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人混みの中を


 あれは薔薇色になるはずだった大学生活、初日の出来事。


 ワクワクした気持ちで校門を潜り抜け、入学式に向かう道中、後ろから突然肩を叩かれた。

 振り返ったわたしは、目の前に映る端正な人の姿に、全身を凍り付かせてしまう。


 ありえない。ありえない。


 どうして圭がここにいるの?


 久し振り、なんでもない風に挨拶されて、わたしは震えを押さえて頷くのが精いっぱいで。

 やっと忘れられると思ったのに。

 また、振出しに戻ってしまった、そんな絶望的な感覚がわたしを襲う。


 幸い圭とは学部が別で、普段の接触自体はほとんどなかった。

 けれど、飛び抜けて見た目の良い圭は、大学内でも有名な人となっていた。プリンスなどと持て囃されて注目され、誰それと付き合っている、などといった噂は嫌になるほど耳にした。


 理系と文系の違いもあり、めったに会う事はないけれど、それでも同じ大学だ。たまには姿を見かける事もある。いつも綺麗な子ばかり隣に連れて歩いていて、それが見るたびに違う子で、本当に圭は変わらないと思った。


 もう2度と、見たくなかった光景だ。


 わたしは再びそれを、目の当たりにさせられるようになってしまった。

 すれ違うと声を掛けられて、その度にわたしの胸が疼く。


 忘れたいのに。忘れたいのに。忘れさせてくれやしない。


 昔と違って、インターバルに圭がわたしの家に来ることは無かった。そもそも家の場所を教えてはいない。圭の家だって、わたしは知ろうとせずにいた。たまに挨拶をする程度で、一緒にご飯を食べに行くこともなければ、遊びに行くこともない。友達ですらないような、薄っすらとした関係だった。


 そんな生活が1年半ほど続いたあの日、圭に飲みに誘われた。

 正直、驚いた。わたしと圭は、もうずっと、他人に近いような関わりしかなかったからだ。断ろうかと思ったけれど、圭に対する苛々したような想いも積み重なっていて、ついていく。

 まさか、あんな事になるとは思わずに。


 目が覚めて、圭と同じベッドで寝ていて、心臓が止まるかと思った。

 何も起きていませんように、祈るような思いで服を確かめた。

 わたしは忘れたいだけなのに、どんどん根を張るようなこの状況に頭がガンガンと痛みだす。

 思い出せない記憶は最低の内容で。青ざめるわたしを見て圭は余裕で笑ってる。


 付き合おうか、なんて言われて。


 わたしは狼狽えた。そんなの、永遠に忘れられなくなる。


 それでもわたしは勝てなかった。虚しさしか残らない関係だと分かっていたのに、頷いた。

 目の前でちらつかされた果実の誘惑に、わたしは負けてしまったのだ。友達の延長みたいなもので、本格的な彼氏彼女なんかじゃないと自分に言い訳をして、彼に手を伸ばしてしまう。


 自分の気持ちに蓋をして、圭に気付かれないようにした。わたしは彼女という名の昔馴染みなのだと思い込む事にした。

 だって圭は、わたしの先を見据えてる。わたしとは3ヵ月だけでいいと思ってる。わたしの次に付き合う子とは続けたくて、だからアドバイスが欲しいだなんて言ってくる。


 圭はわたしと続けたいわけじゃない。

 だからわたしの想いは、どうしたって叶わない。


 

 でももう、無理だよね。


 もうこれ以上、友達だなんて誤魔化せない。わたしは圭とキスをしてしまった。あんなの友達となんてするもんか。圭は最初からずっと、期間限定とはいえ、わたしを正式な彼女にしたつもりでいたんだ。


 告白されてばかりの圭にとって、歴代の彼女全てに気持ちがあったという訳ではないのだろう。

 勿論付き合ってから好きになった子もいたとは思う。けれど、好きでもないまま付き合って、好きになれないまま別れていった子も、それなりにいたのだと思う。


 だから、わたしとでも簡単に恋人になれるのだ。感心するほど、圭は付き合うという事に慣れている。

 

 圭との約束まであと、2カ月と少し。


 どうすればいい? 

 やめたいと言って投げ出して、もう一度徹底的に圭を避けようか。



 ―――なんて。わたしにはもう分かってる。


 そんなことが出来るなら、わたしは最初から圭の申し出を拒否してる。

 わたしに差し出された選択肢なんて、たったの一つしか残されてはいないのだ。

 

 くすりと笑いが込み上げてきた。


 こうなったら、開き直って楽しむしかないよね?


 圭だってその気なんだ。わたしだって、その気でいればいいんだ。折角だから、とびっきりの時間を過ごしてやればいい。夢見るだけで叶わなかった甘い時間を、タイムリミットまでの間、圭と過ごしているだけでいい。圭の、彼女になってしまえばいい。

 

 胸にいっぱいの思い出を詰め込んで。

 一生分の満足を、残り60日で得てしまえばいい。



 ただ、それだけのことなんだ。




 ◆ ◇




 わたしの涙に反応したのか、圭が「ごめん」と言って立ち上がった。


「謝らなくていいよ、ちょっとビックリしただけだから」


 わたしも起き上がり、キッチン側のコタツの端に腰掛ける。ビニール袋の中を開け、お酒の缶とおつまみを机の上に並べていった。

 

「わたし、初めてだったから」


 にっこり笑って言ったのに、圭はまた「ごめん」と言い出した。謝らなくていいと言ったのに、人の話全然聞いてないな。

 

「それより飲もうよ。わたし楽しみにしてたんだよ、これ」


 グレープフルーツの缶チューハイを開けた。ジュースみたいな飲み心地に、一気に飲んでしまいそうになるのをぐっとこらえ、一口だけ軽く口に含む。果肉入りで、ツブツブ感が舌に絡んできた。爽やかだけど甘い味わいは、とても美味しい。


「圭も、飲んでみる?」


 手にしていた缶を、圭に向かって差し出した。

 キョトンとした顔をしてほんの少し黙った後、「貰う」と言ってわたしの隣に腰掛けた。缶を受け取り、一口あおる。


「つぶつぶ旨いな」

「うん、ジュース飲んでるみたい」

「一気に飲むなよ。ちょっとづつ、つまみを口にしながら飲むんだぞ」

「分かってるよ」


 わたしだって、記憶を飛ばしたくなんかない。


 圭の言いつけ通り、チョコレートやスナック菓子を食べながら、ちまちまと飲んでいく。

 これ、太りそうだな……。

 例えお酒に慣れたとしても、回数はほどほどにしておかないとヤバいような気がしてきた。


 でも、お酒、美味しい。


 圭の目を見てにっと笑うと、圭もどことなくホッとした様子で、ようやくにこやかに笑い出した。


「圭の選んだやつも美味しそうだね。白桃サワー」

「ん、欲しい?」

「飲んでみたい!」


 苦笑して圭がわたしに缶を渡す。遠慮なく、ぐびりと口にした。

 甘い味が、口の中に広がっていく。


「そういえばさ~、ファーストキスはレモンの味とか言うじゃない?」

「んっ!?」


 圭が軽くむせた。きったないなぁ。

 ティッシュの箱を手に取り、そっと机の上に置く。


「でも、なんの味もしないものなんだね」

「そりゃそうだろ……」

「今なら、白桃の味がするのかな」

「………たぶんね」


 ぼんやりと圭を見つめていたら、唇がそっと近づいてきた。



 想像していた通り、甘い白桃の味がした。





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