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駆け抜けていけるように


 わたしの意識の変化を感じ取ったのか、あの日から圭の態度は一変した。


 優しげだった眼差しは甘いものに変わり、物理的な距離がとても近くなった。

 夕食の後、これまでなら1時間もすれば去っていたのに、随分とゆっくりしてから帰るようになった。泊りまではしないものの、一緒にテレビを見て、ダラダラする時間が増えた。


 そしてやたらと、ベタベタしてくるようになった。


 

流羽(るう)、こっち」


 洗い物を終えて、コタツの脇に腰掛けようとしたわたしを、圭が呼び止める。

 座っている圭の前に腰を下ろすと、満足した様子で、圭が後ろからわたしを抱きしめた。肩に、圭の重みがかかる。


 圭の体温を感じながら、お笑い番組を見て二人で笑う。心臓がドキドキして、上手く笑えているか心配になってくるけれど、そんなわたしの気も知らず、圭は可笑しそうな声を上げている。


 テレビの画面がコマーシャルに切り替わった。お互いの笑い声が途切れ、息が落ち着いてきた頃に、わたしの耳に圭の唇が触れてきた。


 振り返ると、圭の細められた、やけに甘い瞳と目が合った。どきりとする間もなく圭の顔が近づき、唇に柔らかな感触が落とされる。

 そのまま、触れ合うだけのキスを繰り返した後、機嫌の良さそうな声で圭がわたしの名前を呼んだ。


「流羽、流羽」

「なに、圭」

「明日、ベンチでお昼食べたいな」

「それって、お弁当がいいってこと?」

「だめ?」


 うちの大学の構内には、芝生の広がる緑のゾーンがあり、その周囲にはベンチが並べられている。お天気のいい日には、そこでお昼を食べるカップルが多い。というか、そこでお昼を食べているのはカップルである、という認識となっている。

 そして、そう見られるだけあって、みんな手作りのお弁当を広げてるんだけど……


 でもね、圭。


 前日の夜にいきなり言われて、お弁当の用意なんて無理だから!


 料理しないヤツは、本当に分かってない。材料も準備もなしに、いきなりお弁当なんて作れないんだから。おかずは、何もない所から湧いて出てきやしないんだよ?


 甘い瞳で訴えかけても、無理なものは無理だ!


「そんなの、急に言われたって無理だよ。準備しておくから、明後日でいい?」

「ん……じゃ、明後日、楽しみにしてる」


 チュッと音を立てて、頬にキスが降ってきた。

 約束だよ、と言われたような気がした。

 



 ◆ ◇




 3限目の講義を終えた後、わたしは急いで荷物をまとめ、いつものスーパーへと足を運んだ。

 今日は夕方からバイトの日だ。手早く買い物を済ませようと、カゴを手に取り店内をうろつく。


 なににしようかなー?


 見た目に似合わず、圭は子供っぽい食べ物が大好きだ。

 ハンバーグやエビフライ、オムライスにカレーなど、子どもの好きな食べ物ランキングの上位を占めるものを出せば、大抵満足してくれる。

 

「んー、こういうの好きそうだなぁ……」


 棚に並べてある品物を物色する。これなんか受けるんじゃないかとか、これは喜びそうだとか、圭の反応を想像しながら、一つまた一つカゴに入れていく。


 買い物をしているだけなのに、不思議。浮き浮きとした気持ちが、どんどんわたしの中で広がってくる。

 これはわたしが今、圭の彼女だから。だから明日、圭と一緒にお弁当が食べられる。そんな明日を想像して、こんなに浮かれた気持ちになれる。


 彼女って、楽しいな。


 家に帰り、買ってきた品物を冷蔵庫に詰めこんだ。小さな冷蔵庫は弁当の材料でいっぱいになっていて、わたしの頬はにんまりとゆるめられていた。






「圭!」


 次の日の昼休み、軽やかな足取りで芝生のゾーンに向かうと、圭がベンチの上で寝転がっていた。

 2限目が空いていたらしく、場所取りをしていたようだ。ついでに寝ていたな……。


 気持ちよさそうに寝ている圭の頬を、ペチペチと叩く。

 白くて綺麗な頬は、触れるとやっぱり温かい。うん、ちゃんと生きている。


「起きてっ、もうお昼の時間だよ!」

「ん~……眠い……」

「お弁当作ってきたよ、いらないの?」

「いる………」


 のっそりとベンチから圭が身を起こし、目の前にいるわたしにしがみついてきた。

 だからわたし、抱き枕じゃないんだけど!?


 圭の身体が触れた部分が、妙に、熱く感じる。


「弁当、食う……」

「ちょっ! わたしはお弁当じゃないからね? か、噛むの禁止!」


 首筋にぐりぐりと頭を押し付けてきた。熱い吐息が首筋に当たり、慌てて圭の肩を掴んで引き剥がす。おにぎりと間違われたんじゃ、たまったもんじゃない。

 

 圭の瞳がぼんやりと潤んでいて、ぼうっと遠くに視点を向けて左右に動いた後、急にハッとしたような顔をした。


「おはよ、流羽」

「おはよ。やっと起きてくれた?」

「うん、なんかすげえ眠かった。夢見てた……」

「ちゃんと眠れてないの?」

「最近レポートが忙しくて、ちょっと寝るの遅かった」


 ちょっとって、全然ちょっとじゃないんだろうな……

 まぶたが重そうで、いかにも寝不足って顔してる。よく見ると、目の下に薄っすらとクマが出来ていた。


「忙しいなら、バイトのお迎え無理して来なくてもいいよ?」

「無理してないから、へーき」

「そう………?」


 最近の圭は、夜遅くまでわたしの家にいる。

 暇なのかと思っていたけど、課題が忙しいって……。それなら早く帰ればいいのに。うちでダラダラしている分、睡眠時間が足りてないのかな。

 なんか、心配になってきた。


「それより弁当、それ?」

「あ、うん」


 ベンチに並んで腰かけ、弁当箱の中を広げてみた。

 タマゴサンドに唐揚げ、卵焼きにミートボールを入れてみた。ドキドキしながら圭の表情を盗み見る。


「うわ、懐かしっ」


 圭が真っ先に手を伸ばしたのは、市販のミートボールだった。

 うん、それ反応すると思った……。


「子供の頃、遠足の弁当と言えば、必ずこれが入ってたんだよな」

「わたしのお弁当にも入ってたよ。子どものお弁当の定番だよね」


 愉快な気持ちが込み上げてきて、くすりと笑う。

 さっきまで眠そうにしていた圭の表情が、急にイキイキとし出したように見えて、可笑しかった。


「おれ、ミートボールって結構好きだったんだよね」


 無邪気な笑顔を見せられ、どくん、と心臓が跳ねる。

 

「てか、この弁当の中身、おれの好きなものだらけなんだけど。さすが流羽、長い付き合いなだけあって、おれの事よく分かってんのな」

「まぁねー。もちろん卵焼きは、砂糖多めで作ったよ?」

「卵焼きは甘いやつが好きだって、おれ流羽に言った事あったっけ?」

「ないけど分かるって……」


 不思議そうな顔をしながら、圭が弁当箱の中身を口に放り込んだ。

 目をぱっと見開きながら、もぐもぐと無言で平らげていく。


 これは、美味しいって顔だ……


 心の中でこぶしを握り締めながら、わたしも一緒になってお弁当を食べた。なんだか、いつもよりずっと美味しく感じられる。今日のお弁当、ここ最近作った中で一番、いい出来なんじゃない?


 ふと周囲を見回すと、あちこちでわたし達のようにランチをしているカップルの姿が見えた。わたしと圭も今は、この中の一組になっているのかな。


 通りかかる人達が、わたし達にチラチラ視線を向ける。

 この前の子のように、わたしと圭を見比べて驚いている子もいて、なんだか可笑しかった。

 得意げになって周囲を見回していると、見知った人が通りかかった。


 

「圭くん、こんにちは。美味しそうなお弁当だね」

 

「――紗結(さゆ)。こんな所来るの、珍しいな」


 芝生のゾーンは、文系棟の裏手に広がっている。

 理系棟からは離れているので、用事でもなければ通りかかる事はないような場所だ。


「たまにはこっちの食堂で食べてみようかなと思って。文系棟ってメニューが美味しそうなんだよね。私しばらくこっちに通おうかなあ」

「ああ、こっちの方が女子受けしそうな内容だよな」

「圭くんは彼女の手作り? 仲が良いのね」


 にこやかに笑った後、サユさんがわたしをじっと見つめだした。頬を薄っすらと赤らめながら、言いにくそうに、もごもごと口を動かしている。


「あの、こないだの……」


 サユさんがわたしに何かを言いかけて、止めた。


「――いえ、なんでもないの。それじゃ私、行くね」


 くすりと笑って、サユさんは去っていった。

 首を傾げて後ろ姿を見ていると、隣に座っていた圭が、急に立ち上がった。サユさんの後を追って走っていく。


「紗結っ!」


 ――――え?

  

 遠目に、2人の姿が見える。呆然としているわたしの目の前で、圭がサユさんに何かを必死で訴えていた。そんな圭を見て、サユさんが困ったように笑っている。


 なに、してんの圭?


 少し不貞腐れたような顔をして、圭は戻ってきた。走っていたせいか息が荒い。頬も桜色に染まっていて、妙に色っぽく見えた。


「ごめん、お昼の続きにしよう」

「うん………」


 どくりどくりと心臓が鳴る。


 さっきまであんなに美味しかったはずのお弁当は、なぜだかぼやけた味になっていた。




 その日の夜、圭はわたしのうちに、ご飯を食べに来なかった。

 




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