そんな嵐の前の一波乱・1
今回は、王都サイドのお話です。
「……オーカちゃん、元気かなあ。早く帰って来ないかなあ」
ジェイル・ルーカははあ、とため息をついた。
元気かなあ、早く帰って来ないかなあ。これは、彼の仲間内で一日一回以上は必ず呟かれるもはや口癖である。
彼らの可愛い後輩であるミアゼ・オーカがシルベル領へ出発してしばらく。
というかまだ一か月も経っていないのだが、統括局の実働部隊ことジェイルとその“同志”たちは、そう呟いてはため息をつく日々であった。
とはいえ、彼女の仕事ぶりについては、それほど心配していない。
少々ウッカリしているところはあるものの、彼女はなかなか飲み込みが早いし要領がいいし、丁寧で人当たりも良い。どこでもそれなりに上手くやっていけるだろう。
彼女の身の安全も、まあ大丈夫だろうと思う。
最前線に近いとはいえ、戦場に立つわけでなし。どこぞの上司が密偵の真似事をして来いと見当違いのことを喚いていたが、言われた本人はもちろん、統括局にはあれの無責任発言を真に受ける馬鹿な者はいない。
以前に比べて領内の治安は悪くなっているかもしれないが、使役魔獣たちも全員連れて行ったのだ。あれらを連れている彼女に、滅多なことは起こらないはずである。
でもって、こちら。ジェイル・ルーカたちの仕事も、今のところは変わらない。
優秀な後輩はちゃんと自分の仕事を片付けて行ったし、現在困っているのは仕事の押し付け先を失くした、長官の取り巻き連中くらいである。ジェイルとその“同志”たちの仕事量はそんなに変わらない。
それでも、ミアゼ・オーカには統括局に一日も早く帰ってきて欲しいと思う。
なんというか。彼女がいないと仕事が面白くないのだ。
以前も似たような机仕事をしていたという彼女のやり方は、非常に効率が良い。
というか、彼女を見て自分たちがいかに効率の悪い仕事をしていたのかが分かった。
幸か不幸か、羽ペンを使う手書きが苦手らしい本人は、結果として仕事を仕上げる早さは周囲と大して変わらないので目立ってはいない。が、彼女の仕事ぶりを参考にしたジェイルらの仕事の効率も上がっているので、他部署にも仕事の早さを驚かれたくらいだ。
統括局の仕事が早くなったと言われる理由は、なんといっても統括局長官印が必要な書類が早く仕上がるようになったことにある。
長官本人がハンコを押しているわけではない。
ジェイルらがときどき無断で拝借して押していたのだ。
ミアゼ・オーカの使役魔獣たち――その見た目だけで上司タボタ・サレクアンドレに侮られ嘲笑されている彼らは、長官室の金庫破りなどという前代未聞で痛快な偉業を成した立役者だ。
金庫から拝借したハンコを押して文書偽造までしているというのに、未だにばれてもいない。
長官の仕事への驚くほどの無関心と、多少何か妙だなと思っても「仕事がはかどるならまあいいか」と詳しく詮索しない周囲の人々のあえての無関心のおかげでもあるのだが。
ともあれ、あの金庫破りは日頃の鬱屈した気分も溜まっていた仕事もスッキリの、実に気分爽快な珍事であった。
あのスリルとちょっとした背徳感は癖になると危険だなとは思いつつ、あんなにどきどきワクワクした体験の後では、これまでのお役所勤めが味気なく感じてしまうのは仕方ないと思う。
ハンコが必要な書類も、残念ながらまた溜まり始めている。
あとは、紅一点が居ない、見ているだけでちょっとほっこりする小さな使役魔獣たちも居ない、むさい男たちばかりの現在の統括局には、単純に潤いが足りない。
ぜんぜん足りない。
ミアゼ・オーカが居ないから、というわけではないと思うが、彼らの上司・統括局長官様のご機嫌もここしばらく低空飛行のままだ。
隣国に攻め込まれてから王城内の空気はずっとぴりぴりしたままなので、彼に限ったことではないし、仕方ないといえば仕方ない。
そういう意味では、むしろ国の中枢として緊張感や緊迫感がまだまだ足りないような気もする。
国王の“視察”外出ブームはとっくに終わってしまい、お供をしていた長官も部署の自室に居座る時間が増えた。
かといってこの上司が本来の仕事を真面目にしてくれるわけもなく。
むしろこちらの仕事の邪魔になる事の方が多いので、ジェイル達は逃げられるときは逃げるようにしている。
彼の風魔法でさらっと探ったところによれば、朝の会議が終わった本日の長官様は、またいちだんとご機嫌斜めな様子だった。荒々しくも重々しいどっすどっすという足音もそうだが、鼻息も、そして口からとめどなく溢れる悪態からも、滲み出ている。
面倒くさい事、確実である。
仲間には合図しておいたので、彼らも何かと理由をつけて部署から逃げているはずだ。
慣れない仕事の山に四苦八苦している取り巻き連中を生け贄に置いてきたので、まあ昼頃には怒鳴り疲れて少し静かになっているだろう。
ジェイル・ルーカが、避難場所の書庫に向かうか、それとも早めの昼食に行こうかと思案していたところ。
「お前はこれの価値が分かっているのか!」
書庫の管理人のひとりであるジント・オージャイトの怒鳴り声が響いてきた。
それなりに付き合いのあるジェイルでも滅多に聞かない音量に、彼は驚いて書庫のほうへと足早に向かう。
書庫の入口に居たのは、手紙のような数枚の紙を持ったジント・オージャイトと、中央官の若い男ひとりであった。
「はっ、価値? わかりませんよ! そもそも読めないんだから!」
男も負けじと怒鳴り返す。
見覚えがあると思ったら、彼は統括局管轄の、転送用の魔法陣が置かれた部署の担当官だ。
転送陣は、王城から少し離れた城下町まで、人や物を行き来させることが出来るものだ。国の各地方とも、人は無理だが書類や手紙などの遣り取りはできる。転送陣と、それを使って行き来するモノ全てを管理しているのが彼ら担当官である。
ジントの持っている手紙のような紙束は、どうやらその転送陣を使って送られてきた手紙のようだ。彼らが怒鳴り合っている原因も。
「やっとシルベル領から手紙が来たと思ったら……こんなふざけた手紙! この忙しいときに紛らわしい手紙の遣り取りをしないで下さいよ!」
「どこがふざけているというのだ、どこが!」
「どこもかしこもでしょうが! 僕には子供のラクガキにしか見えませんからそれ!」
「子供と言えば子供だが、子供ではないのが分からないのか!」
「わっかりませんよ! あんた自分で何言ってるかわかってます!?」
……どうやら手紙は、ジント・オージャイト個人宛てだったらしい。
友達が少なそうなジントだが、意外と手紙の遣り取りは頻繁に行っている。研究仲間が各地に散らばっているのだ。
それで。
件の手紙の出所はシルベル領。国境付近で諜報活動をしていたシェブロン・ハウラはとっくに帰ってきているし、目ぼしい研究施設のないその領地からとなると―――。
「えっうそ。もしかしなくてもオーカちゃんから!?」
子供のラクガキ風。読めない手紙。
ジントが興奮気味にぱさぱさ振っている手紙はぜんぜん読めないが、しかし読めないながらもなんだか見覚えがある線と曲線の集まりだった。
子供のような姿だが子供ではない使役魔獣“一郎”が、書き損じなどの裏紙に線と曲線でできた見慣れない変な文字をちまちまと書いていたのを、ジェイルは見たことがあった。
たしか、“にほんごのひらがな”とかいう異世界の文字だ。
「おれのとこにも何も来てないのに。なんでジンちゃんだけっ?」
「ジンちゃん言うな。そして破れるはーなーせ!」
“流れ者”が召喚した使役魔獣が書いた、異世界の言葉。
それは“流れ者”研究者にして召喚魔法の研究者兼使い手であるジント・オージャイトにとって垂涎物の研究材料だっただろうが、他の者から見れば「なんだこりゃ」という代物には違いない。
ジェイル・ルーカだって、その文字を以前に見たことがなければ転送陣の担当官と同じ反応をしていたと思う。
ところでその転送陣係の官吏は、いつの間にか姿を消していた。
奇妙なものを見るような、そして少し憐れむような顔つきでこちらを見ていたので、手紙を取り合う男たちに下手に関わりたくないと思ったのかもしれない。
他に誰もいない事を確認して、ジェイルはジントを手紙ごと書庫の管理室へと引っ張り込んだ。
「手紙から手を離せと言っているだろうが!」
「はいはい分かった。分かったからからジンちゃん、それ読んで。とっとと読んで」
仏頂面のジント・オージャイトだったが、彼だってミアゼ・オーカからの手紙―――というよりは、“流れ者”の使役魔獣が書いた異世界の文字―――が早く読みたかったようだ。
管理室の空いた机の上に、丁寧に紙を並べていった。
「……ふむ。対訳も同封されている。さすがはミアゼ・オーカだ、よく分かっているな。“にほんごのひらがな”だけであればわたしでもさして時間をかけずに読むことは可能だが、そもそも“にほんご”とは極めて難解な異世界文字で、“ひらがな”以外にも文字が複数存在し文字によってはその世界の者でさえ容易に読めない書けないという難解なものまで存在する謎に包まれた神秘の―――」
語り出したジントはこうなると長いので、ジェイルはまずミアゼ・オーカが書いたらしい“にほんごのひらがな”……と一緒に書かれた、こちらの言葉に直した訳を見ることにした。
異世界の言葉なんて分からないからだ。
その内容は。
簡単にまとめると、「宿で食べたパンケーキが豪華で美味しかった」。
それだけの話だ。ご丁寧に、一郎が書いたパンケーキのイラスト付きである。
「パンケーキ……」
「こんな細かな絵まで書けるようになったとは。さすがはイチローだ。随分上達している」
意外に早く自分の世界から戻ってきたジントが、まるで孫の成長を喜ぶおじいちゃんのような事を言ってうんうんと頷いている。
……なるほど。これはジント・オージャイト宛てだ。
彼にしかこの手紙の価値はわからない。あるいは、彼にしか価値を見出せない。
「……あれ? っていうか、なんでオーカちゃんはジラノスで止まってるんだ?」
地方都市リュベクに行くはずのミアゼ・オーカは、領都ジラノスに滞在しているらしい。
しかも、彼女が泊っているのは一泊二泊ではないようだ。
領都の一等地に立ち、黙っていても三食どころか豪華なおやつまで出て来る至れり尽くせりなこの宿。中央の高官ならともかく、旅費をケチられた下っ端公務員がのんびり滞在できるような懐に優しい宿泊料金ではない。
本来の目的地であるリュベクへはいつ向かうのだろう。
本人からもシルベル領からも、何も連絡が無いのだが。
首を傾げていると、一郎直筆のほうに見入っていたジント・オージャイトが顔を上げた。
「おいジェイル・ルーカ。読んだならそれを返せ。訳と照らし合わせて……んん?」
「……っああ! 急に引っ張るな!」
破けるだろうがー、と先ほどとは逆に抗議の声を上げたジェイル。
しかし手紙を引っ張った本人は気にしない様子で、ミアゼ・オーカが書いた方を容赦なく奪い取り、極めて至近距離で眺め観察して眉間にしわを寄せた。
「まさかわたしが読み間違えているのか。いやしかし前半の数行は一字一句違えていないし単語の訳が違っている、いや訳自体が違う、いや違うのはこちらか……? ああくそ、辞書は書庫の奥だな」
ぶつぶつ、ぶつぶつと呟くその内容を聞くともなしに聞いたジェイルも「んん?」と片眉を上げる。
「訳が違う……って?」
「る、か…? ああ、ここにお前の名前もあるぞ。ええと。教えて……可能であれば。るか、先輩、へ、向ける……いや、向けて、だなここは」
「ええっ?」
ちなみに、こちらの言葉で書かれた“対訳”には、“ルカ先輩”のルの字も出て来ない。
決定的であった。
これは一郎の絵日記風のお手紙にみせかけた、ミアゼ・オーカからの伝言だ。
“流れ者”の使っていた異世界の文字など、同じ世界の出身者かそれを研究している専門家くらいしか解読できない。よほど一字一句注意して確認しなければ、途中で文字が多少違っていても気付けないだろう。
それを利用して、彼女はジント経由でジェイル宛てにこっそりと何か伝言を送って来たのだ。
「なんで本職の密偵みたいなことをしてるんだあいつは……?」
もう一度周囲を確認し、彼は管理室の扉も閉めた。
彼女は、どうしてこんな回りくどいことをして送って来たのか。
横の研究馬鹿は目をキラキラさせて単純に喜んでいるが、ジェイル・ルーカ自慢の後輩はこんな時期にこんな暗号文のようなものをお遊びで寄越すような空気の読めない人物ではない。
一郎の手紙に紛れ込ませた彼女の言葉は、あまり多くはない。
文字数を気にしたのか、あるいは本当に詳しく知らないのか。おそらく両方だろうが、彼女が書いた“にほんごのひらがな”の手紙から状況を推測すると。
シルベル領との情報の遣り取りが、意図的に遮られている。
先ほどの担当官の話しぶりからするに、無かったのは彼女からの連絡だけではない。シルベル領からの連絡すべてだ。
転送陣が壊れたとか妨害にあったという話は聞かないので、おそらくシルベル領側がわざと止めている。
ミアゼ・オーカがこれをどうでもいい手紙にみせかけたのは、たぶんそれが理由なのだろう。そうでなければ届かないと薄々は感付いて。
そういえば、諜報部に所属しているシェブロン・ハウラも指示があって前線から帰ってきたと言っていた。
もし。
仮に。仮に、だ。
いま現在シルベル領がどうなっているのか、王都にいる者が誰も把握できていないとすれば。
……この状況、ものすごくマズいのではないだろうか。
とりあえず、まだジラノスは無事だとは思う。少なくともこの手紙が出された時点では。
サヴィア王国軍に占領されていれば、そこに滞在している中央官で“魔法使い”のミアゼ・オーカが宿でのんびりパンケーキをつついていられるはずがない。この手紙だって送れなかっただろう。
しかし、あちらの領内で、しかも領主のお膝元である領都で、どう考えても非正規経路で流れてきた可能性が高い輸入品がわりと堂々と、しかもかなり出回っていることを考えると、時間の問題であるようにも思える。
「あそこの今の領主は……当てにならないしなあ………」
ジェイル・ルーカはため息をつく。
現シルベル領領主は、セルディアン・コルドー。
数年前まで統括局の副長官をしていた男なので、彼の人となりをジェイル・ルーカはよく知っていた。
セルディアン・コルドーは長官タボタ・サレクアンドレの腹心の部下……というか、ちょっとよく動くただの取り巻きだった。特別仕事ができるわけではないが、長官をおだてていい気分にさせるのが上手い。そうして出世してきた男だ。
ただし出世欲はあってもそこそこで、頂点に立とうとまでは思っていない。二番手、三番手あたりを確保し、なるべく楽をして甘い汁を吸いたい人物である。だからこそ自分が一番でないと気が済まないタボタ・サレクアンドレともうまが合っていたのだろう。
そんな男なので、リーダーシップは期待できない。
自分が先頭に立って何かをしようという気がそもそも無い。自らの保身は考えても信念は無い。
だから、率先してサヴィア王国に寝返ったり裏で通じたりもしないと思うのだが。
……脅されるか逆に上手く懐柔されてしまえば、寝返る可能性はある。
考えれば考えるだけ、悪い予感しかしない。
「実はサヴィア側の思惑とか暗躍とかぜんぜん関係無くて、中央から怒られるのが嫌だったアノ小心者が自分の失態を全部隠して責任逃れを企んで、任期満了までやり過ごそうとしてる……とかいう、しょうもない理由だったらどうしよう」
まさかなー、いくらなんでもなー。と。
冗談半分、やけっぱち半分に呟いたそれこそ正解に限りなく近い答えだったのだが、もちろんジェイル・ルーカが知るはずもなく。
ほんとにどうしよう、と彼は頭を抱えた。
こんなとき、相談をするにも協力を仰ぐにも頼れる上司が誰も思いつかないのは痛い。
結束の固い仲間はいるが、所詮はヒラ官吏である。
「とりあえず、何とかしてオーカちゃんをこっちに戻さないと……」
「なんだかよく分からないが。うちの上司に相談してみるか?」
手紙から目を離さずに言ったのはジント・オージャイトだ。
「うちの部署は地方に対して大した影響力はないが、長官の夫がシルベル領に出向いているから、そちら経由で何か情報が入っているかもしれない。あの人もミアゼ・オーカのことは気にかけているようだしな」
「時間あるか? さすがに高官は忙しいんじゃないか?」
「よほどの事がなければ話はちゃんと聞いて下さる方だ。書庫への様子見ついでに彼女の状況を伝えるくらいはいいだろう」
「……いい上司だなー」
「統括局よりはな」
人間不信気味のジント・オージャイトがこれだけ言うのだ。ジェイルはこれまであまり接点がないので分からないが、学術局長官ティタニアナ・アガッティはある程度信頼できる人物なのだろう。
彼は少し反省した。
多少ずる賢くてもわりと単純で御しやすい。彼は上司タボタ・サレクアンドレについて、そう内心で嘲笑っていた。しかしそんな暇があったら、少しでもまともなのにすげ替える努力をすれば良かったのかもしれない。
「ああそれから。マゼンタにも知らせておいたほうがいいと思うぞ」
ジント・オージャイトが、情け容赦のない追い打ちをかけた。
ぴきっ、とジェイル・ルーカの双眸が恐怖に凍り付く。
「……おれが?」
「当たり前だろう」
手紙から視線を外し、ようやくこちらを見たジント・オージャイト。
無表情ながら変な圧を感じる眼差しに、ジェイルは口元を引きつらせる。
ミアゼ・オーカは魔法研究所のシェーナ・メイズと定期的に手紙の遣り取りをしている。が、この状況なら、彼女がほかの地域に手紙を送っていたとしても、ちゃんと届いているかどうかは怪しい。
そして届いていなかった場合、シェーナらが非常にやきもきしているのが目に見えるようだ。
シェーナ・メイズはもちろん。魔法研究所の所長兼彼女の保護者筆頭様も。
「じ、ジンちゃーん」
「ジンちゃん言うな。そしてミアゼ・オーカをよろしく頼まれているのはお前だ」
「う、うえぇ……」
実の姉シェーナ・メイズへ送る手紙。
それにミアゼ・オーカから伝授された仕事のノウハウが生かされる余地はなく。悩み抜いて書き上げるまで、まる二日かかったという。




