本編 ~『闇落ちルートへ進むセレフィーナ』~
王都の貴族街の中でも特に静謐な一角に位置する館。
そこは第二王子ギースの私邸だった。
純白の石で組まれた外壁に、王家の紋章を刻んだ門扉。正面に据えられた噴水には彫像が佇み、夕日を受けて淡い金色に輝いている。
品格と威圧が混ざり合うその佇まいに、訪れる者は自然と背筋を正す。セレフィーナも例外ではなく、緊張しながら屋敷に足を踏み入れた。
(できれば、ギース様には頼りたくなかったですわね)
心の奥底から浮かび上がるセレフィーナの本音。
それでも背に腹は代えられない。
辺境伯であるローズに危害を加えようとした咎で、セレフィーナは指名手配されている。王都に残ることすら危険な中、彼女が逃避先として選んだのは、『薔薇物語』における攻略対象の一人である第二王子ギースだ。
彼とのルートは、ファンの間でも賛否が分かれている。
通称、闇落ちルート。
聖女という神聖な立場を捨て、王位継承争いに身を投じ、ギースと共に権力を奪い取る。それは清らかな聖女として生きる理想と程遠い人生だった。
(ですが今の私に理想を貫く余裕はありませんわ……)
復讐のためなら、あらゆるものを利用する覚悟を持っていた。
使用人に先導され、館の奥へと進む。
廊下は赤絨毯が敷かれ、燭台に火が灯されている。けれど、それらの温もりは無機質で、どこか冷たく感じられた。
やがて立ち止まったのは、第二王子の執務室。重厚な両開きの扉が開かれると、そこにいたのは、黒曜石のような漆黒の髪を持つ男だった。
背は高く、無駄のない端正な顔立ちの持ち主で、セレフィーナの姿を見るなり、その目が細くなる。
「貴様が聖女セレフィーナか……」
「お初にお目にかかりますわ、ギース様」
「それで聖女が俺に何の用だ?」
「私を助けていただきたいの」
「ほぉ」
セレフィーナは膝をついて、簡潔に目的だけを伝える。
事情の説明はしない。する必要もないと思っていた。
ゲーム通りであれば、ギースは玉座を手に入れるために、王都に情報網を巡らせている。指名手配されていることや、その命令が兄である第一王子ユリウスから発せられたことも把握しているだろう。
ギースは片眉を上げ、わずかに肩を揺らす。
「指名手配は取り消せんぞ」
「ギース様でも無理ですの?」
「理不尽な罪状ならともかく、辺境伯を襲ったのだろう?」
「それは……」
「罪に問われるだけの十分な正当性がある。聖女であろうと、それは変わらん。兄上にしても、法に則った処罰だと主張するだろうな」
セレフィーナは唇を強く噛んで俯く。そんな彼女の様子を愉快そうに眺めるギースは、救いの手を差し伸べるように口を開く。
「だがまあ、俺が国王になれば話は別だ。恩赦を与えることもできる」
「私、お役に立てますわ!」
希望に満ちた声でセレフィーナは応える。彼が王にさえなれば、再び栄光の座に返り咲ける。そう理解したからだ。
「私は聖女ですから。信者も大勢いますし、教会との人脈もありますわ。きっとギース様を玉座へと導けるはず。そう信じていますわ」
セレフィーナの聖女の証である『回復魔術』が失われたことは広まっていない。今ならまだ交渉材料として十分に通じるはずだと、彼女はギースの背中を押すために言葉を続ける。
「必ずや、ユリウス様を排し、ギース様を王にしてみせますわ」
不敬とも取られかねない言葉は、セレフィーナなりの覚悟だった。その宣言が心に響いたのか、ギースはわずかに目を細める。
「ふふ、面白い女だな……まぁいい。俺の役に立つというのなら、傍に置いてやろう」
「ありがとうございますわ!」
その一言が契約の成立を告げる鐘となる。セレフィーナは深々と頭を下げるが、その瞳には狂気が宿っている。
(私を貶めた代償、お姉様に必ず支払わせますわ)
そのためなら何だってやる。これは聖女としてではなく、悪女として踏み出した第一歩になるのだった。




