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本編 ~『逃走するセレフィーナ』~


 伯爵家の廊下に足音が響く。衛兵は無言のままセレフィーナの腕をがっちりと掴み、逃げられないようしっかりと拘束している。


「離して……離してくださいまし……」


 セレフィーナは震える声で訴える。先ほどまでの高圧的な態度は影を潜め、今は涙を浮かべて懇願している。


「お願いですわ……何でもしますから……私を許してくださいまし!」


 泣きそうな瞳で見上げるが、衛兵は顔色ひとつ変えない。任務を果たすことだけに集中していた。


 そんな時だ。


 角部屋の扉が勢いよく開き、人影が廊下へ姿を現す。


 それはセレフィーナの母であるマリーヌだった。


 髪も整えきらぬままに飛び出してきた彼女の顔色には焦りが浮かんでいる。


「セレフィーナを捕まえて……どういうつもりなの!」

「お下がりください、マリーヌ様。彼女は現在、辺境伯に対する暴行の容疑で拘束されています」

「なっ、ば、馬鹿なことをおっしゃい!」


 マリーヌの声が裏返る。血の気が引いたのか、唇が小刻みに震えている。


「辺境伯とはローズのことでしょ。あの子は姉なのよ。ただの姉妹喧嘩なのだから。大目に見なさいよ」

「これはユリウス殿下の指示ですから。私の権限での勝手な判断は許されておりません。命令通り、牢へと連行いたします」


 有無を言わせぬ口調で衛兵が応える。


 だがマリーヌは困惑しながらも諦めなかった。


「あなた、聖女に対してあまりに無礼だとは思わないの!」


 怒気を孕んだ声に、廊下の空気がぴんと張り詰める。


 だが衛兵は一歩も引かない。視線をまっすぐに向け、淡々と告げる。


「ユリウス殿下は次期国王と目されるお方。聖女とはいえ、現時点において殿下の命令のほうが優先されます」

「で、でも……」

「衛兵は王家に従う義務があるのです。どうかご理解ください」


 言い終えると、衛兵は軽く頭を下げ、再びセレフィーナを連れて進もうとする。その背中にマリーヌは、鋭い声を放つ。


「待ちなさいと言っているでしょう!」


 声を放つと同時に、マリーヌの指が花台に置かれた白磁の花瓶を掴む。


 そして、次の瞬間。


 乾いた音が廊下に炸裂する。花瓶が衛兵の側頭部を直撃したのだ。


 白磁が砕け、水と花びらが散る。衛兵は呻き声を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。


「今の隙にお逃げなさい!」

「お母様……」

「何をしているの! 早くしなさい!」


 困惑するセレフィーナだが、すぐにその意味を理解する。小さく頷くと、ひらりとドレスの裾を持ち上げて走り去る。


「……っ、動くな!」


 呻きながら立ち上がった衛兵は、片手で頭を押さえて立ち上がる。そして、もう一方の手でマリーヌの腕をがっしりと掴んだ。


「お母様……」

「私のことはいいからっ!」

「うっ……ありがとうございますわ!」


 セレフィーナは決して振り返らない。彼女の瞳に涙は浮かんでおらず、怨嗟の炎が激しく燃え上がっていた。


「聖女の力は奪われましたが、私にはまだゲーム知識がありますもの。必ず、お姉様に復讐してみせますわ」


 その唇に浮かんだのは歪な笑み。ゲームの攻略対象はユリウスとレオン以外にも残っている。チャンスが完全に失われたわけではない。


 彼女は味方になる存在を求めて、足を動かす。聖女と呼ばれた少女の瞳は狂気に満ちていたのだった。


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