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悲しい過去も

前半は流羽、後半は圭視点。


「もう、いい……かな?」


 あれから程なくして、圭は眠りについた。

 ラグの上だし。服着たままだし。ほんとは、パジャマにでも着替えてベッドの上で眠って欲しいけれど、しょうがない。

 わたしじゃ圭の身体は動かせない。

 

 左の手首には、力の抜けた圭の指が絡まっていた。

 起こさないよう、一本一本丁寧に指を剥がしていく。最後の一本を離した後、掛布団の上にそっと、その手を置いた。


「じゃあ、行ってくるね。ゆっくり寝てるんだよ……」


 合鍵を握り締め、圭の家を後にする。

 いつものスーパーで、冷却ジェルと卵とリンゴをカゴに入れた。ミネラルウォーターも放り込み、少し迷って、念のために経口補水液も追加しておいた。今後の事を考えると、こういうものを備えておいた方がいいかもしれない。


 一旦、圭の部屋に戻って荷物を放り込んでから、今度はわたしの部屋に寄る。


 お米。最低限の食器類とおかゆを作る為の鍋。お玉と、体温計も持っていこう。ついでに、わたしの着替えも……


『もう少しここに居て……』




 あんな言葉を、圭がわたしに言うとは思わなかった。


 よっぽど心細かったのかな。


 昨日の夜からずっと、ああして一人で苦しんでいたのかな。そんな時に、側に誰もいないなんて不安だよね……。


 昨日のうちに、来ておけばよかった。


 連絡が取れなくて、ずっとおかしいとは思っていた。それなのにわたしの中では、カイさんに言われるまで様子を見に行くという選択肢が現れては来なかった。


 合鍵を渡されていたのに。これはきっと、勝手に入っていいよって、おいでよって事だったはずなのに。こんなに、近い距離に住んでいるのに。


 サユさんの姿がちらついて、(ひる)んでいたのもあるとは思う。

 でもたぶん、それだけじゃない。


 わたしは、ここに来ることをなんとなく、避けていた。



 ……駄目だなぁ。

 彼女になってやるって、決めたのになぁ。


 わたしはまだ、覚悟が足りていなかったのか。



 トートバッグに、洗顔セットも放り込む。

 そりゃ、帰れって言われたら帰るけど。もしもそうじゃないのなら……


 せめて今夜は後悔しないように、準備だけはしておこう。

 



 夕方からバイトがある事を思い出した。

 木乃(この)ちゃんに電話をすると、わたしの代わりに入ってくれる事になった。バイト先にも電話をして、今日はお休みにして貰った。

 そういえば今日は結局、3限目の講義もサボったな。

 まぁたまには、こういう日もあるよね。



 膨れ上がった荷物を抱え、圭のアパートに戻る。

 ラグの上で、圭はじっと眠り続けていた。眠る前は荒かった息遣いが、今ではすっかり静かな寝息となっている。

 少しは、マシになってると良いな……


 買ったばかりの冷却ジェルを一枚取り出し、圭の額に張り付けた。冷やっこいのか、一瞬だけピクリと圭の眉が反応したけれど、再び安らかに眠り始めた。


 枕の脇にずり落ちていたタオルを、拾い上げて洗濯機に放り込む。

 お米を研いでセットして、卵とリンゴと、残りの冷却ジェルを冷蔵庫に放り込んだ後、もう一度圭の側へと近づいた。


 まだ、寝てる。


 紅潮した圭の頬に、そっと触れてみた。頬はひどく熱持っていて、段々とわたしの手のひらが熱くなってくる。


 圭の頬から手を離し、サラサラと流れ落ちる黒髪に手を伸ばした。

 優しいわたしは、圭のようにわしゃわしゃと掻き回したりなんてしないのだ。頭のてっぺんから耳に向けて、滑らかに頭を撫でていく。手触りの良さに、ずっとこうしていたくなる。


 心なしか、圭の表情が柔らかいものになっていて。


 わたしに頭を撫でられて、圭も気持ちいいのかな、なんて。

 ありえない想像をしながら、わたしはじっと、圭の寝顔を見つめ続けていた。




 ◆ ◇




 重い(まぶた)を、ゆっくりと持ち上げた。


 額の上にはいつの間にか、タオルの代わりにジェルシートが貼られている。ぷにぷにの感触を指先に感じていると、キッチンから温かい空気と共に、可愛い声が聞こえてきた。


「おはよ! 結構長い事眠ってたね。どう? ちょっとはマシになってきた?」

「……んー……」

「机の上に体温計置いておいたから、測っといて」


 身を起こすと、見覚えのない体温計が机の上に載っていた。脇に入れてじっとしていると、お盆を手にした流羽(るう)が、おれの側へとやってきた。

 ピピッ、と電子音が鳴る。


「37度8分」

「うーん、まだ高いなぁ。どう、なにか食べられそう?」

「どうだろ……」

「吐き気とかは?」

「それは、ない」

「じゃあ、少しでいいから食べて。ちゃんと食べないと治らないからねっ」


 目の前に、湯気の立った器が置かれた。

 卵入りのおかゆが入っている。クリーム色に緑の葉っぱが描かれた、少し深くて厚みのあるその器は、流羽の部屋で何度か出された事のあるものだった。

 涙が滲みそうになって、ぼんやりと、視界が歪みかける。


「そういえば、流羽、今日バイトじゃ……」

 

 時計を見ると、17時を回っていた。ベランダの外は既に薄暗くなっている。


木乃(この)ちゃんに頼んで、シフト代わって貰ったから大丈夫だよ。そういうの、気にしない!」

「ん………」

「それより、食べられる?」


 流羽が心配そうな顔をして、おれを見つめている。


 一緒に過ごす事はもう無いのだと、何度も諦めた流羽が今、おれの部屋にいる。

 おれの彼女として、おれの側にいる。


「熱いから、気を付けてね」

「ん……っ」


 ぼんやりしたまま動かないおれを見て、焦れたようだ。流羽がレンゲにおかゆを(すく)い、ふぅふぅと息を吹きかけて、おれの口元に差し出してきた。

 ぱくりと口に入れる。


 卵の優しい味がする、柔らかなおかゆ。ほんのりと塩味が効いている。


「おいしい……」


 流羽の、味がする。


「良かった、食べられそうだね」


 嬉しそうに笑って、流羽が再びレンゲにおかゆを掬う。温かいおかゆを口にしている内に、心の奥底まで温かい気持ちになってきた。パクパクと、運ばれるまま、おかゆを食べ続ける。


「圭、笑ってる」

「………?」

「ちょっと元気になってきたのかな」


 そう言って、流羽はもっと嬉しそうな顔をした。




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