本編 ~『押しかけてきた神父』~
午後の日差しが柔らかく差し込む辺境伯邸の談話室。
温かな光が、白いクロスのかかったテーブルと、磨き上げられたティーセットを優しく照らしている。
ローズはカップを手に取り、湯気の立つ紅茶を口に含む。芳しい香りが鼻を抜け、ほっと息がこぼれる。
その向かいのソファでは、ユリウスが本を眺めながら穏やかな時間を過ごしていた。
「ユリウス様、その本は?」
「これかい? 教会の不正を告発した書物でね。民たちの間で人気だそうだから、目を通しておこうと思ってね」
「教会ですか……」
「気になるのかい?」
「セレフィーナを聖女と称えている組織ですから。興味はあります」
「なら僕の知っている範囲で解説してあげよう」
ユリウスは軽く頷き、頭の中で話を整理する。そして、ゆっくり口を開いた。
「教会の歴史は長く、王家に次ぐ権力者だ。王国内で信仰を集め、数多くの信者を抱えている」
「公爵よりもその権力は上なのですね……」
「ああ。なにせ教会には聖女がいるからね」
ローズの脳裏に、かつて神父たちの前で祝福を受けたセレフィーナの姿が蘇る。あの盛大な祝典の光景は、忘れたくても忘れられない。
「教会はなぜそれほどまでに聖女を重要視するのでしょうか?」
「シンボルとしての役割もあるだろうけど、一番は回復魔術の使い手だからだね。誰しも病気や怪我は避けられない。だからこそ、その恩恵にあずかりたいと望む者は多いんだ」
教会を信仰しておけば、聖女の奇跡で命を救われるかもしれない。そう期待する者たちが、教会の力を支えているのだ。
「でも最近は、教会の勢力も衰えていてね。寄付金の着服を告発した本がベストセラーになったり、聖女のセレフィーナが指名手配されたりしたからね。きっと致命的な痛手になっているはずだよ」
教会には清廉潔白を望む者が多い、信頼を裏切れば、人の心が離れるのも至極当然だった。
「……寄付金も減っているのでしょうか?」
「間違いなくね。しかも僕が不正をした貴族を粛清しただろう。あの中には教会の支援者たちも含まれていたからね。教会の関係者はきっと僕のことを恨んでいるだろうね」
そう言いながら、彼は楽しげに喉の奥で笑う。
紅茶の香りが漂う中での笑みは、奇妙なほど爽やかで、同時に、どこか人を食ったような印象を与える。
これが、ユリウスが「変わり者」と評される所以なのだろう。
「この教会の状況を、セレフィーナが利用する可能性はありますか?」
「十分ありえるね。困窮している組織ほど、甘い誘惑に弱いから」
ローズの胸中に予感が走る。
セレフィーナの背後には、第二王子ギースがいる。教会という大きな力を引き込み、ローズたち陥れるために画策しても不思議ではない。
そのような考えを巡らせていると、控えめなノックの音が響く。
「お客様がいらっしゃいました」
執事の落ち着いた声に、ローズたちは顔を上げる。
「誰ですか?」
「……教会の神父様です」
やがて、執事の後ろから一人の男が現れた。
洋ナシのように丸みを帯びた恰幅の良い体型で、白い法衣の胸元には金の十字飾りが揺れている。
温和そうな顔をしていたが、その目は商人のように計算高く光っている。
男はユリウスの姿を認めるなり、目を大きく見開いた。
「おや、これは。噂には聞いておりましたが、本当に辺境伯とユリウス殿下は仲がよろしいようで」
挑発とも取れる言葉を受けたユリウスは、カップを持ち上げながら、余裕の笑みを浮かべる。
「親密にさせてもらっているよ」
「では私もお仲間に入れさせていただきましょう」
神父は無遠慮に席に着く。ソファに沈み込むと、鋭い目をローズに向ける。
「本日は辺境伯に願いがあって参りました」
「私にですか?」
「ええ、とはいっても、無理難題というわけではありません。我々、教会の新たな支援者となっていただきたいのです」
教会を支えていた貴族たちが処罰されたため、資金面で困っているのだと、神父は続ける。
「ドルーン辺境領にそのような余裕があるとでも?」
「謙遜なさらなくとも。ドレスや調度品、町の様子や賑わい方から懐事情は察せられますから。寄付するに問題ない経済力をお持ちだと、我々は判断しております」
そのあまりに不躾な言葉に、ローズは眉をひそめる。
「我々について調査済みということですね。では私の回答も分かるはずです」
「受けていただけると?」
「いえ、お断りします」
「なっ!」
拒絶されるとは思っていなかったのか、神父の笑顔が一瞬で引きつる。
「分かっているのですか? 聖職者の頼みを拒めば、慈善活動に冷たい辺境伯として評判が悪化するのですよ!」
「評判など恐れません。それに――あなた方の中には、寄付金を着服している者がいると聞きます。そんな組織に、お金を渡す理由はありません」
談話室の空気が張り詰めていく。
その態度が頑なだと悟ったのか、神父は口を噤んだ後に鼻で笑う。
「ふん。必ず後悔しますよ?」
「安っぽい捨て台詞ですね」
「うぐっ」
悔しそうな表情を浮かべながら、神父は法衣の裾を翻して部屋を後にする。重く閉まった扉の向こうで、足音が遠ざかっていった。
静寂の中、先に口を開いたのはユリウスだった。
「きっと彼、何かしてくるよ」
ローズは短く息を吐き、紅茶を一口含んでから答える。
「でしょうね。ですが問題ありません。降りかかる火の粉は払うだけですから」
その声には一切の迷いがない。
ローズの自信は過去の経験だ。かつてプレイした『薔薇物語』の中で似たイベントがあったからだ。
教会が講じる策の手口も結果もすべて知っているローズなら、いかようにも対策が打てる。
内心、優位を確信する彼女は、ゆっくりとカップをソーサーに置いた。
「まずはお手並みを拝見させていただくとしましょう」
その瞳に宿る光は、冷たく輝いていたのだった。




