さよならだけが、人生です(二)
「おいおい……何だよ、こいつは……」
川に浮かんだ死体を見ながら、中村左内は苦り切った表情をしていた。
彼の目の前にあるのは、女の溺死体である。柔らかい部分は既に魚に食い荒らされており、見るも無惨な姿だ……こうなっては、顔の判別すらつかない。もっとも、溺死体のほとんどが無惨な形状なのだ。水に棲む生き物が死体を食い荒らす……それ自体は珍しい事ではない。
しかし、その死体には奇妙な点があった。
両腕が肘の部分から、そして両足が膝の部分から切断されているのだ。魚や蟹に食われた訳ではなさそうだ。死ぬ前に、鋭利な刃物で斬られたような傷痕……のように見える。
「旦那……こりゃ酷いですね。病か何かで医者に切られたんでしょうか」
顔をしかめながら、死体を見つめる源四郎。いくら町の悪党でも、わざわざ両手と両足を切り落とすような真似はしないだろう。
だが、左内は首を振る。
「いや……これは違うだろう。念のため、町医者には聞いてみるがな」
そう言った後、左内は不意に向きを変えた。
「源四郎、俺は腹が減ったよ。ちょっと飯を食いに行くから、後は頼んだぜ」
「ええっ! 今からですか!?」
唖然とする源四郎……そんな彼を尻目に、左内はその場を去って行った。
「何だ、あんたかい……いったい何の用だい? 言っておくが、政吉さんは今はいないよ」
いきなり店を訪れた左内に向かい、冷ややかな表情で言う以蔵。政吉は例によって、あちこち出歩いている。今は他に客もいないが……かといって、この得体の知れない同心に来てもらったところで、ありがたくはない。
「そうかい。政吉の奴、どうしようもねえなあ……ところで以蔵、お前は蘭学者くずれだったな。蘭方の医学にも詳しいのか?」
左内の問いに、以蔵は不審そうな表情を向ける。
「まあ、詳しいってほどでもないが……少しは知ってるよ」
「そうか。なあ以蔵、医者が女の両手両足ぶった斬ることはあるか?」
左内の問いに、以蔵は眉間に皺を寄せる。
「うん……ないこともないが、よっぽど特殊な例だろうな。もっとも、手足の切断自体は難しいがね。ただ切るだけじゃないんだよ。腕の悪い医者がやったら、死なせるからねえ……」
そこまで言いかけて、以蔵ははっとなった。
「八丁堀さん……ここは一応、蕎麦屋なんだよ。手足を切ったとか病んだとか、そんな話は勘弁してもらいたいんだがね」
そう言って、左内を睨み付ける。それに対し、左内は苦笑しながら蕎麦に手を付けた。もっとも、客は左内の他にはいないのであるが……。
蕎麦をすする左内を見ながら、以蔵は口を開く。
「八丁堀、一つだけ言っておくよ。両手両足を切るような羽目になる病は、ないこともない。だがね……ほとんどの人は、そこまでの処置はしないはずだ。それなりに金もかかるはずだしね」
「となると……あれは何なんだろうなあ。まっ、俺には関係ねえやな。後の始末は源四郎にでも任せるとするか……」
呟きながら、蕎麦をすする左内。その様子を、以蔵はじっと眺めていた。
その夜。
「えっ? あの八丁堀が来やがったのか?」
政吉の言葉に、以蔵は頷いた。
「そうなんだよ……あいつ、何を考えているのかね。政吉さん、あいつを信用して大丈夫なのかい?」
以蔵の問いに、政吉は顔をしかめる。
「奴も手を汚してるんだ。いくら何でも、俺たちを売るような真似はしねえだろうさ。それに……奴が売るような真似しやがったら、必ず道連れにしてやるよ」
言いながら、政吉は眉間に皺を寄せる。やはり、左内を仲間に引き入れたのは失敗だったのだろうか。左内は役人だし、腕も想像以上だ。仲間としては申し分ない。しかし、他の三人との間に妙な空気が生まれているのも確かだ……。
もちろん、仕掛屋は裏稼業である。皆で仲良くやればいい、という訳ではない。なあなあの関係が成立してしまうと、商売として成り立たないのだ。実際、多助などは未だに政吉に心を許していない部分がある。
しかし、それも程度問題だ。あの男が原因で、仕掛屋がおかしくなるような事だけは避けなくてはならない。
「なあ以蔵、お前に一つ聞きたいんだが……あの八丁堀の野郎は、外した方がいいとおもうか?」
政吉の問いに、以蔵は首を捻って見せた。
「さあね……私は個人的には、あの男は嫌いさ。だがね、私たちは仕掛屋なんだよ。好き嫌いで物事を決められないんだ。決めるのは、元締めのあんただよ」
「やめてくれよ……元締めなんて、俺はそんな柄じゃねえ」
しかめ面をする政吉……一方の以蔵は腕を組みながら、何やら考え込むような表情をしていた。
その翌日。
龍の住む長屋に、一人の男が姿を見せる。
「龍さん、いるかい?」
言いながら、戸口の前に立っている男……龍は複雑な表情で戸を開けた。
「清太……おめえ、何しに来やがったんだ?」
そう、長屋の訪問者は清太だったのだ。複雑な表情の龍と対照的に、満面の笑みを浮かべている。
「お久しぶりですね、龍さん……今日はね、あんたにいい話を持って来たんですよ」
「いい話だぁ……なんだそりゃ? 儲かる話かよ?」
訝しげな表情になる龍。だが、清太は笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、もちろんでさあ。こいつは儲かりますよ。是非、龍さんにも手伝っていただきたいんです」
「……なんで俺に?」
尋ねる龍。彼には、清太の考えが理解できない。なぜ今になって、わざわざ自分の所に来たのだろうか。
「決まってるじゃないですか……龍さんが、俺に親切だったからですよ。龍さんとは、ほんの少しの付き合いでしたが……龍さんに教えられた事は、忘れてやしません。俺はね、受けた恩は忘れないんです。それに、龍さんのその腕っぷし……ここで燻らせとくには、勿体ないですぜ」
清太に言われるがまま、後を付いて行く龍。もちろん、やくざの仲間入りなどをするつもりはない。もともと組織というものに不信感を抱いている龍にとって、やくざなどは役人と同じくらい信用できない存在である。
にもかかわらず、なぜ清太の後を付いて行くのか……それはやはり、清太の事が心配であるからに他ならない。仕方ないとはいえ、やくざになってしまった清太……昔の自分を見ているようだ。
そして龍は、政吉と出会った時の事を思い出す。もし自分があの日、政吉ではなく何処かのやくざと出会っていたなら……自分はやくざになっていたのかもしれなかった。
人生とは、本当に分からないものだ。
しかし、清太に案内されて到着した場所……そこで見たものは、龍の甘い感傷を軽く吹き飛ばしてしまうものだった。
二人は今、町外れの貧民窟に来ている。あばら家や粗末な掘っ立て小屋が立ち並び、怪しげな人相の者たちがうろうろしている。皆、一様に虚ろな顔をしていた。生きる事に疲れはて、明日の希望など何処にもない。せめて今日をどうにか生きる……そんな表情をしていた。
そんな中を、清太はすたすた歩いて行く。そして一軒のあばら家の前で立ち止まった。
他の家と比べると大きく、造りもしっかりしている。
「龍さん、ここでさあ」
そう言うと、清太はあばら家に入って行く。龍も後から続いた。
しかし――
「清太……何なんだよ、これは……」
呆然とした表情で、呟く龍……。
目の前には、犬のような格好で這って来た女がいる。両手と両足を切り落とされ、肘と膝のあたりまでしかない。
盲目なのだろうか……目をつぶったまま、壁を手探りで伝いながら歩いて来る女がいる。
さらには……まだ十にもならないであろう、幼い少女までいるのだ。
「龍さん……ここはね、金持ちの大旦那が集まる場所でさあ。うちに来る客はね、これまで大勢の女を抱いてます。普通の女が相手じゃ、もう満足できねえ……そんな客のために、こんな女たちをあてがうんです。いい金になるんですよ」
得意げな表情の清太……龍は表情の消え失せた顔を、彼の方に向けた。
「なあ清太……こいつら、何でこんな体してんだよ……」
「ああ、それですか。いやあ、手間がかかるんですよね。たとえば、こいつですが……」
そう言うと、清太は手足のない女を指差す。
「こいつなんか、あれですよ……両手と両足をぶった切った後、すぐに医者に手当てさせたんです。でないと、下手するとそのまま死んじまいますからね――」
「おめえ、それでも人間なのか……これは外道のやることだぞ……清太、おめえはどうしちまったんだよ……おめえは、こんな奴じゃなかったろうが……」
虚ろな声で、呟くように言った龍。だが、清太は怯まなかった。
「へっ、外道ですかい……上等でさあ。あっしは、外道にでもなりますよ。この世で信じられるものは、銭と自分……そう教えてくれたのはあんたですよ、龍さん。あんたの言葉、今も忘れてやしませんぜ」
言いながら、龍を見つめる清太。その瞳には、ある種の信念のようなものが感じられる。
龍は思わず、視線を逸らした。清太は紛れもない悪党になってしまった。そのきっかけを与えたのは、他ならぬ自分なのかも知れない……。
「それにね、こいつらは口べらしのため親に売られたんですよ……この女たちは皆、特別な器量よしってわけじゃねえ。こいつらが大金を稼ぐためにゃ、手足や目を捨てなきゃならないんですよ」
「……」
清太の言葉に、龍は何も言えなかった。確かに、この辺りに住んでいる者は、ろくな仕事に就けない。生きていくためには、仕方ない部分もあるのかもしれないのだ……。
一方、清太はにやりと笑う。
「龍さん、あんたみたいな人がいてくれると助かるんですけどね……この辺りは、なんやかんや言っても食いつめ者やごろつきが多いんです。あんたが睨みを利かせれば、大抵の雑魚は逃げていきますから。それに、よその一家と揉めそうになることもあるんでさあ――」
「悪いが断る。俺はな、外道にだけはなりたくねえんだ。帰らせてもらうぜ」
静かな口調で言うと、龍は背中を向ける。すると――
「そうですかい……そりゃ残念だ。ま、商売の話は抜きにして、いずれ寿司でも食いに行きましょうや」
清太の声が聞こえてきた……だが、龍はその声を無視し立ち去って行った。




