緩やかに
なんでもない顔を作るのが、だいぶ上手くなったと自分でも思う。
見ないふり、気付かないふり、知らないふりをしてわたしはただ、楽しい事だけに目を向ける。
圭が洗い物をしてくれるようになった。お茶も淹れてくれるようになった。わたしがバイトでここに来れない日の分の夕食を、用意しておかなくてもいいと言うようになった。
わたしが圭にしてあげられる事が減っていく。
それはもうすぐやってくる、タイムリミットを意識しているかのようだった。
日曜に、約束していた水族館にも行ってきた。
この日も雨が降っていたので、丁度いい場所の選択となっていた。
イルカショーやペンギンのフィーデングタイムなど、ここでもやっぱり2人で楽しめた。圭と過ごす毎日は、どこに居ても楽しい。こうしてデートをするのも楽しいし、部屋で過ごすのだって、心地よい。
蛇口から流れる水のように、するすると時間が過ぎていく。
観覧車での気まずさが尾を引いているのか、キスの回数はぐっと減っていた。
抱き寄せられるついでに、頬に軽く触れられる事が多い。唇へは、時折ためらいがちに重ねられる程度になっていた。
わたしも、どんな顔をしてよいか分からなくてホッとするような、でもどこか残念なような、微妙な気持ちになってくる。目を伏せて圭を受け止めてみるけれど、軽く触れた後はすぐに体を離されるので、実は気を使う必要は無いのかも。
わたしからは、なにも行動に移せない。
圭の温かそうな胸元に、頼もしそうな背中に、顔を埋めてみたいと何度思ったか分からない。彼女である今だけはそれが許されている筈なのに、この想いが伝わってしまいそうで、怖くて腕が伸ばせない。
抱き寄せて貰うのをひたすら待っているだけで、願いが叶ったその後は、ただひたすら鼓動が伝わらないように、籠もった熱を逃すだけ。
「今週末は、お出かけ出来なさそう」
「バイト忙しい?」
「うん。土曜は一日だし、日曜も昼の方だから……空くの、夕方からだし」
「そっか……。まぁ、そういう週もあるか」
あと3週間。
あと……一緒に過ごせる週末は、3回だけ。
何をして過ごすのか、よく考えておかなくちゃ。
圭が洗い物を済ませ、わたしの背後に座り、抱え込む様にして抱きしめてきた。耳元をくすぐる温かな息遣いに、テレビに集中出来なくなってくる。
「ひゃあ!」
圭の唇が耳に触れ、頬を掠め、首筋へと降りてきた。くすぐったさに変な声が漏れ、思わず肩を竦めると、背後の圭までピクリと反応し、わたしから離れていく。
最近はずっと、こんな感じだ。
軽い触れ合い。キスとハグはするものの、それ以上の事を圭は決してしてこない。それはきっと、圭なりの『線引き』なのだとわたしは思う。
これ以上は越えちゃいけない最終線。この関係が終わった後、再びただの幼馴染に戻るためにも、圭にとっては守るべきラインとなっているのだろう。
うん。たぶん、そのつもり。
恐らく圭はわたしを、居心地の良いインターバルの関係に戻すつもりでいる。
90日を終えた後、わたしには再び中学時代が訪れるのだ。
合鍵は渡していないものの、家の場所だって知られてる。本命の彼女と、仮に上手く行かなくて別れたその時は、次に付き合う子が現れるまでの間、またわたしの側でのんびりと過ごすつもりでいるに違いない。
あの頃のように………
「ねぇ、圭」
「なに、流羽」
「この前見かけたあの派手な箱、なに?」
「なんでもないから、流羽は気にしなくていい」
素っ気なく言い放ち、圭はそのまま黙り込んだ。
ねぇ、圭。
わたしあの時、見えちゃったんだよ?
フィルムの剥がされたパッケージ。その裏側には、「男性用避妊具」という文字が書かれてた。
そうだよね。
何人も彼女いたもんね。そういう事してない訳ないよね………。
知りたくもない現実を、わたしはまた一つ、突きつけられた気分がした。
◆ ◇
心臓が、軋む。
まただ……。
金曜日。いつものように、夕食を作りに圭の部屋までやってきた。帰りに買い物をしたせいか、圭の方が先に部屋に着いていた。
真面目な顔でレポートに取り組んでいる。その横顔は、やっぱり見惚れてしまうほど、カッコいい。
スーパーの袋を手に、部屋の中へと入っていく。わたしの姿を捕らえた後、目を細めて穏やかに圭が微笑んだ。慈しむような眼差しに、不覚にもどきりとしてしまう。圭の笑顔はいつも心臓に悪いのだ。
誤魔化すように流しへと向かう。
あれ、と思った。
包丁がまた、小物入れに立てかけられている。
鍋類の位置が、おかしい。最近はずっと圭が洗い物をしてるけど、それでも料理をしているのはこのわたしなのだ。
おかしい事くらいすぐに分かる。水曜に使ったフライパンが戸棚の中に仕舞われていて、使ってもいない両手鍋が洗いかごの中に納まっているのだ。
どきどきと胸が鳴り始めた。
わたしじゃない子が、ここで鍋を使っている………。
「今日の夕飯は、なに?」
はっとして、現実に引き戻された。
「カレイの煮つけ。煮魚は初めて作るから、美味しくなかったらゴメンね」
「おれも何か手伝おうか?」
「ううん、レポートの続きしてて。わたしも初挑戦だから、人に指示できるほど慣れていないんだ。レシピ見ながら地道に頑張るよ」
「そっか。ありがとう」
良かった、なんとか笑うことが出来た。
本当にわたしは誤魔化すことが上手くなったなと、自分で自分に感心する。
「ん……美味しい」
「ありがと」
まぁまぁの出来栄えだと思うけど、圭は美味しいと言ってくれた。
お世辞がすらりと言えるようになっている。圭は成長してるんだ。本当に、次の子とは続ける気なんだなぁ……。
沈んだ気持ちを紛らわせるように、テレビのボタンを押してみた。笑い声が流れて来て、わたしはぼんやりとそれを眺めながらご飯を食べる。
「初めてでここまで作れるなんて、すごいな」
「そんな事ないよ。料理って、誰でも出来るんだって。やるかやらないかの差だって冬くんが言ってたよ?」
「………冬くん?」
気のせいか、圭の言葉が鋭くなった。
気のせいかな。
「うん、冬くんは料理のプロ目指してるの。わたしも何度かアドバイス貰ってて……」
「これも、そいつに聞いたの?」
「ううん、今回のレシピはネットで見つけたよ……買い物中に献立決めたから。安かったんだ、カラスガレイ」
「そう――――」
そこまで言い、ふっつりと圭が黙り込む。
そのまま黙々と食べ終えた後、圭が洗い物をし始めた。
適量の洗剤をスポンジに染み込ませ、程よい水量を蛇口からひねり出し、適度な力加減で食器を表も裏も、丁寧に洗っている。泡を綺麗に流し終えた後、洗いかごに食器を並べていった。
確実にレベルアップしてる……
「あのさ、流羽。日曜、バイトは昼間だけ?」
「うん」
感心しながら眺めていたら、圭がわたしに声を掛けた。
「じゃあ、終わったら来て」
「うん……行くよ?」
聞かれなくても、行くよ?
バイトがある日以外は、夕飯作りに来てるじゃない。
「なにも持ってこなくていいから。手ぶらで、来て」
「ん? うん、分かった」
よく分からないけど……
手土産はいらないってことかな?
持ってきた事、ないけど……。
圭の声が妙に真剣で。
わたしは訝しく思いながらも、ただ頷いていた。




