夢を詰め込むの
目が覚めると、夢はいつも消えている。
始まりの日もそうだった。
そして、終わりの日もそうなった。
訳が分からない。
昨夜の流羽は、酒を飲んではいなかった。だから、あの時の流羽の言葉は全て、本心だとばかり思ってた。始まりの日の夜のように、酒に飲まれて同意してくれた訳じゃない。目が覚めた時に、記憶を無くすなんて事は絶対に、ありえない。
前髪をかき上げる。ベッドに、仰向けになって倒れこみ、曇った天井をぼんやりと見つめていた。カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しくて、目が自然と細くなる。
頭の中で、昨夜の出来事を再生した。
風呂上がりの流羽が、バスタオル姿でおれの目の前に現れた。
滑らかで柔らかそうな白い肌に、上気した頬。ほのかに香る石鹸の匂いに、おれの脳が警告音を鳴らしだす。目を逸らさないと、咄嗟にそう思ったものの、おれの視線は流羽に貼り付いて、離せない。
おれの置いといた服は、どうしたんだよ。
警戒心足りなさすぎるだろ。そんな恰好でおれの側までやって来て、押し倒されたらどうする気なんだよ。
言いたいことは山ほどあるのに、半分も言葉としては出て来ない。固まっていると、流羽から信じられないようなセリフが飛び出してきた。
強張るおれの胸元に、真っ赤な顔をして流羽がしがみついてくる。震える声でお願いをされて、おれの決意がグラグラと揺り動かされていく。
観覧車の中で言えずにいた言葉を、おれはクリスマスの日に改めて告げるつもりでいた。流羽の心に今誰が棲んでいようとも、期限が来ればおれ達は終わってしまうのだ。いい加減情けなくも怖がるのは止めて、好きだと言ってしまおう。約束の時が過ぎても側にいて欲しいと、伝えよう。
だからそれまでは、流羽に手を出さないでおこうと、気を付けて過ごしていたけれど―――……
流羽がおれを、求めてくる。
ピタリとくっついた流羽の心臓が、どくどくと大きな音を鳴らしていた。
おれの鼓動も、指の端までどくどくと、高らかに脈打っている。
どうするべきか、迷いながらも、おれの手は流羽の肩に伸びていて。柔らかくて温かな感触に、脳が麻痺したように、動けなくなっていた。
どうするかって、そんなの。このまま、引き寄せてしまいたい――――
どくり、と大きく心臓が鳴って。
もう一人のおれが、冷静に流羽を見下ろしている。
―――酒、飲んでないよな。
別の誰かと、間違えていないよな。
おれで、いいんだよな。流羽はおれが、いいんだよな。
どくり、とまた、大きく心臓が跳ねる。
白昼夢のようなこの状況に、冷静なおれが待ったをかける。肩にかけた手に力を籠めようとするおれに、流羽の気持ちを確認しろと言い放つ。尋ねた途端に、どちらかが目が覚まして終わるんじゃないかと密かに怯えながら、おれは流羽に問いかけた。
『流羽は……おれでいいの………?』
否定しないでくれ………。
縋るように見つめたおれを、流羽は真っ直ぐに見上げてきた。潤んだ唇がぱっくりと開いて、零れ出てきた同意の言葉を耳にした瞬間――――――
ぷつりと。
おれの中で何かが、音を立てて、切れていた。
おれはおかしくなっていた。何かが弾けてしまったようで、あんなにも言いたくて言えなかった言葉が、するすると喉を通り過ぎていく。
何度口にしたかなんて、最早記憶に残ってない。数えきれない程、おれは流羽に好きだと告げていた。おれの想いに呼応するかのように、流羽もおれを好きだと言っていた。その言葉が、涙が出そうになるほど嬉しくて、おれの口からは好きが、いつまでも止められないでいた。
やっと、流羽を手に入れる事が出来た。
そう思い込んでいたおれは、この上ない幸福感に包まれながら、夢のような心地で眠りについて、そして。
目が覚めたら、流羽に別れを告げられていた。
追いかける気力も。もちろん、大学に行く気力さえも出てこなくって、おれはベッドの上で呆け続けている。気付けば辺りは薄暗くなっていた。時計に目を遣って、のろのろとおれは起き上がる。
都合のいい夢を、見ていたのだろうか。
お互い好きだと言い合っていたのに。その先にあるものが別れようとか、本当に意味が分からない。全てが夢だと言われた方が、まだしもしっくりとくる。
「いや、夢じゃない……」
おれの左手からすり抜けていたようだ。ベッドの上には、流羽に返された合鍵が落ちていた。
拾い上げて、握り締める。
現実だと理解して、瞬く間に脳が思考を停止した。身体が勝手に外に飛び出していて、気が付けばおれは、流羽のバイト先の前で立っていた。
いつもの毎日を、送ろうとして。
◆ ◇
イブの夜、バイトに行くと、苦い顔をした木乃ちゃんがいた。
「クリスマスが祝日になればいいのに……」
木乃ちゃんの彼氏は3つ年上で、今年の春に大学を卒業している。社会人一年目の彼は仕事が忙しく、イブなのに会えないようだ。去年まではお互い学生だったので、甘いクリスマスを過ごしていたのだろう。今年はそれが出来なくて、非常に残念そうだ。
「流羽は休まなかったんだ」
「え、わたし?」
「彼氏持ちの子達、みんな休み入れてるわよ。イブの夜に、あんな寒い所で彼女を待ち続けるなんて、久我君も可哀相に」
「えぇ!?」
木乃ちゃんの視線を辿ると圭がいた。
目をこすって3度見した。けれど、やっぱり間違いない。ガラス越しに見える黒い姿は、どこからどう見ても圭だ。わたしのいるファミレスの前に突っ立っている。寒そうに身を竦めながら、両手をコートのポケットに入れて、真っ暗な空を見上げていた。
おかしいな、圭がいる………。
わたし達、終わったよね? だって、追いかけて来なかったよね。あの後、圭からの連絡は何もなくて、昼だって久し振りに別々でランチ食べてたし。うん、きっちり別れたはず。
それなのに、なんでここにいるのよ。いつものように、迎えに来てるのよ。
訳が分かんない。だって今日は、クリスマスイブだよ?
どうしてこんなとこにいるのよ。サユさんは一体、どうなってるの……。
「何そんなところでジッとしてんのよ、流羽」
「木乃ちゃん……」
バイトを終え、従業員用の出入り口から外に出ようとして、足が止まっていた。
圭に捕まりたくない。コッソリ外に出て、駅までダッシュしようかな。でも、すぐに気付かれちゃいそう。
「寒い中彼氏待たせてんだから、早く行ってあげなよ」
「も、もう彼氏じゃないし」
「なぁに、喧嘩でもしたの? こうして迎えに来てくれてんだし、許してあげたら?」
「喧嘩なんてしてないよ。……今朝、別れたの」
「―――はぁ? ほんの2日前まで仲良さそうにしてたじゃない。どうして別れる事になってんのよ」
怪訝そうな顔をして、木乃ちゃんがわたしに詰め寄ってきた。
「元々……そういう約束だし………」
「そういう約束って、なに?」
ひゃあ!!
突然、背後から声がした。木乃ちゃんよりも少し、低い声。
びっくりして振り向くと、冬くんがすぐ後ろに立っていた。目を細めて、わたしをじぃっと見つめている。
「冬くんかぁ、びっくりした……」
「るーちゃん。さっきからずっと、カレシがこっち見てるよ」
「え?」
通路の出口付近に目を遣ると、圭がいた。向こうもこちらを見ていて、慌てて顔を逸らす。
気付かれない内にこそっと駅に行く作戦、消えた!
「もう会いたくないのに……どうしよう……」
昨日の夜、あんな事しといて、圭は気まずくならないの!?
わたしは結構、恥ずかしいんだけど。今朝は気を張り詰めていたから、頑張れたけど……今は普通に、恥ずかしくて顔合わせ辛いんだけど!
まさか。今朝わたしが言った事、ちゃんと聞いてなかったの?
寝ぼけてて、半分くらいしか聞いてなくて、改めて確認したい、なんて言わないよね。
まさかね。合鍵だって返したし、ちゃんと意味、伝わってるはずだよね。
青くなっておろおろしていると、冬くんが突然わたしの手を取った。驚いて振り返ると、いたずらっ子のように、にやりと笑って囁いた。
「あいつから逃げたいのなら、はしろ」
え
「ちょっと冬川! あんた何やってんの!」
木乃ちゃんの怒鳴り声が聞こえてきたけれど。
「流羽!」
圭の叫び声を耳にした瞬間、わたしは冬くんの手を握り返していた。
冬くんは強引にわたしを引っ張って。
わたしも、必死になって引かれるがまま走っていた。




