本編 ~『牢の向こうの母』~
牢屋の石造りの廊下を歩いて、ローズとユリウスは出口へ向かう。
足音が牢の静けさの中ではやけに響く。そんな中、聞き馴染んだ女性の声が耳に届く。ローズの足がぴたりと止まり、ユリウスは不思議そうに首を傾げた。
「……知り合いかい?」
「たぶん、母です」
ローズはわずかに目を細め、声の主を確かめるように耳を澄ませる。その声は聴き間違えるはずもない。マリーヌのものだ。
「間違いありません、やっぱり母の声です……衛兵を殴って、セレフィーナを逃がしたとは聞いていましたが、ここの牢屋に収容されていたのですね」
「会っていくかい?」
「それは……」
「セレフィーナについて何か手がかりが得られるかもしれないよ」
「あまり期待はできませんよ。母は今でもセレフィーナを溺愛しているでしょうから。レオン様と違って、居場所を知っていたとしても、決して吐いたりしないでしょう」
それでもローズはしばし黙考する。そしてかすかに唇を引き結んだ。
「でもまあ、せっかくですし。何かヒントが得られるかもしれませんから。顔くらいは見ていきましょうか」
そう決めた二人は声のする方向へ向かう。
牢屋の奥の部屋、鉄格子の向こう側にいたのは、品のあるドレス姿のまま、椅子に腰を下ろすマリーヌだった。
高く結い上げた髪は乱れ、顔には疲労が滲んでいるが、ローズの姿を目にした瞬間、マリーヌの目が見開かれた。
「この親不孝者! 今さらどんな顔をして私の前に現れたの!」
怒声を響かせると、マリーヌは立ち上がり、格子の前まで詰め寄る。
「あなたのせいでセレフィーナが……あの子は聖女で、伯爵家の誇りだったのに……」
嘆く声が反響する。だがローズは冷静さを崩さない。まっすぐに母を見据える。
「今回の件、私に非はありません。私の婚約破棄を主導していたのはセレフィーナですし、それに何より、あの子は私に襲いかかりました。辺境伯である私への危害を見逃せば、周りに示しがつきません。貴族なのですから、お母様もそれはお分かりのはずです」
「で、でも……」
マリーヌは震える声で呟く。抗いたい気持ちはあるが、理性ではセレフィーナの行為が罪だと理解しているからこそ反論できずにいたのだ。
悔しそうに唇を噛み締めるマリーヌに、ローズは問いかける。
「セレフィーナがどこに行ったかご存知ですか?」
「……知らないわ」
「こちらにはユリウス殿下もおられます。嘘を吐くのは、あなたのためになりませんよ」
促されるようにして、ユリウスが軽く手を振る。穏やかな笑みを浮かべながら加勢すると、マリーヌは口を開きかけるものの、言葉を紡げなかった。
「本当に私は知らないの……」
そう、声を絞り出すと、しばしの沈黙が流れる。
やがてマリーヌが顔を上げる。
「セレフィーナは……これからどうなるの?」
「指名手配されていますから。見つかれば、しかるべき処罰を受けるでしょうね」
「許してあげられないの?」
「無理です」
即答だった。
「私はセレフィーナを許しません」
「でも、あの子は聖女なのよ……あらゆる病や怪我を癒す力を持っているわ。償いなら、傷つけた分だけ人を救えば……」
「それは無理ですね。なにせセレフィーナは『回復魔術』の力を失っていますから」
「……どういうこと?」
「論より証拠。実際にお見せしましょう」
その問いに応えるように、ローズは石壁のひび割れに手を触れる。『回復魔術』を発動すると、光に包まれ、瞬く間に修復されていった。
「聖女の力は私が頂きました。世界に一人だけの『回復魔術』ですから。セレフィーナは力を失ったと理解できますよね?」
その言葉が放たれた瞬間、空気が張り詰めたように静まり返る。時間さえ止まったかのような緊張が場を支配した。
「……では、これにて失礼します」
淡々とそう告げると、ローズはくるりと背を向ける。だが、その背中に、甲高い叫びが突き刺さる。
「待って!」
鉄格子にすがるように、マリーヌが悲痛な声をあげる。
「あなたが聖女になったのなら、もうセレフィーナなんて必要ないじゃない。ローズさえいれば、我が伯爵家の名誉は保たれる。母である私も、周囲から賞賛されるわ!」
どこまでも自分のことしか考えていないマリーヌに、ローズは呆れて苦笑を零す。
「ふふ、どうやらお忘れのようですね。私は伯爵家と離縁したのですよ。もはや、血が繋がっていようとも、あなたとは赤の他人です」
その声は冷たく、容赦のない刃のように鋭い。こうしてローズは、かつての母に最期の別れを告げて、その場を後にするのだった。




