさくさ紛れに馴れ馴れしくすんじゃねえ。俺はな、役人は嫌いなんだよ」
ぷいっと横を向く龍。すると、左内は笑みを浮かべた。
「って事は、一応は俺を役人として見てくれてるって訳か」
「だから何だよ! 気持ち悪いこと言うな!」
吐き捨てるように言い放ち、龍はその場を去って行った。
そして、龍と入れ替わるように現れたのは、目明かしの源四郎だ。
「旦那……何やってるんです?」
案じ顔で近づいて来た源四郎。
「何って、決まってるじゃねえか……見回りだよ」
「見回り? どうせ、いつもみたいに悪さしてたんでしょうが……奥方さまに叱られても知りませんぜ」
「余計なお世話だ。おめえもたまには、一人で下手人を捕まえて来いよ。俺に手柄を立てさせろ」
・・・
巳之吉は泥棒市の中を、のんびりと歩いて行く。傍らには、用心棒の水鬼が付いて歩いている。
やがて、巳之吉はとある出店の前で立ち止まった。
「栗栖さん、いるかい」
巳之吉の声に反応し、顔を上げたのは……行商人の身なりをした栗栖だった。いつの間にか、以前よりも頬はこけていた。さらに、目は落ち窪んでいる。
「やあ、巳之吉さん。また注文しに来たのかい?」
そう言って、虚ろな笑みを浮かべる栗栖。
「ああ。あんたの阿片は質がいいからねえ……旗本の三男坊が、あんたの阿片をえらく気に入ってくれたんだよ」
「ほう、それはありがたい話――」
「お前……鬼を棲まわせておるな」
栗栖の言葉の途中で、いきなり口を挟んできた水鬼……巳之吉は、思わず顔をしかめた。
「水鬼、よさないか……今は商売の話を――」
「いえ、構いませんよ巳之吉さん。それにしても、随分と愉快な方ですね。水鬼さん、と仰るのですか?」
栗栖の問いに、水鬼は頷いた。
「いかにも……水の鬼、つまり水鬼だ。俺は水の鬼なのだよ。水の上で鬼となったのだ」
そう言って、水鬼は笑って見せた。くっくっくっ……という不気味な声だ。
巳之吉は、いかにも不快そうに顔をしかめた。しかし――
「なるほど、あなたは鬼なのですか。私もいずれ、鬼になるかもしれませんね……」
栗栖の方は、真顔でそんなことを言い出した。はたから見れば、完全に狂人同士の会話だ……たまりかねた様子で、巳之吉が口を挟んだ。
「水鬼、いい加減にしておけ。それと栗栖さん……品物を早く頼むよ」
「おお、これはこれは失礼しました。では、こちらを……」
言いながら、縦長の紙包みを差し出す栗栖。巳之吉はそれを受け取り、懐へとしまった。
「いつもながら助かるよ。ところで栗栖さん、あんたが探している闇の仕置人だがね……怪しいのが見つかったよ」
「ほう……それはそれは。で、いったい何者なんです?」
掴み所のない表情で尋ねる栗栖……巳之吉は、声をひそめた。
「怪しいのは、仕掛屋だね……ただし俺の口からは、これ以上の事は言えない。俺も、この世界で飯を食っている人間だ。同業を売るような真似は出来ないからな。後は、自分で探るんだね」
「仕掛屋、か……聞いたことはあるね。じゃあ、後は自分で探ってみるさ」
栗栖がそう言った途端、水鬼がまたしても笑い出した。
「仕掛屋か……面白いな。いつか、そいつらを食ってみたいものだ……」




