こんな彼女のお役所仕事・2
正直、ここまでとは思わなかった。
上級魔法使いにして統括局の長官タボタ・サレクアンドレは、他の部署の長官たちに比べればまだ単純で扱いやすいほうである。
「はい」と「いいえ」と「おっしゃる通りです」。
話しかけられてもだいたいこの三つを適当に返しておけば、だいたいやり過ごすことができるからだ。
ただし。
「ミアゼ・オーカ! 貴様はわたしを馬鹿にしているのか!」
「違います。ただ、この書類は二週間前に提出したもので――――」
件の長官と新人職員ミアゼ・オーカのやり取りに、ジェイル・ルーカはそっとため息をつく。
出せ出せと責められて、いざ出してみたら机の上に二週間以上放置されているとか。そりゃ文句のひとつやふたつ、言いたくもなるだろう。
しかも相手は、人を貶したりイラッとさせたりするのが大得意な男である。
これらを耐えて澄ました顔で「はい」か「いいえ」か「おっしゃる通りです」だけを返すというのは、なかなか大変な作業ではあった。
気持ちは分かる。
気持ちはすごく分かるのだが、言ったところで無駄なのだ。
「上級魔法使いであるわたしに“下級”が意見できると思うな!」
これが決まり文句。
何を言っても、最後にはこれが出る。
そもそも部下の話を聞こうという気がない。言えば言うだけ怒鳴られ損である。
ジェイルたち残っている職員は、上司と会話することをとっくに諦めていた。
理不尽で無駄に大きな罵声に耐え、諦めの境地に達した者だけが、ここ統括局でそれなりの平穏を手に入れることができるのだ。
このフローライドにおいて、魔法使いの階級差は絶対のものである。
たとえ「統括局の長官なんだから、国王の後ばっかり追いかけてないで統括局の仕事をして下さいよ」という真っ当な指摘であっても、それが中級や下級の魔法使いから言われたのであれば、上級魔法使いタボタ・サレクアンドレは聞く必要がない。
上級魔法使いに逆らってはいけない。彼らが黒だと言えば、白だって黒だと言わなければならない。
少なくとも、タボタはそう思っているらしかった。
「どこの世界にも、どうしようもない上司っているんですねー……」
遠い目をして、どこか諦めたように呟いていたミアゼ・オーカ。
彼女が懲りずに「仕事しろ」と長官に食ってかかるのが予想外なら、長官が妙に彼女に突っかかるのもこれまた予想外だった。
上級魔法使いたるもの、普段であれば、下級魔法使いというだけで相手にしない、見向きもしないはずなのにだ。
最初は、ひやりとした。
異世界で身に着けたらしい彼女の実務能力が思ったより上であったとか、魔法使いとしての実力も実は“下級”なんてものではないこととか、国王に献上しようと躍起になっていた“流れ者”本人であることとか。
勘付かれたかと思ったのだが―――しかし、気づいた素振りはまったく無く。
―――おそらくきっと、単純に。
ちょうど良い所に適当な鬱憤晴らしの相手がいたと、そう思っているだけなのだろう。
オーカが統括局に配属される少し前。新しく学術局長官に就任した者がたちまち国王に気に入られ、それを苦々しく思って周囲に当たり散らしていたのだ。
本当にもう、つくづく迷惑な上司であった。
この時ほどジェイル・ルーカは彼の部下である自分を嘆いたことはない。
せっかくなんだか面白そうで使えそうな人材を引っ張ってきたというのに、あの長官のおかげで彼女の顔つきは日増しに冷たくなっていく。
オーカはしぶとく頑張っていると思う。
が。こんな状態が続けば、いつ辞めると言われてもしょうがないとも思う。
いままで辞めていった者たちと同じように。
いやむしろ彼女の場合、別の仕事を見つけたほうが国の為なのではないかとすら思えた。
こんな扱い、彼女の過保護者連中が黙っているわけがないのだ。
どちらにしろ、マゼンタの研究者たちが束になってかかってきたら、たぶん鉄壁の防御魔法を誇る王城もグシャグシャに潰されてしまう。
それを薄々はオーカも分かっているのだろう。
彼女があえて伝えていないのか、彼らを抑えているのが彼女なのか。
どのみち、時間の問題だろうと思っていた。
「ふん。“下級”ふぜいが、わたしに意見するなど百年早いわ! 悔しければ上級まで階級を上げてくるのだな! わはははははっ」
だから、こんな頭も悪そうな捨て台詞で去っていった長官を見て、すっと彼女が顔を伏せたとき。
「ふ、ふ、………っく」
うつむいた彼女の口からくぐもった声が漏れ出たとき。
ああ、もう限界かなと思ったのだ。
……思ったのに。
「ふっふっふふふ………」
彼女は泣いていたわけではないらしい。
なんと笑い出した。
「も、もしもし……オーカちゃん?」
「ふふふふっ、ルカ先輩あのですね」
不気味な笑い声に、思わずジェイル・ルーカも一歩後ずさる。
ゆらりと、彼女が顔を上げた。
その顔に浮かぶのは、ここ統括局に配属されてから、初めて見た満面の笑み。
ヤバイ壊れたか。と、誰かが呟いた。
環境が環境なので、この職場、精神を病む者も少なくないのだ。
「あのメタボ長官、もう我慢できません」
「あーうん。激しく同意するけど、えーと、いちおう言っとくけど名前はタボタ長官だよ?」
「どっちも同じ意味です」
「そ、そう」
よく分からないが、逆らわない方がいいような気がする。
ジェイルはもう一歩、後ろへ下がった。
「先輩、あのメタボ長官、さっき下級魔法使いに出来るものならやってみろって言ってましたよね? 言ったはずです」
「え、言ってた? ……ええーと、めちゃくちゃ意訳すればそうとも取れないこともない、かなあ。それで何をやるって……」
もそもそと呟くジェイルにはすでに答えず、彼女は低く呟いた。
「やってやろうじゃないの」
☆ ☆ ☆
「みんな出ておいでー」
あの日。彼女はそう言って机の下で手招きした。
すると彼女の小さい使役魔獣たちがわらわらと出てくる。机の下に彼らを呼ぶための魔法陣が敷いてあるのだ。
その数、全部で五体。
いくら魔法使いばかりのお城に勤めているからといって、これだけの数の使役魔獣をぞろぞろ引き連れて歩くのは目立ってしまう。
なので、日替わりで護衛兼癒し要員として一、二体連れている他は、必要な場合にのみ魔法陣で自室から呼び出すことにしていた。
「ルカ先輩、メタボ長官がどこに行ったか、こっちに戻って来ないか探れますか?」
「ああ、ちょっと待っててね―――取り巻き連中まで引き連れて馬車に乗り込んでったから、しばらくは帰って来ないと思うよ」
「ちっ。仕事しろよ」
ジェイルのなんちゃって偵察魔法の結果に、他の同僚が舌打ちする。
大いに同意するところだが、今はむしろ好都合でもある。
木乃香は次々に自分の使役魔獣に指示を出した。
「いっちゃん、お城の他の使役魔獣の様子を見ててね。こっちに近づいて来る人がいたら教えて欲しい、ついでにできればなるべく時間を稼いでって“お願い”しておいて」
「うん」
“一郎”が神妙な顔つきでこっくりと頷く。
「みっちゃん、お空から長官たちが帰って来ないか見張ってて」
「ぴっぴぃー!」
開け放たれた窓の外へ元気よく羽ばたいて行ったのは、スズメ大の黄色い小鳥“三郎”。
周囲は、その小さな姿を呆然と見送るだけだ。
「ごろちゃんはお部屋の見張りね。あと、もし罠とかが発動しちゃったら防いで」
「きぅ」
ぽてん、と木乃香の懐から机の上に落ちてきたのは“五郎”。
薄ピンクのハムスターは「わかったー」と言いたげに小さな鼻をひくつかせた。
そして。
勇ましくぴこんと丸い房飾りのような尻尾を立てる黒い子犬“二郎”と。
楽しそうにゆらんと猫じゃらしのような尻尾を揺らす白い子猫“四郎”を両側に従えて。
「じゃあ、お邪魔しますか」
木乃香は、意気揚々と本人不在の統括局長官執務室に、足を踏み入れた。
それは、いつものように。
最初に長官執務室へ乗り込んでからすでに半年。
すでに何度も目にしているジェイル・ルーカやその他同僚たちだが、いまだに目を擦りたくなるほど奇妙な光景であった。
大きな執務机の横で木乃香がぺたんと座り込み。
その周囲で、黒い子犬が「わんわん」と吠えては彼女を見上げてぴこぴこ尻尾を振っている。
膝の上で丸くなっている白い子猫は、主の声と子犬の鳴き声に合わせるようにゆらんゆらんと尻尾を振っては「にああー」とのんびり鳴いていた。
小動物が飼い主にじゃれて遊んでいるようにしか見えない。
薄暗い長官執務室などではなく、それこそ中央庭園の陽だまりの中ででも見かければ微笑ましく思うような光景だっただろう。
彼女らの会話が聞こえてこなければ。
「わんわん」
「ふーん。ってことは、これはAとBの複合型か。そんなのもあるのねえ。本当に、何通りあるんだろうねえここのセキュリティ。昔の“魔法使い”は細かくて疑り深くて謙虚だったんだろうね」
「にゃあ」
「あ、ごめん。ええと、だからしろちゃん、最初はコレを“凍結”して―――」
話しながら、かりかりとメモを取り、そして使役魔獣に指示を出す木乃香。
ほどなく。ほんとうに、大した時間もかからず。
かちゃん、と軽い音がした。
「よし。開きましたよー」
ちょっと立て付けの悪い窓が開きましたよー、くらいの口調だったが、もちろん執務机の横に窓なんてついていない。
彼女たちの目の前にあるのは“金庫”。
統括局長官専用の、統括局長官にしか開けられない―――はずの、“鍵”付きの収納箱であった。
魔法を使って厳重に閉められているそこを、木乃香は使役魔獣たちの力を借りて開けていた。
ほとんど月イチくらいのペースで。
目的は、そこに収められている統括局長官の“認証印”である。
ハンコさえ押せば片付くその書類にいつまでもハンコが押されないのは、押す役目の長官にその気がないからだ。
そのくせ自分に都合の良い案件や自分が主導した案件は、電光石火の早業でぺたんとハンコを押して通していく。
そのついでに溜まった書類の数枚にも適当に印を押す、というのが長官タボタ・サレクアンドレのお仕事状況であった。
ジェイル・ルーカが、長官用の執務机に座って書類に長官の署名を書いている。
そして木乃香は、その横でサインの終わった書類にぽんぽんと景気よく長官印を押していた。
「最初はビクビクしてたけど、なんかクセになるよなー」
「もうお前が長官でいいんじゃないか?」
「おいおい、自分の名前は書くなよー」
処理済みの書類を運んでいた同僚らが突っ込み、周囲がくすりと笑う。
こそこそと小声での会話になるのは、さすがにばれたらやばい事をしている自覚があるからだ。
実は、サインの偽造だけはかなり前から横行していた。
統括局だけでなく、他の問題のある上司を持つ他部署もだ。
どれだけ筆跡を似せても、魔法などで調べれば本人のサインでないことなど簡単にばれる。
が、普段から書類の筆跡を調べられるのはせいぜい国王くらいで、よほどのことがない限り、長官以下のそれはほとんど確認もされない。
数が多すぎるし、何より偽造は珍しくも何ともないので、黙認されているのだ。
それに、本当に重要な案件は、サインだけで通すことができない。
長官のハンコが必要なのである。
逆に言えば、長官印さえ押してあれば、それが重要案件であっても誰も不審に思わず、すんなり書類が通せてしまう。
認証印がしまわれた“金庫”を守るための防御魔法は、自動でころころと、しかも不定期に変わる。
その内容はどれも複雑怪奇。すべての魔法を解除しても開かないし、もちろん力ずくでどうにかなる代物でもない。下手をすれば罠が発動して怪我を負いかねない。
木乃香はそれらを“二郎”の“魔法探知”能力で調べ、“四郎”の“凍結”能力で必要な魔法のみを一時無効化して鍵を開けてみせたのだった。
“凍結”を解除すれば元通りになり、金庫が破られたことなど分からない。
念のためと魔法や物理攻撃を防ぐ“五郎”を待機させてはいるが、これまで彼女らが失敗したことは一度もなかった。
これはさすがに不味いのでは、と言った周囲に、木乃香はにっこりと笑って答えたものだ。
「ばれなきゃいいんでしょう?」
と―――。
最初こそ、彼女の金庫破りにはジェイルも頭を抱えていた。
本人は長官印が手に入っただけで満足しているようだが、この“力”は使い方によって大変な事態を引き起こす。
それを彼女が果たして自覚しているのかどうか。
「どうせ中身だって見てないんだから、重要案件のひとつやふたつやみっつやよっつ、勝手に通したって気付かないでしょうあのメタボ」
彼女は堂々と言い放った。
そして白いマントをばさりと後ろに翻し、ぺったんぺったんと豪快にハンコを押していく。
たぶん、いろいろと吹っ切れたのだろう。いや、振り切れたというべきか。
根が善良で真面目なくせに行動が大胆で思い切りがいいのは、たぶんおそらく絶対にマゼンタの魔法研究所所長を務める彼女の保護者の影響に違いない。
血のつながりがないはずなのに、こんなところだけ“お父さん”に似るのはホント止めて欲しい。
…………まあ、面白いからいいんだけど。
彼女を見ていて、ジェイル・ルーカも吹っ切れた。
いろいろと厳しい待遇を受けている者同士、下っ端役人たちの結束は固い。
しかもあのいけ好かないメタボ……ではなく、タボタ・サレクアンドレを出し抜けるのだ。言いふらしたいのは山々だが、近年最高の楽しみを失くすようなこと、誰がすすんでするものか。
もともと、金庫破りは実際に見なければ信じてもらえないような突飛なことだ。
“流れ者”を入れることで、この閉塞し淀んだ職場が少しでも変わらないかと、ひそかに願ってはいた。
あの長官は変わらないし、職場環境も変わらない。
しかし。
横からどかんと大きな風穴を開けられたような、そんな衝撃と爽快感は、間違いなくミアゼ・オーカがもたらしたものだ。
ジェイル・ルーカは万感の思いをこめて―――はあ、と息をついた。
ほんとうに、本当に正直、ここまでとは思わなかった。




