苦しい気持ちも
おかしいな……。
2限目の講義を終えて、わたしはいつものように待ち合わせ場所へと向かっていた。
文系棟から外に出て、すぐ横にある花壇の前で、理系棟を眺めながら圭を待つ。けれど10分が過ぎ、20分が過ぎても、圭の姿は現れなかった。
電話をかけてみたけれど、やっぱり繋がらない。
昨日と同じだ。
昨夜、圭は夕飯を食べに来なかった。
いつもなら19時までにはうちにやって来るのに、20時になっても姿をみせない。不審に思い、電話をかけてみるも繋がらず、メッセージは既読がつかないままだ。
もしかして、………サユさんと居るの?
一人きりの部屋で、コタツの上に並べた夕食を眺めていると、昼間の出来事が嫌でも頭に浮かぶ。
あの時の圭は、どこか様子が変だった。
焦ったように、サユさんに駆け寄って、何かを必死で訴えていて――……
23時を過ぎても、やっぱり圭とは連絡が取れない。すっかり冷え切った夕食にラップをして、冷蔵庫に戻す。シャワーを浴びて、明かりを消してベッドに入った。
眠ろうとしたけれど……目を閉じると圭の姿がちらついて、離れない。
起き上がって明かりをつけ、再度携帯をチェックする。
やっぱり、音沙汰なしかぁ……。
ため息を1つついて、チェストに近寄った。圭に貰ったオルゴールを手に取り、台座を回して音を鳴らしてみる。
綺麗な音色―――
……圭だって、たまにはうちに来れない日だってあるよね。
友達と飲みに行ったり、ご飯に誘われたり、そういう日だってあるはずだよね。
連絡し忘れてるんだよね。携帯も見てなくて、わたしからの着信は、周囲の音が煩くて聞こえていないんだよね。うん、きっとそう。
明日の昼には、いつもの圭に会える。
―――なんて、思っていたのに。
昼休憩が半分過ぎ、それでも圭が来る気配はない。携帯も相変わらず無反応なままで、不安がどんどん広がっていく。
どこにいるのよ、圭。授業がまだ終わってないの? それにしては遅すぎるしおかしいよね。
なんでもいいから、せめて連絡くらいはしてよ……
花壇の植え込みに、ピンク色のビオラが咲いていた。可愛い花をじっと眺めながら圭の事をひたすら考えていると、頭をポンポンと叩かれた。
誰かの、大きな手。
「圭っ!? 遅いよ、今まで何してたの……」
心細いものが、安堵の色に塗り替えられていく。込み上げる嬉しさを隠すように、口元をキュッと引き結び顔を上げ、固まった。
って。圭じゃないし!
「ごめんごめん、肩よりも頭の方が丁度いい位置にあったんで、つい」
カラカラと笑いながら、わたしの頭から手を離す。プラチナホワイトの髪が日に当たり、透けて見えた。
カイさんだ。理系の彼が文系棟にいるなんて、珍しい。
「カイさん! 珍しいね、こっちに来るなんて。なにか用事?」
「決まってんだろ、ルウちゃんに会いに来たんだよ」
「あはは、そうなんだ。久し振りだねー」
カイさんはこんな冗談ばかり言ってくる。
圭とはまた違うベクトルで、女の子の扱いに慣れてるし上手いのだと思う。真に受けるなと圭は言うけれど、これが単なる軽口だという事くらい、わたしにだって解ってる。
カイさんのわたしを見る目は、どこまでも「圭の彼女」だ。この人はわたしをそういう風に扱っている。だから、カイさんと話をするのは心地いい。
他愛もないやり取りを交わした後、カイさんが笑顔を引っ込めた。少し神妙な顔をする。
あれ、ほんとにわたしに用だったの?
「なぁ、ルウちゃん。圭のやつ、やっぱり具合悪いの?」
「……へっ!?」
圭が、具合悪い?
そういえば昨日、圭の身体が熱かったような……
「あれ、もしかしてルウちゃん知らない? あいつ、午前の講義全然出てなくてさ。電話しても出ねーし、昨日様子が変だったから、ちょっと心配になってよ」
「その、圭とは昨日の夜からずっと、連絡が取れてなくて……」
「マジかよ……。ルウちゃん、圭ん家知ってるよね? 良かったら後で様子見に行ってやってよ」
カイさんの言葉に頭の中が真っ白になって。
わたしはそのまま、3限の講義をスルーして、圭の家へと向かうのだった。
◆ ◇
「やった、開いた……」
圭に渡された合鍵を差し込み、無事にドアが開いた瞬間、わたしはホッとして声を漏らしていた。
全ての始まりのあの日から、ずっとここには来ていなかった。夕食はわたしの部屋だし、バイト帰りは寄り道せずまっすぐ自宅まで送って貰っている。それ以外で会う時も、圭がうちに来てばかりだった。合鍵だって使うのはこれが初めてだ。
道、間違えてなくて良かった!
銀色の合鍵をキーケースにしまいこむ。圭から受け取った時は、必要ないと思っていたこの鍵。これが役に立つ日が来るなんて、あの時は思わなかった……。
くすりと笑いが漏れる。
「圭、いる?」
ドキドキしながら扉を開ける。玄関には、圭がいつも履いている、黒の大きな靴が乱雑に散らばっていた。
中にいるようなのに、返事はない。
部屋の中に目を向けると、ダークブラウンのラグの上で、エル字型クッションを抱きしめて倒れている圭がいた。慌てて靴を脱ぎ、側に駆け寄る。
「圭、圭っ」
うわ、おでこ、熱っ。
「………流羽?」
どうやら意識はあるようだ。圭がぼやけた瞳をわたしに向けた。
圭の背中に腕を入れ、抱きかかえてみる。持ち上げてみようとしたけれど、大きな身体は上手く動かせない。
「こんなとこで寝てちゃ駄目だよ。ベッドの上に行かないと」
「あー、いい。ここでいい」
荒い息を吐きながら、圭がわたしの腕を押しとどめた。
なんだか悔しい。圭は、酔ったわたしをベッドに運んでくれたのに。わたしは同じ事をしてあげられないのかぁ……。
腕力のない自分が恨めしい。仕方がないので、ベッドから掛布団を抱え、圭の身体にかけてみる。ついでに枕も、頭の下に置いてみた。
「もしかして昨日からずっと、ここで倒れてたの?」
「いや、昨日の夜は、ちゃんとベッドで寝た」
「そうじゃなくて! ……ずっと具合悪かったんなら、わたしに教えてくれたら、来たのに」
「………ごめん。昨日すごい眠くて……家帰ってから流羽のとこ行く前に、少しだけ横になるつもりで、いつの間にか、そのままずっと寝てた……」
……それ。その時点でしんどかったんじゃない?
冷蔵庫に手を掛ける。
中はからっぽに近く、牛乳とお酒、あとはチーズとチョコレートしか入っていない。冷凍庫には、氷すら入っていなかった。
「昨日からずっと、なにも食べてないの?」
「水は、飲んだ……」
「お腹すいてない?」
「食欲ない……」
使われている形跡のない炊飯器は、やっぱり中は空っぽだった。キッチンの扉を開けると、一応包丁が一本入っていたものの、鍋の類は見あたらない。というか、フライパンの類も見あたらない。
シンクにはまな板と、洗いかごが置いてある。どちらも綺麗だ。
申し訳程度に置かれたレンジは、温める機能がついているだけの小ぶりなもので、側には湯沸かしのポットが置かれていた。
うん。こりゃ駄目だ。なーんにも、ない!
氷もなけりゃ、冷却ジェルシートもない。お米どころか食べるものすらないじゃない。
こんなの、おかゆだって作れないよ!
バスルームに入り、タオルを一枚水でぬらす。キュッと絞ってから、圭の額に当ててみた。
「ちょっとくらいは、気持ちいい……?」
「……うん」
タオルの端を力無く摘まみ、圭が目を伏せた。
「ちょっと待っててね。色々、準備して戻って来るから!」
立ち上がろうとしたわたしの腕を、圭が掴んだ。
わたしを見つめる圭の瞳は、なんだか心細げに見える。ゆらゆら、不安げに揺れていた。
「待って、流羽」
「……なに?」
掴まれた腕が、熱い。
「もう少しここに居て…………」
消え入りそうな呟きに、吸い寄せられるかのように。
わたしはじっと、圭から目が離せないでいた。




