闇に裁いて、仕掛します(三)
江戸の片隅に、一軒の絵草紙屋があった。さほど大きな店ではないが、そこの主人は温厚そうな中年男であり、周囲からの評判も悪くない。
だが実は……この男こそが、かつて江戸を荒らし回った盗賊団『赤兔馬組』の頭である善八だったのだ。伝説の名馬である赤兔馬のような逃げ足の早さを……という願いを込めて名付けられたのだが、実のところは逃げ足の早さより、殺すに至るまでの決断の方が早かった。家人に気づかれたら殺すし、目撃者も殺す。結果として、赤兔馬組の悪名は江戸中に知れ渡っていた。
そして先日、善八は町方の手によって捕縛された。その後、打ち首になったはずだったが……。
「頭、これから一体どうなさるんで?」
夜、絵草紙屋に集まった三人の男たち……そのうちの一人が善八に尋ねた。
「まあ、待て。しばらくは江戸で待機だ。牧野がどう出るかな……」
言いながら、善八は思案げな表情になった。南町奉行所の牧野備中守……彼のお陰で、善八は命を救われたのだ。引き換えに牧野が要求してきたものは、善八がこれまで貯め込んできた隠し財産だ。
もちろん、命あっての物種である。善八はその取り引きを承諾した。そして、赤兔馬組の残された手下が竹造を見つけ出し、善八の身代わりとして連れてきたのだ。
そして……竹造が、善八の身代わりとして首を斬られた。
当時のことを思い出し、善八は苦々しい表情になった。子分たちがへまさえしなければ、自分も捕らわれずに済んだのだ。
しかも、命が助かったとはいえ……自分は今、牧野に尻尾を掴まれているような状態である。果たして、どうなるのだろうか?
だが、次の瞬間……。
絵草紙屋の戸をぶち破り、侵入してきた者がいた。子分たちは、一斉にそちらを向く。
「な、何だてめえは!」
喚きながら、得物を手にする者たち……だが、彼らは何も理解できていなかった。
龍は店の中を見回す。相手は全部で四人。見た目や立ち振舞いから察するに、大した腕ではない。
ならば、一気に潰すだけだ……龍は、獣のような勢いで襲いかかっていった。 凄まじい勢いで、左足の前蹴りを放つ龍。左足は鞭のようにしなり、手近にいる男の腹に突き刺さる。
悲鳴を上げ、うずくまる男……龍はその男の体を掴み、常人離れした腕力で持ち上げる。
そして投げつけた――
男たちは龍の腕力を目の当たりにし、戦意をくじかれる。ただでさえ、不意を突かれているのだ……赤兔馬組の手下たちには、もはや為す術がない。
そこに、容赦のない龍の攻撃が放たれた。杉板をもぶち抜く正拳と、六尺棒を叩きつけるかのごとき回し蹴りが彼らを襲う。
一瞬のうちに、三人が失神させられた。だが、そのどさくさに紛れ……善八は裏から逃げ出していた。
裏口から出た善八は、音も立てず静かに歩いて行った。どうやら、自分が生きていることを何者かに嗅ぎ付けられたようだ。ならば、逃げなくてはならない。ただでさえ、あちこちの連中と揉めていたのだ。命を狙われたとしても不思議ではない――
「待ちなよ善八さん。自分で火を点けておいて、火事場から逃げ出すのは、ちょっと酷すぎるんじゃないかねえ」
背後から、声が聞こえてきた。と同時に、何者かの手が伸びてくる。
「あんたの身代わりで、何の罪もない大工が死んだ……あんたは、その報いを受けなきゃならない」
次の瞬間、善八は口を覆われた。そして、延髄に突き刺さる太い針――
痛みを感じる暇もなく、善八は絶命した。
死んだ善八を見下ろす以蔵……その目は、氷のように冷たいものだった。
・・・
同心の的山忠則は、一人で夜道を歩いていた。今日は夜の見廻りである。非常に面倒ではあるが、これもまた、お勤めゆえに仕方ない――
「そこを歩いている旦那さま……いかほどでも構いません。哀れなめくらにお恵みを……」
不意に声がしたかと思うと、杖を突いた座頭がよろよろとした足取りで歩いて来る。
的山は舌打ちした。ただでさえ、夜勤で不快な気分なのだ。見も知らぬ座頭に付きまとわれた挙げ句に散財など、洒落にもならない話である。これ以上、不愉快な思いをしたくない。
「めくらのお前には見えぬだろうがな……俺は役人だぞ。ふざけた真似をすると、しょっぴくぞ」
そう言うと、的山は刀を抜いた。気晴らしに、無礼打ちにでもしてしまおうか……ただでさえ、最近は無茶なことばかり言いつけられている。先日などは、上からの命令で赤兔馬組の頭である善八を牢から出したのだ。
その代わりに、よろよろになった男が入って来た……意識はもうろうとしており、足取りもおぼつかない。酒か阿片で酩酊しているようだ。似てはいるが別人である。的山には一目で分かった。
そして翌日、その別人が打ち首になったのである。
この件には、かなりの額の金が動いたはずだ。恐らくは、数千両という額の……にもかかわらず、的山の懐にはほとんど入ってこなかったのだ。
その事実が、的山をさらに不機嫌にさせていた。
「そんなに邪険にしないでくだせえ……哀れなめくらにお恵みを……」
怯むことなく、なおも絡んでくる座頭……的山は舌打ちし、刀を抜いた。
「どうやら死にたいらしいな。俺は今、機嫌が悪いんだ。口で言っても分からんのなら、死んでもらおうか……」
そう言いながら、刀を構えて近づいていく的山。だが、座頭は突っ立ったまま動こうとしない。
その態度が、的山の怒りの炎に油を注ぐ結果となった。彼は近づき、刀を振り上げる。
だが、その時……座頭がいきなり地面に伏せた。
その代わりに、顔を手拭いで覆った女が立ち上がる……座頭の背後で、息を潜めしゃがんでいたのだ。その手には、竹筒が握られている。
標的を見失い、まごつく的山。一瞬ではあるが、動きが止まった。
だが、お松にとっては充分な隙だ。次の瞬間、銃声が轟く――
鉛の弾丸は、的山の眉間を正確に貫いていた。
・・・
「中村……その話、真であろうな!」
左内を怒鳴り付けながら歩く牧田備中守……その頭には傘を被っている。夜道を大股で歩きながら、左内を睨み付けた。
「え、いや……私にはさっぱりです。あの赤兔馬組の善八が、実は生きているなんて……そんな馬鹿な話があるはずがないと――」
「当たり前だ! 奴は死んだのだぞ! 打ち首になった者が、出て来られるはずがなかろう!」
牧田は子供のように喚き散らした……その表情には、いつもの余裕がない。それどころか、想定外の事態を前に慌てふためいているのだ。その様は、滑稽でさえあった。
「まあ、それならいいんですがね。何せ、いきなり訳のわからない事を言ってきたんで……私も困ってるんですよ。まあ、只のいたずらかと思ったんですが、念のため貴方にお知らせした方がいいかと思いまして……」
言いながら、左内は頭を掻く。
「も、もちろんだ! 私は何も知らん! ただ、そんないたずらをするような奴は放ってはおけん! さっさと終わらせるぞ!」
言いながら、牧田はずかずか歩いていく。本来なら、こんなひとけの無い場所に一人で来たりはしない……だが、今日はやむを得ない事情があるのだ。
この前、打ち首になった善八……の身代わりになった竹造という大工。その娘が、真相を知ってしまったらしいのだ。どうやって知ったのかは謎だが。
だが、しょせんは大工の娘……相談した相手が、よりによって中村左内であった。
中村左内といえば、奉行所でも悪名高き昼行灯である。今までは、腕利きの目明かしである岩蔵が下に付いていた。そのため、からうじて定町廻りの任を解かれずに済んでいたのだ。
しかし、今はその岩蔵もいない。左内が牢屋見廻りに降格されるのも、時間の問題だろう。そんな左内に相談したのが、そもそも間違いなのだ。
無礼打ちという名目で、その娘は殺す。左内は幾らか握らせれば、口をつぐんでおくだろう。
しかし、待っていた者は――
「な、なんだこれは……」
唖然となる牧田。その場にいたのは、既に死体と化した娘である。経帷子を着て、地面に横たわっているのだ……。
「中村……これはどういうことだ……お前が殺ったのか?」
呆然とした表情で、尋ねる牧田。
すると、左内は笑みを浮かべた。
「いいえ……その女は、昨日死んだばかりです。どうも流行り病のようでして、ぽっくり逝ってしまいました。実に哀れな話ですよ……まだ若いのに」
言いながら、左内は地面に置いてあった棒を拾い上げる。
その瞬間、表情が一変した。
「牧田さん……あんたは善八の代わりに、罪もない大工の竹造を打ち首にしたんですよね」
「な、何を――」
「本物の善八は、死にました……的山さんもです。あと残っているのは、あなただけだ」
言いながら、棒を構える左内。その顔からは、普段の昼行灯の仮面が剥がれ落ちていた。
「死んでもらいますよ、牧田さん」
「な、何を……」
恐怖の表情を浮かべ、後ずさる牧田。だが、背後に男が立っていることに気づく。
政吉だ。
「逃げんじゃねえよ……おら、行け。侍なら侍らしく戦え」
言いながら、どんと突き飛ばす政吉。牧田はよろよろと前に出て行く。
その瞬間、左内が棒を降り下ろす――
牧田の頭は、一撃で叩き割られた。
「さて、政吉……あとは俺に任せろ。この女との心中ってことで処理するから。川から死体が上がって来たら、それは牧田さまでしたって話にしとく」
左内の言葉に、政吉は頷いた。
「ああ……頼んだぜ。下手に騒がれると、後が厄介だからな」
数日後、左内はいつものように町を見回っていた。
その時、射るような視線を感じた。ゆっくりと振り向く。
すると、そこに立っていたのは龍だった。鋭い目付きで、じっとこちらを見ている。
龍は顎で、裏路地を指し示す。こっちに来い、ということなのだろう……左内はさりげなく、そちらに歩き出した。
すると、龍はどんどん歩いて行く。そして、ひとけのない廃屋の中に入って行った。
「おい八丁堀さんよ……牧田は病死だって話じゃねえか。本当に、牧田を殺ったんだろうな?」
左内を睨みながら、小声で凄む龍……左内は困った顔をした。
「あのなあ、牧田備中守が若い女と心中……そんな話、公に発表できる訳ねえだろうが。表向きには病死、それで片を付けたのさ。もっとも、本当は俺が始末したんだがな。嘘だと思うなら、政吉に聞いてみればいい」
「そうかい、さすが役人さまだな。やる事がいちいち汚ねえぜ」
言いながら、左内を睨みつける龍。その目付きには、単なる敵意ではない何かがあった。左内は、なだめるように両手を前に出す。
「おいおい、そんな怖い目で睨まないでくれよ。それに、八丁堀って何だよ……妙なあだ名つけるな」
とぼけた表情の左内。だが、その言葉にも龍の態度は変わらない。今にも襲いかかって行きそうな雰囲気だ。
「いいか八丁堀、よく覚えとけ……俺はな、役人て奴が大嫌いなんだよ。もし、お前が裏切ったなら……俺が殺す。どんな手を使っても、お前だけは道連れにしてやるからな」
そう言うと、龍は不快そうな態度で去って行った。後に残された左内は、苦笑しながら頭を掻く。
「しょうがねえ奴だな。えらく嫌われちまったみたいだが、果たしてやっていけるのかねえ……」
・・・
その頃、政吉は源四郎とともに橋の下にいた。
「政ちゃん、やっとあたしの気持ちに答えてくれる気になったのね……」
野太い声で、迫っていく源四郎。
だが、政吉は顔をしかめながら突き飛ばした。
「馬鹿、違うよ。いいか、お前に一つ頼みたいことがある。中村左内を知ってるな?」
「へ? あの昼行灯がどうかしたの?」
「ああ、どうかしたんだよ……あいつの情報を、出来るだけ詳しく調べろ」
政吉の言葉に、源四郎は眉をひそめる。
「何よそれ……どういう事なの?」
「それな……ちょっと複雑な事情なんだよ」
そこで、政吉は言葉を止める。眉間に皺を寄せながら下を向いた。
「どうしたの、政ちゃん……まあ、聞くなって言うなら聞かないけど」
「いや、この際だ……お前にも知っておいてもらいてえ。中村左内は、仕掛屋の一員になったんだ」
「えっ!? ちょっと政ちゃん、あんた何考えてるの――」
「ああ、確かにとんでもねえ話だ。だからこそ、あいつの動向を見張っていてもらいてえんだ。もし裏切るような素振りを見せたら、構わねえから殺せ」
「……わかった」




