この日々は
圭との関係を壊して、90日を終わらせよう。
密かに決意はしたものの、今すぐ実行に移す勇気なんて出ては来なくって。タイムリミットまでの束の間に、わたしは未だしがみついていた。
あと2週間。
今日は木曜日。バイトの日。
圭のおうちには行かない日。圭が、わたしのご飯を食べない日。
「もうすぐクリスマスだな」
「そうだね」
暗い川べりを歩きながら、2人で他愛もないお喋りをする。なんでもない、バイト帰りのいつもの道。
「プレゼント、なにかリクエストある?」
「え?」
「今年のクリスマスは平日だから、次の土日にでも街に出て、一緒に見に行く……?」
「プレゼントならもう貰ってるよ。ほら、なんかの記念のやつ」
「あれは……クリスマスプレゼントとは違うだろ」
「でも、わたしの欲しいものはたぶん売ってない……」
繋いだ手のひらを、思わずぎゅっと握りしめた。
わたしが欲しいものは、この手。
圭と過ごす毎日が、これからも続いて欲しいだけ。それが手に入らないのなら……
思い出の品なんて、一つあれば十分なんだよ。
微妙な沈黙の後、圭が口を開いた。
「24日は、木曜だしバイトだよな?」
「うん、シフト入ってる」
「じゃあ25日、予約入れとくから一緒に食事しに行こうか」
「う?うん」
クリスマスディナー、か。
恋人同士のクリスマス。甘い甘いクリスマス。
………わたしと過ごしてくれるの?
栗色の髪が、ふわりとわたしの中で舞う。
チラリとよぎったものに、見えないフリをして蓋をした。
「そういえば、明日の夕飯だけど………」
「リクエスト? なんでも好きなの言ってよ」
もしかしてまたラーメン? それとも今度は牛丼屋?
もうなんでも言っちゃって。
「鍋がいいな」
圭の一言に、心臓がどくりと跳ねた。
鍋といえば土鍋を使う。そんなの、わたしは持ってない。
という事はつまり、サユさんの……あの土鍋を使うのかぁ。
なんか、ラーメンの方がマシだったな。
「寒いし、あったまりそうだね」
「だろ? 明日、授業終えたら一緒に買い物行こう」
一緒に買い物……
そこだけはラーメンよりいいな、うん!
圭と二人で夜道を歩く。
気付けば、心地よい時は終わりを告げていた。見慣れた扉の前に、わたし達は辿り着いていた。
「じゃ、帰るよ。また明日」
「うん……今日もありがとう。圭も気をつけてね」
ここで、サヨウナラ…か。
圭が踵を返す。黒い背中を、名残惜しげに見つめてしまう。手を伸ばしかけて、はっとして腕を引っ込めた。
今ここで、圭の胸に飛び込んで、しがみつくように抱き着きいてしまいたい。
唇を、塞いでしまいたい。
火曜。水曜。そして今日は木曜日。
3日間。たったの3日間、抱擁とキスをしていないだけなのに、どうしてわたしはこんなにも飢えた心地でいるのだろう。
2週間後には3日じゃ済まないのにね。
まるで麻薬のようだ。圭断ちが無事出来るのかどうか、今から不安になってきた。
◆ ◇
金曜日はお互い5限で授業を終えた。
辺りは薄暗くなっていた。
一人だと心細く感じるけれど、今は圭が隣に居る。スーパーまでの道のりを、2人で安心しながら歩いていく。
圭と一緒なら、スーパーだって楽しいお出かけの場所になる。
季節柄という事もあり、メインの一角に鍋のコーナーが出来ていた。様々な種類のつゆが売っている。2人であれこれ悩んだ挙句、無難に寄せ鍋を選んでみた。中に入れる具材は、それぞれが好きなものをカゴに放り込む。
肉も魚も混ざってるし。なんでもありになってるな。
それもまた、楽しい。
お酒とお菓子類も買い、ちょっとした鍋パーティぽくなってきた。
ホクホクしながらレジを通る。
「今日は久しぶりに、流羽の家行くか」
「あれ、圭の部屋じゃないんだ?」
「だって酒飲んだら、流羽歩けなくなるだろ? だったら流羽の家の方がいいだろ。それとも……おれの部屋の方がいい?」
「別に、わたしの部屋で構わないけど……」
お酒飲んだら、また寝ちゃうのかなぁ。
今日こそ平気でいたいんだけど。
………あれ?
わたしが寝ちゃうと、結局圭も泊っていく羽目になるから、どっちの家でも一緒なんじゃあ……
どくりと心臓が跳ねる。
あぁ、本当に嫌な女になっちゃった。わたしは今、圭を疑っている。部屋に入るとまずいものがあるんじゃないか、なんて思ってしまってる。
そんな訳ないのにね。どうしてわたしはこんなにも、何でもかんでも疑っているんだろう。
ガチャリと無機質な音がして、わたしの部屋の扉が開いた。
「家から土鍋取ってくる」
「うん、野菜切って準備しておくよ」
久し振りに、圭がこの部屋にやって来る。
◆ ◇
寒い冬の夜に、温かいコタツに入りながら鍋をつつく。なんでもない冬の、ありふれた夕食の光景。
ふぅふぅと息を吹きかけて、湯気の立つ具材を口に放り込む。アツアツの鍋に、心まであったかい気持ちになれるのは、1人きりの食事じゃないからだ。隣で同じように食べている圭の姿に、わたしの顔には笑顔が宿る。
「鍋つゆ、種類めちゃくちゃ多かったな」
「年々増えてる気がする。トマト鍋とかコーンポタージュ鍋とか、昔はなかったよね」
「ほんとに美味いの?って驚くようなもの増えたよな。今度は豚骨とか白湯とかにして、締めにラーメン入れて食べたいな」
「じゃあ次は、ラーメンに合う鍋作ろっか」
次は………
自分の言葉に頭が冷える。心の中で指を折った。
あと何回、こうして一緒に食べられる?
来週は、火曜と木曜はバイト。金曜はクリスマス。その頃には、大学も冬期休暇に入ってる。バイトとの兼ね合いもあるけれど、ぼちぼち帰省も視野にいれないと……。
「……て、また鍋するなら、土鍋買わないと」
「ん? 土鍋ならこれ使えばいいじゃん」
「これって圭の、なの?」
「おれのじゃなければ誰の鍋なんだよ。先週末、買いに行ったんだよ」
「あ、そうなんだ……」
あの子の土鍋かと思ってた……。
借り物じゃなかったのか。
ほんの少しだけ、心のつっかえが取れた。
「今日は、わたしが後片付けするね!」
素早く立ち上がり、圭の肩に軽く手をかけた。戸惑いの表情を浮かべながら、圭が浮かせかけた腰を下ろす。洗い物を始めていたら、座っていた筈の圭がなぜか側にやってきた。
「わたしがするよ?」
「いや、流羽が片付けている間に、飲む準備でもしておこうと思って」
「そう……ありがと」
冷蔵庫からチーズやサラミを取り出して、皿に並べている。
お菓子類も袋から開け、別の皿に盛りだした。
「流羽は酒に氷、いる?」
「欲しい! ……て、待って。まだ待って。お酒飲む前にわたしちょっと……お風呂、入っておく!」
「……え?」
小首を傾げた圭を放置して、わたしは急いでバスルームへと向かうのだった。
わたしだって、何もかも成長してない訳じゃない。
ちゃんと学んでいるのだ。飲むと寝る。飲むと次の日になっている。だから今日はちゃんと、シャワーを浴びてパジャマに着替えておくことにする。
あぁ、ここが自分の部屋で良かった……。
お酒を飲む準備を万端に済ませ、洗面所の扉を開けると、聞き覚えのあるメロディが耳を掠めてきた。
パッヘルベルのカノン。
あれは……あれは、圭に貰ったオルゴールの音色だ……。
扉の陰に隠れるようにして、部屋の様子を窺った。チェストの上に飾られているオルゴールを、圭が切なそうな顔をして見つめていた。
「あと、2週間、か」
ポツリとした呟きが、辛うじてわたしの耳に届く。
ドキリとした。あと2週間。この関係の、タイムリミットまでの残り期間だ。
「その前にクリスマスか―――」
ふぅ、と、軽くため息を吐いたように見えた。
憂いでいる表情に、わたしの胸がつきりと痛む。
………サユさん………。
「クリスマス……ほんとは、わたしじゃない子と過ごしたい?」
わたしの呟きはとてもとても小さくて。自分の耳にすら断片的にしか届きはしなかった。




