変えるため
観覧車は、来週までお預けになった。
土日ともバイトの予定が入っていたし、寝込んでいた間に出されたレポート類で、圭も忙しかったからだ。
病み上がりに無理をするのも良くない、と思い直し、週末は圭の部屋でのんびりと過ごす事にした。
正確には、レポートに勤しむ圭の横で、わたし1人がのんびりとして過ごしていた。
バイトのシフトはどちらも昼の部だったので、夕方には荷物を持って圭の部屋に行き、携帯を眺める振りをして、課題に取り組む圭をちらちらと眺めてた。珍しくも真面目な圭の姿に、つい、見とれてしまう。
真剣な眼差しは、いつもよりずっと格好良く見えた。
圭の優しい表情は大好きだし、甘い視線にもくらりとくるけれど、こうやって何かに打ち込む姿は格別だなぁ……。
「なに、じっと見て」
圭がふっとわたしの方を向いた。
視線がぶつかって、真剣だった圭の瞳が、一瞬で甘い眼差しに変化する。顔が熱くなって、慌てて適当な言い訳を探した。
「難しそうな事やってるな~って思ってさ」
「ああ、暇だった? ごめん、昨日も今日もずっとおれ、課題ばっかりで」
「ううん、いいのいいの! わたしそろそろ、夕飯作ってくるから!」
立ち上がりかけたわたしの肩に、圭の手が触れる。
もう一度圭の顔を見ると、一層甘やかに揺れた瞳が近づいて、わたしの唇を塞いできた。
息が、止まりそうになる。
「ありがと、助かる」
甘い笑顔を見せられて、どきりとする。
「………無理、しないでね」
「ん……もう少しで終わりそうだから」
再び圭の顔が近づいてきた。わたしの下唇をからかうように数度ついばんだ後、唇同士がしっかりと重なっていく。圭の匂いと柔らかな感触に、意識がとろりと溶けそうになる。
唇が離れて、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた圭を見て、真っ赤になって顔を背けた。今度こそ圭から離れ、キッチンへと向かう。
冷蔵庫の前で唇をペロリと舐めて。
これは本当に甘い夢だなぁと、わたしは思わずにはいられなかった。
◆ ◇
キッチンから、シチューの匂いが漂ってきた。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋の中へ注いでいる。意外と真剣な流羽の横顔を眺めている内に、ちょっとした意地悪がしたくなってきた。ペンを机の上に置き、流羽の背中に近づいていく。
「きゃ、なに、圭?」
後ろから肩を抱くようにギュっと腕を回すと、鍋を掻き回すお玉の動きがピタリと止んだ。どうやら、思惑通り動揺してくれているようだ。おれはほくそ笑みながら、流羽の可愛い耳にキスをした。
「まだ? 待ちきれなくなってきた」
「もうすぐだから、ちょっと離れてよ、圭」
「もうすぐってどのくらい……?」
「お皿……お皿取りたいんだってば!」
これ以上やると怒らせそうなので、大人しく腕を離す。
どうやら出来上がりのようで、流羽はコンロの火を切った。おれは机の上に広げてあった課題類を急いで片付ける。
テーブルの上に、湯気の立つシチューの皿が2つ、並んだ。
「熱いから気を付けてね」
「言われなくても分かってるよ……流羽じゃあるまいし」
スプーンで少し掬い、軽く息を吹きかけ、そっと口に放り込む。
出来立てのシチューは熱々で、優しい味がした。
横目で流羽を見ると、涙目になりながら舌をぺろりと出している。思った通りだ。がっついたな、流羽め。
「お水! お水! お水!」
「水飲むんじゃなくて、流水に当てるんだよ。ほら、こっち」
流羽の腕を掴み、シンクに連れて行く。蛇口をひねって水を出した。流羽が顔を寄せ、舌をそっと流れに当てる。
「はひはほ」
舌っ足らずもいいところのお礼を言われ、流羽の頭をガシガシと掻き回す。ああもう、涙目で上目遣いとかするなよ、可愛すぎんだよそれ!
「今は何も喋らなくていいから」
「ははっは」
喋らなくていいと言ったのに。ほんと人の話聞いてないな、こいつ。
ようやく黙りだした流羽の、突き出された赤い舌をじっと眺めながら。この調子ならおれの期待する未来が手に入るかもしれない、なんて甘い夢を抱いていた。
あの日から、流羽の態度が変化した。
それまでの流羽からは、彼女のようでいて、その自覚がないような曖昧さを感じていた。中学時代のあの頃を彷彿とさせるそれは、ある意味居心地がよく、一方でもの足りない関係でもあった。
まぁ。彼女といっても、おれが強引に仕立て上げたものだからな。だから流羽の意識が追い付かないのも当然と言えるんだけど……。
冬くん、だっけ。
あの時は、流羽の態度の陰にアイツがチラついて、思わずあんな事をしたけれど―――
それで流羽との距離が近づいたのなら、結果オーライというべきか。
今のところ、流羽はおれを受け入れてくれている。抱きしめても、キスをしても嫌がらない。以前に、流羽にキスをしようとして止めておいた時のような、身構えた感じがなくなった。
おれの方から一方的に持ち掛けて始めたこの関係に、流羽も馴染んできたのだろうか。おれの事が少しは、好きになってくれたのだろうか。
『誰でもいい』から、『おれがいい』に変化する日が、近いといいのだけれど。
タイムリミットまで、もう2ヶ月を切っている。
今のところは順調だ。このまま、こうやって流羽の彼氏として側にいて、おれを意識させていこう。流羽のアドバイスに従って、流羽にとっての素敵な彼氏を目指してやる。
「終わった……」
レポートを終え、天井を眺めながら、両腕をピンと上にし伸びをした。はぁ、と大きく息をつき、開放感のある身体をばたりと机の上に落としにかかる。
横目で時計を見た。まだ、流羽はバイトの最中だ。
迎えに行こうかな……
今から急いでいけば、流羽の上がる時間に間に合いそうだ。
天気もいいし、久し振りに体を動かすのも良さそうだ。そうと決めたおれはすぐに準備をして、流羽の働くファミレスへと足を向けた。
「圭、来てくれたの?」
「やっとレポートが終わったんだよ。まだ明るいし、どこか行く?」
おれの姿を見て、一瞬だけ目を丸くした後、流羽が弾けるような笑顔を見せた。
「うんっ」
やった、喜んでくれている。
どこに連れて行こうか迷っていると、珍しく流羽からおれの手を取りだした。
そのまま、いつもの帰り道を歩いていく。拍子抜けしたまま手を引かれていると、流羽がはにかみながらおれの顔を見上げた。
「一度ね、一緒に歩いてみたかったんだ。ここ」
「ここって……いつもの帰り道に見えるんだけど……」
「そうだよ。こういう天気のいい日だと、水面がきらきらしていて綺麗でしょ? だからここの川沿いを、昼間に一緒に歩いてみたかったんだ」
「これも、彼氏としてみたかった事ってやつ?」
「うん! 一度、してみたかったの……」
元気よく言いながら、流羽が水面に目を遣った。川の水面は想像したよりも綺麗なもので、都会の川も捨てたもんじゃないな、なんて感心しながら流羽に視線をずらして、息を飲む。
川を見つめる流羽の横顔が、どこか寂しげに見えた。
なんだよ、その顔。
今おれと、夢叶えてんじゃないのかよ。
やってみたかった事をしている筈なのに、どうしてそんな顔してんだよ。もっと、嬉しそうにしていればいいのに。
ほんとうは、おれじゃなくて他のヤツとしたかった……?
『好きな人がいるんだってさ』
朔太の言葉が蘇る。
まさか、まだ忘れられていない、なんてことないよな。
あんなの高校時代の話だし、あれから4年は経っている。だからまさか、ほんとうはそいつと叶えたかった夢だなんて、言わないよな……。
どきりどきりと心臓が鳴る。
「次の土曜は休み入れたから、観覧車行こ」
「あ、ああ。うん、行こう……」
おれが、流羽を忘れたくて他の子と付き合って、結局好きになれず終えたように。
流羽も、そいつを忘れたくておれと付き合って、そして………
それ以上は考えたくなくて、首を振った。
それから家に帰るまで、おれは流羽の顔を見ることが出来なかった。




