口ずさみながら
「ルウちゃん?」
2限目の授業が休講になり、時間を持て余したわたしは、理系棟の方へやってきた。
今日はこのまま、こっちの学食でお昼を食べてやろう。嫌がる圭の顔を思い浮かべながらメッセージを送る。案の定、来なくていい、なんて素っ気ない返事が返って来て、ニヤニヤと顔が緩んでしまった。
普段立ち入る事のない建物の中は珍しく、ぶらぶらと歩いていると、カイさんとすれ違った。
「カイさん!」
「珍しいね、ルウちゃんがこっちに来るなんて」
にっと笑って、カイさんがわたしの側にやってきた。
カイさんに出会うのはこれで2度目だけれど、親しい友人のように気軽に話しかけてくれる。3カ月後にはなくなっちゃうのかな、なんて思いがチラリと頭をよぎった。
「休講で空きになったんです」
「それでこっちきたの? 残念だけど圭は講義中だよ」
「あ、知ってます。暇なんで、昼になるまでぶらぶらしようかな~なんて思って。ちょっとした探検気分ですね」
「じゃあ俺がこの辺案内しようか? 文系棟には敵わないかもしれないが、理系棟にも中々いい雰囲気の喫茶室があるんだぜ」
素敵な喫茶室?
興味が沸いたわたしは、カイさんのお誘いを受けた。キョロキョロしながら後ろを、ついて回る。
建物の中をぐるりと歩いていると、知らない人が声を掛けてきた。
「あっれ、カイ。その子新しいカノジョ?」
「ばっか、違うよ。圭の彼女、お互い暇だから案内してんの」
カイさんは友人が多いようで、通りすがりに出会う人、沢山の人達に声をかけられる。そして圭は有名人のようで、圭の名前を出すとみんなが、ああ、と言った顔をした。
「圭の彼女か。あいつコロコロ相手変わるから、今誰と付き合ってんのか、全然分かんねーんだよな。あんなのでも、次々と彼女になりたがる子が現れるんだから、イケメンは得よなー」
「そんな事言ってお前、今カノともう3年付き合ってんだろ? そっちの方が、俺は羨ましいけどね」
「そういや、カイもあんまり続かねえよな。圭ほどじゃないけど」
「うっせーな。可哀相だと思うなら、誰かいい子紹介しろよ」
「やだよ、自力で探せよ……」
圭の彼女だと紹介され、反応が返ってくるたびに少しホッとする。
この人たちは誰も不思議に思わないだろう。わたしが、3カ月後に圭の隣から消えていても。
理系棟の3階に上がり、手前の教室の前で、カイさんが急に立ち止まった。入り口の扉は閉まっている。講義中らしく、中から教授のボソボソとした話し声が漏れていた。
「ここ、今、圭がいるとこ」
視線を、教室に向ける。
窓は曇りガラスで、中の様子は見えない。声も、教授のものしか聞き取れるものはない。
「じっと見ちゃって、気になんの?」
「え、いえ!」
「後でここに戻って来よう。教室出るとこ待ち伏せして、ヤツを驚かせよーぜ」
にっと笑ったカイさんに笑顔で頷き、わたし達は喫茶室に向かうのだった。
◆ ◇
理系棟の2階の端に、そのお店があった。
入口の前には、黒い横長のベンチが一つ。その端に、黒猫を象った飾りと、グリーンの丸い人工観葉植物が置かれている。
扉を開けると、ちりんちりん、と気持ちの良い音がした。
人はまばらで、わたし達は見晴らしの良い窓際の席に座る。
「可愛いお店ですね。ちょっと意外」
「だろ? まぁ、こっちにも女の子は、少ないながらもいるからな。文系の学生でここ通ってるコもいるよ」
テーブルの上には、丸いシュガーポットが置かれている。ドット柄が可愛い。入り口の装飾といい、女の子の好きそうなお店だ。
メニュ―を見ると、美味しそうなスイーツの名前が目に入る。名残惜しいけれど、お昼が食べられなくなると困るので、紅茶だけ頼むことにした。カイさんはコーヒーを注文した。
運ばれてきたコーヒーを、カイさんはミルクも砂糖も入れずに口にする。ブラックだ。大人だ。甘党の圭とは正反対だ。
「さっきアイツらが言ってたこと、気にしないでね」
「え?」
「圭の彼女がコロコロ変わるってやつ。たぶん、ルウちゃんは違うと思うから」
「いえいえいえ!」
慌てて手を振った。そんなわたしを見て、カイさんがくすりと笑みを漏らす。
優しいフォローに、気持ちが焦る。
だってわたしと圭は、続かない関係だから……
「あの、わたしも、同じですから」
「――――――」
思わず零した言葉に、カイさんの目がきらりと鋭くなった。
キリリとした目元は、真顔になるとちょっと怖い。
「……同じって、なに?」
低い声色は、妙な圧力を感じる。
「いえ、その……」
しばらく黙っていたけれど、空気が重くなってきた。耐えきれなくなって、観念してわたしは口を開いた。
「付き合うの、3ヶ月だけなので」
チラリと上目遣いでカイさんの顔を見た。
眉をギュッと寄せ、訝しげにわたしを見ている。
「はぁ? それ、お試しってやつ?」
「お試しではないんですけど……次の恋人と上手くやる為に、一時的に付き合おうって事になって」
「なんだそりゃ。ルウちゃん、あいつと正式に付き合ってやる気、ないの?」
「あるもないも、圭が言ってきたんですよね。3ヵ月だけでいいって」
「圭が……?」
ドキドキしながら、紅茶のカップに口をつける。
目をつぶってごくんと飲んだ後、カイさんをそろりと見ると、にこやかな顔に戻っていた。
「ところでルウちゃんは、学部なに?」
「文学部です。古典文学専攻予定です」
話題が変わり、ホッとする。
もうすっかり、さっきまでの愛想のいい、カイさんだ。
「へぇ、古典ってイザナギ・イザナミとかそういうの?」
「そうですそうです。古事記、よく読むと結構面白いんですよ」
「ふぅん。俺、本とか普段読まないんだけど、ルウちゃんが勧めてくれるなら一度読んでみようかな」
「是非っ。カイさんは、圭と同じ理工学部なんですか?」
「そうだよ。圭と同じ学部で、学年も同じ。でさ、さっきからずっと気になってんだけど」
「はい?」
「敬語。そろそろやめない?」
にっとした笑いを浮かべ、カイさんがコーヒーカップを手に取った。
◆ ◇
講義の終わる5分前に、わたしとカイさんは、3階の教室の前にやってきた。
時間が来て扉が空き、生徒たちが一人、また一人と廊下にやって来る。キョロキョロと人の波を目で追っていると、どくん、と心臓が揺れた。
入り口の隙間から中を覗くと、圭が女の人と一緒にいた。
大人っぽい雰囲気の彼女は、長い真っ直ぐな栗色の髪を揺らし、圭の手元を覗き込んでいる。さっきの授業の話でもしてるのかな……。
人の流れが途絶えた頃、カイさんが教室の中に入っていった。わたしも後を追う。
「よお! なにぐずぐずしてんだよ。ルウちゃん待たせてるぞ」
「流羽? 来なくていいって言ったのに……なんでカイといんの?」
「暇だったからこっちに来たら、偶然カイさんに会って、さっきまで一緒にお茶してたの。こっちにも可愛いお店あるんだね」
「ふうん……知らない間に、なんか仲良くなってんだな」
広げていたノートとペンを鞄にしまいながら、圭が苦々しい顔をした。
理系棟に来られるの、そんなに嫌だった?
圭の側にいた女の子が、じっとわたしを見つめている。綺麗な人。落ち着いた雰囲気で、わたしと正反対のタイプの人。
「ルウちゃん、いい子だからな」
「カイさんもいい人だよ」
「サンキュー」
それとも……わたし、邪魔しちゃった?
女の子が、わたしから視線を圭に戻し、気まずそうに声を掛けた。
「圭くん、私行くね。これ、なるべく早く返すね」
「ああ、いつでもいいから、焦んないで」
「うん、ありがとう!」
栗色の髪をふわりと揺らし、知らない女の子が教室から出ていった。
その後ろ姿を、ふっと優し気に圭が見つめている。その笑顔は。
―――――境界線の内側の、顔だった。




