息を吸い込んで
2人で滅茶苦茶に走って、気付けば公園に辿り着いていた。
ベンチで座って、荒い息を整えていると、首筋に冷たい感触がした。
「ひゃあ!」
「おつかれさま、るーちゃん。これ飲む?」
「ありがとう、飲む」
冷えたスポーツドリンクを手渡され、ごくごくと一気に飲み干した。公園の一角に自販機の明かりが見える。疲れて座り込んでいるわたしと違って、冬くんは余裕な様子で隣に腰掛けた。
「あんなに走ったのに、冬くん元気だね」
「料理人は体力あるんだよ? 前に言ったよね、オレ。まぁ、高校の時陸上部だったんだけどね!」
「そうなんだ」
くすりと笑うと、冬くんが優しい眼差しをわたしに向けた。
「るーちゃん、笑ってる」
どきりとした。
さっきまでのわたしは、よほど沈んだ顔をしていたようだ。
心配させちゃったのかな。こんな所まで一緒に付き合わせて、悪かったなぁ。
「……ごめんね。なんか迷惑かけちゃった」
「そんな顔しないでよ。オレに謝んなくていいからさ。カレシと何かあったんだよね。約束って、別れる約束でもしてたの?」
優しいはずなのに、冬くんの視線になぜか圧力を感じる。促されるままコクリと頷いた。口から言葉が漏れる。
「うん。最初から、3ヵ月だけでいいって言われて付き合ってたの。だから約束通りに別れただけで……」
そう。ほんの1週間ほど早いだけで。
別れたのは、予定通りの事なんだ。だってそういう約束だったんだから。だからもう、圭に会う必要なんてどこにもない。少なくとも、わたしはもう会いたくない。
最後にもう一度会って、圭の口からサヨナラと言われるのが怖くて、わたしはこうして逃げ出した。だって、そんな事されたら絶対に泣いてしまう、おしまいに、出来なくなる―――
「……っ!」
冬くんがわたしの頭を軽く引き寄せた。
びっくりして見上げると、辛そうな瞳と目が合った。
「るーちゃん、泣いてる」
冬くんの声にはっとした。頬に手を当てると、ぬるりとした感触が指先に触れている。
払いのけるように拭っていると、わたしよりも少しだけ大きな手が、わたしの頭を優しく撫でた。
「泣いていいよ。だってまだ好きなんでしょ? あいつのこと」
「うん………」
「いっぱい泣いて忘れちゃいなよ。それでさ、オレにしときなよ」
ん? 冬くん……?
「オレなら、別れる約束なんてしないよ。泣かせたりなんてしないから、るーちゃん。オレと付き合ってよ」
「冬くん? えっと、冗談言って慰めてくれてるの?」
「冗談なんかじゃないよ、本気だよ。オレ、るーちゃんが好きだよ」
どくりと心臓が跳ねた。
冬くんの表情は真剣だ。無邪気な笑顔の冬くん、子犬みたいな冬くんは、今はどこにも見当たらない。唇をキュッと引き結び、わたしを見つめる冬くんは、可愛い男の子にはとても見えなくて。ちゃんとした大人の、男の人に見える。
本当に本気なんだ。
誰でもいいから彼氏が欲しい。ずっとそんな風にわたしは思ってた。圭を忘れたくて、誰かの温もりで誤魔化していたくって。だからここで頷けば、わたしは前に進めるかもしれない。圭が、薄まるかも知れない。
どくりどくりと期待して、わたしの心臓が音を鳴らす。
ああでもわたしは知っている。圭を忘れるなんて、わたしには出来やしないんだ。だから誤魔化すことは出来たとしても、わたしの心にはずっと圭が棲みついている。そんなわたしと付き合うなんて、圭と付き合っていた時のわたしじゃないか。
本気なら余計に、苦しい思いばかりさせてしまう。
軽く深呼吸をして。冬くんに負けないくらい真剣な目を、彼に向けた。
「ごめんね冬くん。わたし、本気の人とは付き合えないよ」
わたしの頭に触れていた冬くんの手に、ぎゅっと力がこめられる。2秒、じっとした後、冬くんの手はすぐにわたしから離れていった。
行き場を失った手のひらを、コートのポケットに突っ込んでいる。ミルクティー色の髪をさらりと流しながら軽くうつむいて、それからくるりと顔を上げた。
「落ちてくれないかぁ、残念!」
にかっと笑って、ベンチから立ち上がる冬くんは、もういつもの冬くんだった。
◆ ◇
適当に走った公園は、自宅とは反対方向の場所だった。道が分からないので、冬くんに駅まで送って貰う事にした。吐く息が白く濁る中、冬くんの少し後ろを歩く。
「ねぇ、るーちゃん」
「なに?」
「るーちゃんのカレシ、普通にるーちゃんのこと、好きだと思うよ」
「………そんなこと、無いよ」
好きなら、3ヵ月だけでいいなんて、言われてないよ。
他の女の子を、部屋になんて入れないよ。
「だって最初に会った時、あいつ、オレ見て苛ついてたんだよ? るーちゃんに耳打ちした時の顔、見せてやりたかったなー」
耳打ちって……内緒話と見せかけて、どうって事ない内容だった、あれ?
「そういえばあの話って、こそこそ耳打ちするような内容でも無かったよね」
「ああ、あれはね。るーちゃんがあいつに遊ばれてないか、ちょっと試してみたくてさー」
「えぇ!?」
「いやぁ……あの時の顔見てたらさ、あいつ、るーちゃんに本気としか思えなかったよ」
あの時の圭は確かに機嫌が悪かったけど。
雨降ってたから、さっさと帰りたかったんじゃないかな。たぶん。
わたしに本気とか、そんな訳ないよ、ない。
「それにさ、るーちゃん合鍵貰ってたでしょ?」
「ん、うん」
「合鍵なんて好きでもない相手に渡さないよ。あれはね、信頼してるし信用してって事だよ。それこそ、3ヵ月でいいと思ってる相手なんかに渡さないって。ずっと一緒に居たいと思ってる本命の子にしか、渡さないと思うよー」
それは……ご飯作りに来て欲しかっただけだと思う……。
そもそも、『彼女』になら、誰にでも渡しているんじゃないかな。たぶん。
たぶん。そう自分に言い聞かせながら、どくりと心臓は跳ねている。
こんなこと言われて、期待してしまっている自分がいる。そんな訳ないのにね。圭には、サユさんがいるのにね。
周囲が明るく賑やかなものになってきた。バイト先の最寄り駅まで戻ってきたようだ。
「るーちゃん。家まで送るよ?」
「それは遠慮しておくよ」
「……そっか。じゃ、暗いから気を付けて」
「うん。ありがとう」
冬くんと別れて、バイト帰りにしては珍しく電車に乗り込んた。
時間も遅いせいか、人はまばらだった。
駅から家までの道のりを歩く。暗い中、トボトボと歩いて家の前まで帰ってきたら、見慣れた黒い塊が扉の前でうずくまっていた。
「だからどうして圭が、ここにいるのよ……」
わたしの声に、圭が端正な顔を上げた。表情はどことなく虚ろで、ぼんやりしているように見えた。
「来ないでって言ったよね、わたし。もう終わりにした筈なのに……」
圭から距離を取ったまま、わたしは彼から目が離せないでいる。
「3ヵ月まで、あと一週間残ってるだろ?」
「そんなの、きっちり3ヵ月じゃなくてもいいじゃない……」
「明日、約束しただろ…………?」
圭がゆらりと立ち上がった。びくりと反応し、わたしは思わず身体を逸らした。
クリスマスディナーの約束。した、けど。
「約束通り、迎えに行くから。だから待ってて」
縋るような瞳。昨日の夜のような顔を、圭がわたしに向けている。
そんな顔しないでよ。待つって言ってあげたくなるじゃない……。
「待たないから、来なくていいよ!」
ぐらつく自分の心を戒めるように、大きな声を出した。
目の前の瞳が、ひどく切なそうな、悲しそうなものに変わっていく。
キリキリと胸が痛んで、たまらず私は目を伏せた。
今朝のように、腕を掴まれる事もなく。
強張るわたしの側を通り過ぎて、圭は何も言わずに帰って行った。
すれ違いざまに、ふわりと圭の匂いがして。
わたしは息を止めて、急いで部屋の中へと逃げ込んだ。




