とっておきの
手を伸ばせば、すぐに触れられる距離なのに、圭が遠くにいるようで。
甘い眼差しはわたしに向けられているのに、黒の瞳はわたしをすり抜け、他の誰かを見つめてる。
胸の疼きを忘れるように、お酒を飲んだ。
アルコールの威力は抜群だ。こんな状態にもかかわらず、わたしをフワフワにしてくれる。次第に、愉快な気分になってきた。
ケラケラと笑いながら、隣の圭を振り返る。首をあからさまに傾けて、斜め下から至近距離で見上げてみた。圭の黒い髪の後ろから、蛍光灯の光が後光のように漏れている。肝心の顔は暗がりになっていて、まるで表情がわからない。
わたしから逃れるように、圭が身体を少し後ろに逸らした。
「ペース早いんじゃないか、流羽」
「そんな事ないよ、まだこれ一杯目。飲み切ってないよ」
「それにしては結構、酔ってないか?」
ピクリと動く喉仏を、じっと目で追ってみた。
これに触れらるのはあとわずか――――
普段のわたしなら、この想いを押し込めていたのだと思う。
お酒ってすごい。これは本当に薬だったんだ。わたしの心を解放させる、偉大な薬。百薬の長ってほんとだったんだ。
グラスの底に残っていたオレンジ色の液体を口に含み、コクリと飲み込んだ。視線は圭から離さないまま、空のグラスをテーブルの上に置く。
「………流羽………?」
身体が、熱い。頭の中身も、ふつふつと沸いてくるようだ。昨日の夜、伸ばしかけて止めた腕を、今は迷いなく圭に向けていた。
脛を床につけ、腰を上げて、わたしは身を乗り出した。圭の首筋に両腕を回し、するりと容易く絡め取る。魅惑的に蠢く喉元に、口をつけた。
ああ、いい匂い。
圭の真似をして、熱持った顔をぐりぐりと首筋に押し付けてみた。圭の匂いがわたしの身体に染み込んで、アルコールと混ざっていくようだ。
どちらもわたしを、フワフワにさせていく。
「酔うの……早すぎ、だろ……」
掠れたような声が聞こえてきた。見上げると、圭が目をぱっちりと見開いている。ふふ、と笑いが込み上げてきた。
お酒ってほんとすごい。こんなわたしを見て、酔ってるせいだと思ってる。観覧車の中で見た、苦い顔なんてものは何処にも無い。今の圭はただひたすら、戸惑っているだけなんだ。
今のわたしなら、なにをしても許される。
首に絡めていた腕を離し、圭の頬に両手で触れた。にっこりと微笑むと、危険なものを察知したのか、圭が顔を後ろに逸らそうとした。
でも、逃げられない。
圭の身体は、わたしのベッドを背もたれにしている。これ以上、後ろになんて逃げる隙間はもう、どこにもないのです。ふふ。
遠慮なく近寄ったわたしに、圭があっさりと捕食されてしまった。
柔らかさを堪能するように、ゆっくりと唇を押し付けていく。少しだけ離れて、今度は固く閉じられた唇を、舌で右から左に滑らせた。
自分から触れたくてずっと我慢をしていたの。だから今は、最高に気分がいい。
圭の頬から力が抜けていくのがわかる。きつく締められていた唇が微かに空いて、その隙間にわたしがするりと入り込む。圭の腕が震えながら伸びてきて、わたしの身体を抱きしめた――――と、思っていた。
「絶対酔ってるだろ……!」
わたしの両肩を掴み、強引に自分の身体から引き剥がした。
温かい部屋の中なのに、隙間風がひゅう、と吹いたように、冷ややかな空気が2人の間を流れたような気分がした。
「圭……?」
「今日はもう終わりにした方がいい。今ならまだ意識があるし、鍵閉められるよな」
「帰っちゃうの………?」
あからさまに目を逸らして、圭が立ち上がった。
無言で靴を履き、玄関の扉を開ける。
「ごめん、流羽。帰るよ」
振り向かないまま、圭がぽつりと呟いた。
そのまま、暗い闇に消えるかのように、わたしの部屋を去っていった。
◆ ◇
どくりどくりと心臓が鳴っている。
ベッドの上に身を投げ出して、天井をぼんやりと見つめていた。蛍光灯が眩しすぎて、右手で軽く光を遮る。
身体中が脈打っている。アルコールの抜けきらない頭は、思ったよりも冷静だ。さっきの出来事を、一つ一つじっくりと思い返していた。
圭に、拒絶されてしまった。
わたしからのキスに、絡みつく腕に、拒否反応を示すかのように、慌てて圭は帰っていった。
もう、覚悟を決めてしまおうか。
もうすぐクリスマスがやって来る。それまでに―――この関係を終わらせよう。
90日には早いけど、もうお終いにしてあげる。その方が圭は嬉しいよね? 折角のクリスマス、どうせならわたしじゃなくて、サユさんと2人で過ごしていたいよね?
圭に掴まれた肩に視線を落とす。強い力でわたしを引き剥がしていったあの感触を、心でなぞる。どくりと、一際大きく心臓が跳ねた。
もういいよ。圭を開放してあげる。
笑顔でバイバイしてあげる。
別れた後は2人の邪魔はしないから。すっぱり諦めてあげるから。
だから、圭?
その前に、圭をわたしのものにしても、いいよね。
他の子とだってしてるんだから。
別れる直前までは、わたしが圭の彼女なんだから。
一度くらい………いいよね。
ねぇ、圭。
わたしと幼馴染で居ようと思わないでね。中学時代のような関係を、わたしに求めないでね。90日を終えたそのあとは………もうわたしとは、交わる事のない他人のままで、居させてね…………。
「ルウ、先週はありがと~~~っ!」
土曜の昼。バイトに行くと、非常にご機嫌なみぃ子が現れた。
「みぃ子、その様子だと上手く行ったんだね。よかった!」
「頑張ったわよ、あたし。ご飯の後、お泊りしてから彼女になっちゃった♪ ルウと一緒よね」
「一緒のようで一緒じゃない気がするけど、それ……!」
全くの別物としか思えない。
さすがみぃ子、わたしと違ってやる子……!
やる子のみぃ子なら……
わたしの頭では思い付けないような、素敵な攻略法、教えてくれるかな?
「どーしたのよ、ルウ。そういえば今日も声、暗くない? なんかあった? 彼氏クンとなにかあったの?」
「ううん、なんにもないよ。……なんにもないから、みぃ子に聞きたいの」
「へっ?なになになに?」
「その気のない相手をその気にさせるには……どうすればいいのかなぁ?」
◆ ◇
なんでもないフリをするのは、もう慣れた。
初めてのキスの後も。観覧車で泣いた後も。圭に嘘をついた後だって、少しの冷却期間を挟めば、わたしは普段通りに振る舞えたんだ。だからきっと、今回だって大丈夫。
通い慣れた家の前までやってきた。
チャイムを鳴らすと、躊躇うようにゆっくりと扉が開く。わたしの姿を捉えて、圭が申し訳なさそうな顔をした。
わたしは素知らぬフリをして、にっこりと笑顔を作る。
「土鍋返しに来たよ、昨日置いて行ったままだったよね」
「あ……ごめん、持って帰るの忘れてた」
「あがるね」
「ん、うん」
圭は今、警戒してる。
可哀相に怯えてる。わたしに迫られるのが怖いんだ。受け入れたくはないけれど、拒絶して気まずくなるのも避けたいんだ。
最初は、わたしとキスしたくないのかと思ってた。
でもそんなのおかしいよね。だって今までに何度も同じ様な事を、圭はわたしにしてきたんだから。キスだってハグだって、自分からは平気な顔してやっといて、わたしから仕掛けると逃げ出すなんて、おかしいんだよね。
ねぇ、圭?
お酒の勢いに任せて、キス以上の事を迫られるとでも思ってた?
90日を終えた後、元通りの関係に戻るために。都合の良い存在に、わたしを据え置くために。ラインを飛び越えようとするわたしを、あなたは警戒していたのかな?
笑っちゃう。圭の思い通りになんて、わたしはなってあげられない。
決めたの。
とびっきりの夢の締めくくりと決別の為に、わたしは圭に抱かれてやる。
「あのね、明日はバイトお休みなんだ。一緒にクリスマスプレゼントでも見に行こうよ。そういえばオルゴールのお返し、何もしてなかったよね。圭の欲しいもの贈らせて」
「いや、いいよ。おれの欲しいものもたぶん売ってないから」
「えぇ、それわたしのマネ?」
ぎこちない圭に、普段通り明るく振舞ってみせた。昨日の出来事なんて、何もなかったかのようにケロリと接していると、圭も態度が軟化したようで、くすりと笑いだした。
「クリスマスプレゼントはさておき、たまには街をぶらつきに行くのもいいかもな。そういうデート、流羽とはしてなかったし」
「………うん!」
圭と最後のデート。
今のわたしにはピッタリな場所だ。クリスマスを控えてざわめく街に、昨日の出来事が薄まってしまえばいい。
なんでもない顔をして。明るく、楽しく、いつも通りのわたし達で居よう。
圭の中で渦巻く警戒心が、跡形もなく吹き飛んでしまえるように。
クリスマスまではまだ少し、日が残ってる。
わたしはあと数日、圭との最後の時間を楽しむ事にした。穏やかに過ごして、そうして圭のガードを、再び緩めてしまおうと考えた。




