好きでした
謝ろう、そう思っていた筈なのに。
つっかえたように、喉からは何も出て来ない。
代わりに、涙だけが溢れてくる。
圭は何も言わずに、わたしを包み込むように柔らかく抱きしめてくれている。視界は最初から滲み続けていて、圭の顔なんてまるで分からない。
だから脳裏に浮かぶのは、昨夜別れた時のままだった。あの切なくて悲しそうな表情が、ずっとわたしの心にこびりついている。
今は、どんな顔をしているのだろうか。
酷い事ばかり言ったから、怒っているかもね。
それとも―――――呆れてる?
圭の態度はとても優しくって。だから、側にいた頃のような優しい顔をしていたらいいな、なんて期待をしてしまう。昨日のわたしの態度を振り返ると、あり得ないだろうけど。
黒いコートの中で、わたしは見えない圭の事ばかり、ぐるぐると考えてしまっている。
あぁ、こんなんじゃダメだ。
目を逸らしていたら、これまでと何も変わらない。今の圭を、ちゃんと確かめておかないと。
視界を塞ぐ涙を、袖口でしっかりと拭いあげてから、恐る恐る見上げてみた
「圭……」
色んな圭を想像していた。けれど想像はやっぱり、想像にしか過ぎないんだ。どの予想も、わたしの思い込みに過ぎなかった。
整った眉は心細げに寄せられている。綺麗な口元はキュッと引き締められていて、瞳はゆらゆら、頼りなさげに揺れている。
わたしの目に映る圭は、とても不安がっているように見えた。
「好きだよ」
謝罪を告げるつもりで、わたしの口からは全然違う別の言葉が零れていた。
あれ、おかしいな。
こめんねって言うはずだったのに……。
不安に揺れていた圭の瞳に、動揺の色が走る。
「…っ、おれも、好き」
どうしよう……なんて狼狽える暇もなく、圭が返事をしてくれた。
好きって言葉が聞こえてきたんだけど……
ねえ、これは、本気にしてもいいの……?
どくどくと期待に胸を高鳴らせていると、圭の顔が影のようにわたしの顔に被さって、そっと唇が重なった。
それからもう2回ほど、今度は少しだけ乱暴に、唇がぶつかってきた。
見つめ合う距離まで、お互いの顔がゆっくりと離れていく。圭がくしゃりと顔を歪ませた。
「なんで、終わりにしようなんて言ったんだよ」
息を飲んだ。
圭の頬には、一筋の雫が伝っている。
12月の弱い日の光に触れて、それは綺麗に揺らめいていた。
「おれの事好きだって言ってくれたのに、なんで、離れて行こうとするんだよ……」
彼の前髪が、重力に従ってさらりと下方に流れ落ちた。俯いて、細かく肩を震わせている。圭がわたしにしてくれた事を、今度はわたしが圭にした。大きな黒い身体を、包み込むように、ふわりと抱きしめる。
「ごめんね、ほんとうは別れたいなんて思ってなかったよ」
腕の中の温もりが、頼りなげに揺れている。
捨てられて怯えている黒猫を抱きしめているようだ。
「圭が好きだから、サヨナラにしてしまいたかったの。3ヵ月で終わりだと思ってたから……続けられるなんて、思ってなかったから……」
3ヵ月目が、ゴールなのだとわたしは信じてた。わたしと圭との関係は、終わりに向けた始まりなのだと思ってた。
2人の最後の瞬間に、わたしはいつも怯えてた。
一緒に居ればいるほど、離れるのが嫌になって来て。新たな圭を知るたびに、どんどん苦しくなって来て。カウントダウンの終わりまで、一緒に居られる気がしてこなかったの。
「ごめん流羽、おれ流羽がそんな風に想ってくれているなんて、全然知らなくて。おれは……続けたかったんだ」
そう。昔から圭は、彼女と長く続かなかった。
だから、誰かと続けるために、わたしと付き合いだしたんだ。
その誰かは、決してわたしじゃない。
そんな風に、わたしはずっと思っていた。だから圭とは距離を置いていた。
傷つきたくなくて。
それなのに。
「この3ヵ月を越えても、流羽とは続けたかったんだよ」
……それなのに。
「わたしと、続けたかったの……?」
どくりと心臓が、跳ねた。
圭は、わたしと続けるつもりでいた……?
「そうだよ。おれは、流羽と、続けたかったんだよ」
「わたしは、わたしじゃない子と続けたいのかと思ってた……」
ねえ。そんなこと言われたら、本気にしちゃうよ?
「今までの彼女と続かなかった理由なんて、自分でも分かってはいたんだ。だってどの子ともおれは、続けたいなんて思っていなかった。おれが続けたい相手は、ずっと別にいたんだよ」
それが……それが、わたしなの?
「おれ、ほんとダメで、情けなくて……。ずっと言おう言おうと思っていて、結局ギリギリまで言えなくって……。なぁ、流羽。お願いだから……」
圭の声が段々と、細く頼りないものになってきた。悲痛な叫びにも聞こえるそれに、胸がいっぱいになってくる。疑いようもなく、圭が本気で喋ってくれている。
これが今の、圭。わたしの瞳に映る圭。
もう。身体だけじゃなくて、声まで震えてるよ……。
「3ヶ月が終わっても、彼女のままで側にいて? おれと、これからも続けて? おれも、流羽が好きだから」
わたしが、心のどこかで夢見ながら諦めていた、言葉。
どうしようもなく願っていた未来を、圭が震えながら、わたしに告げてくれた。
わたしの頬にも、再び温かいものが伝っていく。
「わたしも、圭が好き。圭と続けたい。圭の彼女でいたい。期間限定なんてもう嫌だよ、これからもずっと、ずっと圭の側に、いたいよ………」
圭を抱きしめる腕に、力が籠もる。
ぴったりとくっついた身体からは、圭の匂いと温もりがした。12月の寒い寒い空の下、ふたりが触れ合う部分だけは特別に、暖かい。
それ以上、お互い言葉が出て来なくって。
しばらく無言のまま、その場で静かに抱き合っていた。
彼とわたしの90日は、
終わりの始まりなんかじゃなかった。
◆ ◇
「な、なにそれ……」
「それ、おれのセリフなんだけど」
どうやら圭は、わたしの部屋の前で、わたしを待っていたらしい。
インターフォンを幾ら押しても、わたしは全然出て来ない。耐え切れなくなって、電話を掛けようとして、携帯を家に置き忘れてきた事に気が付いたそうだ。
「迎えに行くって言ったのに、どうしておれの家まで来てんだよ」
「え、だって来ないで、なんて言っちゃったし、来るわけないと思ったんだもん」
お互いが、お互いの部屋の扉の前で待ち続けていたとか……なんて不毛な時間を過ごしていたんだろ、わたし達。
「まぁ、正直。昨日は結構心がへし折られていたから、3限が終わるまではどうしようか迷ってた」
だよね……。
「でも、終わりにする勇気も結局持てなくて、ラストチャンスのつもりで流羽んちに行ったんだよ。これで会えなかったら、その時はもう、きっぱり諦める覚悟で」
まだわたしに、チャンスなんて残ってたんだ。
とことん信じてなくて、ごめん……。
「流羽は出て来ないし、携帯は無いし、こりゃもう駄目だと思って家に帰ったら―――いるし。すっげえ驚いたんだからな」
「わたしも、インターフォン押しても出て来ないし、携帯鳴らすと中からコール聞こえてくるし、これはもう会って貰えないと思ってたよ」
肩を竦めて圭を見上げてみた。
言葉のわりに、優しい眼差しがわたしに向けられていた。
心が、温かくなってくる。
「……ねえ、圭」
「ん?」
「迎えに来てくれて、ありがとね」
「………。こっちこそ。待っててくれて、ありがとう」
お互い、顔がかぁっと赤くなっていく。照れくさくなって俯いていると、タイミングよくお料理が運ばれてきた。誤魔化すように、スープに口をつける。圭もわたしと同じことをやっている。
圭と目が合って、2人でくすりと笑い合ってから、お水の入ったグラスで乾杯をした。
「ディナー、間に合ってよかったね」
コース料理を食べ終えると、結構な時間が経っていた。レストランを出て、最寄り駅まで戻ってくると、時刻は21時を回っていた。
昼間でも寒い今の時期、夜風は一段と身に染みる。ぶるりと震えていると、当然のように隣の彼がわたしに手を差し出した。
触れ合う手は、初めは冷たいけれど、次第に温もりを帯びていく。
1人だと心細い夜道は、2人だと温かい道へと変わるんだ。
お互いの家の分岐点まで辿り着いた所で、圭がピタリと足を止めた。
「流羽。これからおれの家、くる?」
「うん、行く!」
このままお別れするのが寂しいと思っていたので、圭の提案に嬉しくなってしまった。浮かれたわたしは、喜びの余り、圭の腕をギュッと抱きしめた。
今日はもう少し、2人でゆっくりしていたいな。
締まりのない顔で笑っていると、圭が照れくさそうに顔を寄せ、わたしの耳元に囁いた。
「……泊ってく?」
「ん?」
首を少し傾けて、それから圭の腕に顔を埋めながら、ぼそりとわたしも呟いた。
「うん、泊ってく……」
わたしの頭を、わしゃわしゃと圭が掻き回している。
お返しに、圭の腕にぐりぐりと、顔を押し付けてやるのだった。




