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わたしの90


 流羽(るう)がおれの部屋で夕食を作るようになった。


 いつの間にかおれの家のキッチンに、見慣れない調理器具が並んでいる。流羽が持ち込んできたようだ。一度も使った事のない炊飯器からは湯気が立っていて、洗いかごの中には2人分の食器がおさめられている。流羽がバイトの日に冷蔵庫を開けると、昨夜の残り物が入っていた。


 授業を終え家に帰ると、夕飯の準備をしながら流羽が「おかえり」と言ってくれる。

 なんだ、この夢のような状況は……。


 今日もおかえりと言って、流羽がにっこりとおれに笑いかけてくれた。流羽の背中越しにキッチンを覗くと、お味噌汁の匂いが漂ってくる。

 思わず頬をつねってみた。痛い、夢じゃない。


 あの時の寂しげな表情は、おれの見間違いだったのかな……


 ホッとして荷物を床に置き、お玉を持った流羽を背中から抱きしめる。


「圭? お腹空いてるの?」

「うん、からっぽ」


 屈みこんで流羽の首筋に顔を(うず)め、流羽成分を補充する。満たされてきた頃に、流羽がくすぐったそうな声を上げた。


「圭、圭。離れてくれなきゃ焼けないよ。お腹空いてるんでしょ?」

「今日は何?」

「ぶりの照り焼き、和食にも挑戦してみようと思って……」


 その、美味しくないかも知れないけど、と自信のなさそうな声で流羽がぼそぼそと呟いた。

 

 どうやら流羽は、料理の腕にはあまり自信がないようだ。気にすることないのにな。壊滅的ならともかく、おれの為に作ってくれたというだけで、美味しく感じてしまうんだけど。


 そう、流羽はおれの為におれの部屋で、夕食を作るようになったのだ。


 これって、わりと好かれてると思っていいんだよ…な?

 流羽だって、おれの事何とも思ってないのなら、ここに来て料理なんてしないよな。昔のおれが、暑い夏の日に彼女を家まで送ってやらなかったように、好きでもないヤツの為に何かをしようなんて、普通は思わない。


 朔太の言葉がチラついて、沈んでいたけれど、やっぱりあんなの過去の出来事だよな……。


「明日だけど、9時に駅で待ち合わせしようか」

「うん、楽しみにしてるね」

「おれも。晴れるといいな」


 流羽が憧れだという観覧車。

 

 そこで、思い切って告白してしまおうか。


 雰囲気はいいんだ。客観的に見れば、もうおれ達は普通のカップルのようじゃないかと思う。お互いの部屋に出入りして、彼女の作る夕飯を一緒に食べて、手を繋いで歩いて、抱きしめてキスをして。


 流羽だって不満はなさそうだ。だから、こんな毎日をこれからもずっと続けたいという話をしても、記憶を飛ばされたあの日のように、意外とすんなりオッケーして貰えるかも……。


「ん……」


 夕食を終え、おれの隣にやってきた流羽の肩に腕を回す。引き寄せて、ぷっくりとした唇に吸い付いた。

 とろりとした流羽の眼差しに刺激され、少し空いた隙間から舌をねじ込み、口腔内を蹂躙する。歯列をなぞり、流羽の舌を絡め取っているうちに理性が飛びそうになり、慌てて身を引いた。


 これ以上は、マズイ。


 告白を前にして、うかつな事をして嫌われる訳にはいかない。


 

 トイレに行くフリをして立ち上がる。戻ったら流羽はテレビを見て笑っていて、おれもその隣で笑いながら、明日の戦略に思考を巡らせていた。


 


 ◆ ◇

 


 

 息が、止まるかと思った。


 夕食後、いつものように圭の唇がやってきた。幾度となく重ねられるそれは、それなりに慣れてきたとはいえ、やっぱりまだまだドキドキする。圭の感触に頭をぼんやりさせていると、唇の隙間から、突然ぬるりとしたものがわたしの中に侵入した。


 それが圭の舌だと認識するのに、少し間が空いた。一瞬何が起きたのか理解出来なかったのだ。だってこんなキス、わたしは知らない……


 唇が柔らかくて優しいものだとしたら、それは力強くて激しいものだった。普段の圭からは想像できないような動きに、わたしの知らない圭の姿を垣間見たようで酷く戸惑っていた。


 わたしの舌に、圭の舌が触れてくる。

 びっくりして奥に逃げたら、追いかけてきた。捉えられて、わたしは絡め取られてしまう。呼吸が上手く出来なくて苦しくて、でもそれ以上に胸が苦しくて、圭を感じすぎて鼓動が、きつい。


 口から心臓飛び出そう……


 ノックダウン寸前で、圭の身体がわたしから離れた。すっかり茹で上がるわたしとは違い、圭は涼しい顔をして中座する。そのなんでもないような様子に、熱くなった身体が頭から一気に冷やされた。


 あんなに凄いキスをしても、圭は普段と変わらない。それはつまり、今まで沢山の女の子達とああいうことをしてきたって事で……。


 泣きたい気持ちに襲われた。


 紛らわすようにテレビをつける。どうにかして気分を上向かせたくて、笑えそうな番組を選んだ。げらげらと、画面の向こうで沸く声が耳鳴りのように響いてくる。


「そろそろ帰ろうかな」

「もう……帰るの?」

「今日は早く帰って早く寝ないとね。明日が楽しめなくなっちゃう」

「それもそうか。じゃあ送るよ」


 暗い夜道を、手を繋いで歩いた。

 温かい手は、今はわたしのものだけど……今だけはわたしのものだけど。



 わたしとの3ヵ月を終えた後、圭はまた別の子と、あんなキスをするのだろうか。


 わたしは、知っているようで知らなかった。分かっているつもりで理解出来ていなかった。圭に彼女がいるという事が、どういうことなのか。その子達と、どういう事をしてるのか。


 境界線の外側から眺めているだけの頃は気づかなかった。圭が彼女達とこんなキスをしていたことも。あの甘い眼差しも。温かくて心地の良い抱擁も。首筋に埋められる圭のくすぐったい感触も。

 或いはわたしは、深く考えないようにしていたのだろうか。傷つきたくなくて、見ないふりをして、心に膜を張りつめて。



 こんな世界は、知らない方が良かった。

 

 


 

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