この身体いっぱいに
「……流羽? あれ、着替え置いてただろ?」
バスタオル姿で現れたわたしを見て、圭がぎょっとしたような顔をした。
キッチンの床に目を遣ると、スープの汚れは綺麗に片付けられていた。両手鍋もきちんと洗っていて、洗いかごの上に置かれている。胸の内に沸いてきた罪悪感を、頭をふってかき消した。
「圭にお願いが、あるの」
「着替えなら、あれくらいしか用意できないよ」
「ううん、そうじゃなくて」
圭の側に近づいて行く。ベッドの上に腰掛けていた圭が、身体をピタリと強張らせた。表情も固くなっている。うん、警戒してる、警戒してる。
無意識の内にか、圭の上半身が軽く後ろに逸らされた。
ごめんね、でもここで止めてあげられない。
逸らした分よりも多く、わたしは圭に近寄った。にじり寄ったとも言えよう。
「わたし達、付き合ってるんだよね。わたしは今、圭の彼女なんだよね?」
「おれはそのつもりだけど……」
「じゃあ、わたしとして――――」
どくりと、心臓が跳ねる。
カタカタと、指先が震えだした。手のひらをぎゅっと握りしめ、こくりと息を飲み込んだ。
「引き出しに入ってた派手な箱がなんなのか、わたし知ってるんだよ。今まで付き合ってきた彼女達とはしてきたんでしょ?」
「…………」
「それなら。わたしとも、してよ………」
圭が、信じられないものを見るような目で、わたしを見ている。
急激に恥ずかしくなってきた。わたしの顔、今、絶対真っ赤だ。うぅ、なんか、涙でそう。
耐えきれなくなって、わたしは圭にしがみついた。圭の顔をこれ以上見ているのが怖くって、わたしは圭の胸元で視界を塞ぐことにした。
圭の両手が、あの日のように私の肩に触れてくる。このまま引き剥がされる、なんてのは全くの杞憂で、置かれた手はそのままピタリと停止した。
沈黙が、重い。
嫌なら嫌で、さっさとすっぱり断ってよ。
ねえ、お願い。
「おねがい、圭……」
「…………」
動悸が、すごい。心臓が口から飛び出るんじゃないかってほど、ひっくり返っている。ぴったりとくっついた圭の身体からも、大きな鼓動が聞こえてくる。圭はたぶん困ってる。
2人とも固まったまま、永遠にも感じられるような時間が経過した後、圭が頼りない声を上げた。
「流羽は……おれでいいの………?」
驚いて上を向いた。言葉も態度も、拒絶が来るとばかり思っていたのに、目の前には縋るような眼差しの圭がいた。
びっくりして、思わずポロリと本音が漏れた。
「初めては圭がいい」
気がつけば、わたしの背中は柔らかなベッドに触れていて。
見上げれば、熱っぽい眼差しをした圭がいた。
みぃ子、すごい。
難攻不落のように感じていたのに。圭は意外にもチョロかった。
◆ ◇
圭と付き合ったこの90日。わたしは、幼馴染のままでは知り得なかった彼の姿を、目の当たりにし続けた。
境界線の外側から焦がれていた圭というものは、彼の一部にしか過ぎなくて。上澄みしか知らずにいたあの頃に感じていた辛さや、想いは、内側に入り込んで、こうして全てのラインを乗り越えた今、どれもが可愛いものだったと思い知らされている。
わたしはつくづく甘かったのだ。
付き合おうと言われて、友達の延長みたいな形でやり過ごせると、タカをくくってた。
恋人同士のように触れ合って、デートをするようになって。開き直って思い出を詰め込んでやればいいとばかり思ってた。
そして最後の思い出に。3ヶ月の締めくくりとして、一度だけ抱かれてやろうと企んだ。圭との関わりを断つ為ではあるものの、わたしだってその方が、思い切りがつけられるだろうと踏んでいた。
そんなの、全部嘘だ。
圭は、加減をしてくれていた。終わりのある関係だからこそ、キスで止めてくれていた。幼馴染として、大事にしてくれていた。だからわたしも、疑うような事ばかり考えずに、それに甘えていればよかったんだ。
期限は最初から決まっているのに。触れ合えば触れ合うほど、わたしは離れるのが辛くなっている。
甘い眼差しを受ける度に。わたしを気遣う言動に、圭の温もりに触れる度に。これが最後なんだと感じては、ギリギリと胸が締め付けられてくる。
初めてで本当に良かった。身体の痛みが無ければ、心の痛みがもっと浮き彫りになっていた。
「好きだよ……流羽……」
切なげに目を細め、圭がわたしに呟いた。
過去の彼女達にはとっくに告げていたはずの、言葉。わたしには一度も与えられないでいた、言葉。ずっとずっと聞きたくて叶わない憧れの言葉が、笑っちゃうほど簡単に、圭の口からするりと漏れてきた。
ああ、こういう時には、そういう言葉を口にするものなんだな。
今の圭には、きっと魔法が掛かってる。雰囲気に飲み込まれているのか、リップサービスなのかわたしにはまるで分らない。けれど今の圭が、普段の圭とは別人のようだという事だけは、身をもって感じてる。
熱に浮かされたように。
それから何度も、何度も。
わたしを抱きながら、圭はわたしに好きだと言った。
「好きだ、好き。好きだよ、流羽……」
今だけの魔法に、わたしも掛かった振りをした。
今なら言える、今ならきっと、不自然じゃない。
「好き、わたしも、圭が好き」
頭がおかしくなっている。圭も、わたしも、一滴も飲んでいないのに、お酒を大量に浴びているようだ。素面だと絶対に口にしないような言葉を、お互いがお互いに告げている。
なんて、とびっきりの思い出。強烈な、記憶。
わたしは絶対に、一生この事を忘れない。
全身から力が抜ける。瞼が重くて、持ち上がらない。どうしても最後に告げなきゃいけない言葉があるのに、疲労感に抗えないまま、わたしはすうっと意識を手放した。
◆ ◇
朝日が部屋に差し込んできた。
薄ぼんやりと意識を取り戻して、周囲をゆるりと見回した。自分の部屋ではないけれど、今ではもう、見慣れない部屋なんかじゃない。良く知っている部屋の中に、わたしは居た。
ベッドの中で、隣には穏やかな顔をして眠る圭がいた。あのまま2人共疲れて寝てしまったのか、お互い服は着ていなかった。
圭の頬に手を当てた。手のひらから彼の温もりがじわりと伝わってくる。それと同時に、わたしの目からも涙がじわりと溢れてくる。こうして触れるのも、眺めていられるのも、これで終わり。側にいるのも、もう終わり。
あぁだめだ。これ以上触れていると、そのまま引きずられそうになってくる。
心をキュッと縛り上げ、圭の頬から手を離した。
ベッドの外に出て、洗面所に駆け込んだ。蛇口から勢いよく水を出し、顔を綺麗に洗い流していく。乾いたタオルで水分を丁寧に拭き取り、息を一つ、吐いた。
急いで服を身に着ける。洗濯機を開けると、スープで汚した服が乾燥まで無事、済んでいた。ホッとして袖を通す。
「わたし、今日は一限から授業あるんだよね」
時計をチラ見した。まだ余裕はあるけれど、そうのんびりもしていられない。
カバンからキーケースを取り出して、銀色の鍵を握り締めた。
最後の締めくくり、しないと。
寝ている圭の側に行って、頬をペチペチと軽く叩く。
むにゃむにゃと眠そうに唸りながら、圭が寝返りを打った。
「ねえ、圭。すごい眠いのは分かるんだけど、ちょっと起きて……」
「ん……流羽……」
体をゆすると、圭が寝ぼけながら腕を伸ばしてきた。絡め取られそうになって、慌てて身を引き、圭の腕をはね付ける。わたしの行動が意外だったのか、圭が上半身を起こしてきた。
「あのさ、圭。これ返す」
圭の手を取り、この部屋の合鍵を握らせた。
半開きだった圭の目が、段々大きく開いていく。
「……なんで?」
「わたしからの最後のアドバイス! ……あのさ、今の圭なら大丈夫だよ。次に付き合うコとは、ちゃんと続けられるよ」
「…………どういうこと、流羽……?」
駄目だ、このままだと泣いてしまう。見られないように、私は慌てて背を向けた。
「3ヵ月にはちょっと早いけど……終わりにしようってこと」
「待てよ!」
圭がわたしの腕を掴んできた。
思ったより強い力で、びくりと身体を揺らしてしまう。怯えたようなわたしの反応に、圭がはっとして手を緩めた。その隙に振り切って、玄関先に駆けていく。
履いてきたスニーカーを、急いでつっかけた。
「さよなら、圭。次の彼女と何があっても、昔みたいにわたしの部屋に来ないでね。わたしはもう、あの頃のように側に居させてあげられない……っ!」
吐き捨てるように、最後のセリフを言い切った。
圭はそれ以上、追いかけては来なかった。




