愛おしいものに
おかゆの入った器は、いつの間にか空っぽになっていた。
どうやら快方に向かっているようだ。熱はまだ引かないものの、食欲は出てきた様でホッとする。
動く気力も出てきたようで、衣類を手にした圭が洗面所へと消えていく。ルームウェアに着替えた後、今度はラグではなくベッドの上に腰を下ろした。
圭からは汗ばんだような匂いがした。はっとして洗面所に行き、タオルを一枚水でぬらす。軽く絞ってからレンジにかけ、蒸しタオルに仕立ててから、圭にタオルを差し出した。
「身体拭く?」
「流羽が拭いてくれるの?」
「ち、違うっ! それはセルフサービスですっ!」
「……っ。背中だけでいいから、お願い」
今、くすりと笑ったな……!
随分と余裕が出てきたようで、からかうような笑みをわたしに向けてくる。着たばかりのスウェットを脱ぎ、しなやかな身体を剥き出しにした。
せ、背中だけなら仕方ない……。
渋々、圭からタオルを受け取った。息を飲みながら、広い背中に近寄っていく。
「ん~、気持ちいいな。さっぱりする」
「……そう?」
圭の引き締まった肌の上にタオルを滑らせていく。視線を背中から軽く逸らし、それでもドキドキが治まらない。鼓動が早くて、顔に熱が灯る。
「なんか、元気になってきたね」
「昨日に比べたらずっと気分がいいな。流羽のお陰かな」
軽口を叩けるくらいには、復活したみたい。
「ねえ、今夜は側にいた方がいい……?」
「え…………?」
圭が振り返って、わたしの顔を見た。
目がぱっちりと見開いている。唇がパクパクと動いて、何かを言いかけている。
やば、なに言ってんのわたし。
昨日よりマシになったって言ってんのに、なんで帰らないのって話だよね!
「あ、良くなってきたみたいだし、もう必要ないかな?」
焦って両手を左右に振ったわたしに、圭が言葉を被せてきた。
「ううん、まだしんどい。熱引いてないし……」
そう言ってわたしを見つめる圭の瞳は、心なしか潤んでいる。
そういえば、7度8分あるんだっけ。
まだ高いな。夜になったら熱上がるかもしれないし……今は小康状態なの、かな?
「流羽がいいなら、ここにいて………」
か細い声で圭がぽつりと呟いた。
まだ本調子じゃないようだ。心細いのか、圭がわたしをギュッと抱きしめてきた。
って。待って待って。圭、今、上半身裸なんだから……!
わたしの心臓を打ち壊しにかからないで!
「わ、分かった、今日は泊ってくから、だからお願いちょっと離して。泊まるならわたし、シャワー浴びてくる!」
「ん………」
「圭も身体、拭いておくんだよ!」
言い捨てて、慌ててトートバッグを抱え、バスルームに駆け込んだ。
◆ ◇
「えっ……」
シャワーを浴びて部屋に戻ると、圭が再びラグの上で転がっていた。
午後にまとまって眠れたせいか、目は冴えているようだ。絶句したわたしをじっと見つめている。
「ちょっと、なんでそんなところで寝てるのよ。お布団も掛けないで、風邪ひいちゃうじゃない」
「もう引いてるし」
「そうだけどっ! もうもうもうっ、そうじゃなくて、どーしてベッドで寝てないのよー!」
だるそうに横たわる圭の腕を、引っ張り上げる。
けれどやっぱりびくともしない。くぅ!
「流羽、今晩泊ってくんだろ?」
「……うん」
「なら、ベッドは流羽が使いなよ」
「…………」
素っ気なく言って、圭がふいと顔を逸らした。
あのさ圭。わたし、圭の体調を悪化させる為に泊まりたいんじゃないからね?
「……なにやってんだよ」
「圭がここで寝るなら、わたしもここで寝る」
なにやってんだよ、は、そっちだよ。
むっとして、ベッドから掛布団を引きずって、圭の身体に掛けてやった。
その横にわたしも潜り込む。ぴったりと寄り添った圭の身体は、やっぱり普段よりもずっと、熱い。
「……おれの風邪うつるぞ」
「うつってもいいよ、圭に看病してもらうから」
「おれ、おかゆなんて作れないけど……」
「そんなの、レトルトでいいよ」
くすくすと笑いながら動こうとしないわたしに、圭も諦めたようだ。しばらく黙りこくった後、大きなため息をついてから、観念したようにベッドへ移動した。
わたしに負けたようで悔しいのか、壁の方を向いたまま、ベッドの端にごろりと横たわっている。わたしは得意げな顔をして、掛布団ごと圭の横に移動した。
「ねえ、怒ってる?」
「別に、怒ってない」
「じゃあ、なんでそっち向いてんの?」
「別に、壁の模様眺めてるだけだし」
もしかして拗ねてる……?
広い背中がなんだか可愛く見えてきて、後ろからぎゅっと抱きしめてみた。やっぱり熱い、圭の身体。
わたしから圭を抱きしめるのは、これが初めてだった。本当はこうして、圭の身体にしがみついてみたかった。叶わない夢だと諦めていた圭が、今だけはわたしの腕の中に居る。
鼻先を掠める圭の匂いに、胸いっぱいに満たされた気持ちになっていく。
ずっとこうしていたいな……。
「……だからなにやってんだよ」
「彼氏が出来たら一度やってみたかったの。後ろからぎゅーってやつ」
「……ふーん」
「せっかくだから、一度やってみたかったもの、色々試してみようかなー」
「他に何があんの……?」
「えっとね、観覧車に乗ってみたい! カップルの定番ってかんじで憧れちゃうな~…って、インドアの圭的には遊園地とか、行くのダルい?」
「いや、いいよ。行くよ。今度、一緒に行こうか」
「うん、じゃあ、約束……」
圭の温もりを感じながら。
他愛もないお喋りをしているうちに、わたし達は眠りについた。
後ろからのハグも。観覧車も、こうして一緒に穏やかな眠りにつく事も。どれもこれもわたしはずっと……
圭と一緒に、一度やってみたかったんだ。
◆ ◇
翌朝、圭はすっかり元気になっていた。
目が覚めると、あの日のように圭の腕がわたしのお腹に巻き付いている。あれ、おかしいな。わたしが圭を抱きしめながら寝ていた筈なのに。
うん?と首を傾げていると、覚醒しかけた圭がわたしの首筋に顔をぐりぐりと押し付けてくる。
毎度ながらくすぐったいんだけど、それ!
目を覚ました圭が、すぅっと無表情になって、それから目を見開いて、首を傾げたままのわたしをまじまじと見つめながら、呟いた。
「……ちゃんと覚えてる?」
「へっ!? 昨日はお酒なんて飲んでないけど……」
「あ、ああ。うん、そうだった」
「なに、変な圭」
にこりと笑うと、圭はホッとしたような顔をして、今度はわたしを正面から抱きしめた。
悪い夢でも見ていたのかな?
それともまだ、具合が悪いのかな。もう、昨日ほど熱くはないけれど……。
おでこを触ってみたけれど、特別熱さは感じない。体温計で測ると、36度5分まで下がっていた。やった、熱引いてるや。
今日はどちらも2限からのスタートなので、一緒にモーニングを食べに行く。それから、久し振りに一緒に登校をした。
「お、元気そうじゃん、圭」
「カイさん!」
校門を通り抜けてすぐの所で、カイさんが声をかけてきた。軽い会釈だけで通り過ぎようとする圭の服を掴み、引き留める。
「昨日はありがとう! カイさんのお陰だよ」
「いや、俺は面倒な事ルウちゃんに押し付けただけだぜ」
カイさんは目を細め、優しげな笑顔をわたしに見せた。良かったなと言わんばかりに、わたしの頭をポンポンと優しく叩く。
どきりとする。
カイさんは本当にちゃんと分ってる。恐らくこの人は、わたしの圭への想いに気付いてる。
そんなの、彼女なら当たり前じゃない。
カイさんは、わたしを圭の彼女だと思ってるんだよ、だからそんな事、知ってて当然の事じゃない。なんて昔のわたしなら、きっと今のわたしを笑ってる。なに言ってるのって思ってる。
付き合うって、両想いの結果なのだと幼いわたしは信じてた。けれど圭の側にいて、圭の付き合い方を見てきた今のわたしには、そうとは限らないよと言えるようになっている。
特別好きじゃなくても、恋人にはなれるのだ。
ひとさじの好意さえあれば付き合える、そういう人も多いのだと思う。わたしは不器用だから、圭への想いを抱えたままそれが出来ずにいたけれど。
誰でもいいから彼氏が欲しかった。
そうして、圭の事を忘れたかった。
でも結局、圭以外の人とは付き合えないまま、今の状況になっている。圭の側にいる事が、触れ合う事が心地良すぎて、わたしは一生、圭を忘れられないんじゃないかと思ってる。
「……なに笑ってんだよ、流羽」
圭の手がわたしの手のひらに触れた。
厚みのある手のひらに、少し骨ばった長い指。繋ぎたては冷ややかで、次第に温もりを帯びてゆくこの大好きな手を、ずっと覚えていられるように。
繋がれた手に力を込める。
「さ、もう行こう!」
「うん」
忘れられないなら覚えていようかな。
年が明けて、約束の3カ月が終わりを迎えたその後も。
一人になっても。温かい気持ちでいられるように、わたしはこの手を握り返すのだった。




