閑話・ところでその頃・2(二郎)
本日、2話投稿しております。
こちらはじろちゃん編後編です。
「あの、ありがとうございました」
シェーナ・メイズの前で頭を下げたのは、“カナッツ”屋台の主だという女性と、その娘であろう売り子の少女だった。
少女がほっとしたように微笑んだので、シェーナもつられて笑顔になる。
コーラルピンクのふわふわの三つ編みと大きなオリーブ色の瞳が可愛らしい、小柄なお嬢さんである。
なるほど。若い男ならちょっとちょっかいかけたくなるかもしれない。
「魔法陣は消したけど、ほかに被害はない?」
「え、ええと」
「それが……」
カナッツのようにふっくらとした体形の、いかにも“おかみさん”といった風情の女主人がさっと表情を曇らせた。
「先ほどの馬鹿……あ、いえ。魔法使い様が、ウチに密偵の疑いがあると言い出しまして」
「馬鹿でいいと思うわよ。ええと、密偵? スパイ、ってこと?」
なんでまたそんな事を。
シェーナは首をひねる。
見るからに善良そうな、一般市民である。まあ、見るからに怪しい密偵もいないだろうが。
彼女があらためて二人を眺めていると、疑われているとでも思ったのか、慌てて女主人が言った。
「この屋台はあたしの趣味のようなものでして。家はフロルで代々続く粉物屋をしています。もちろん、後ろ暗い商売なんてしてませんよ!」
難癖をつけられた原因は、その粉物屋の取引先だった。
ここのカナッツのさっくりもっちりとしたカナッツを作り出すのには、オブギ地方産の特定の小麦を使うのが最適なのだという。
どの品種の小麦をどの程度配合するかで食感が変わってくるので、それは各店の企業秘密で腕の見せ所でもあるのだと店主が誇らしげに語っていたが、とりあえず重要なのはそこではなく。
オブギ地方というのは、隣国アスネのフローライドに接していない国境沿いにある。アスネを支える大きな穀倉地帯だ。
いや、だった、というべきか。
このオブギ、昨年だったか他国に占領されたのである。
占領したのはサヴィア王国。ここ最近、急速に国土を増やしている国だ。ついにお隣アスネにまで迫ったこの国の動向には、さすがのフローライド上層部も神経をとがらせているようだった。
しかし、である。
「密偵なんて馬鹿馬鹿しい言いがかりよねえ。大変だったわね、変なのに目を付けられて」
うんうん、と頷くシェーナ。
そんな彼女を見て、屋台の親子は顔を見合わせた。
「あの……信じてくれるんですか?」
「え? だって違うんでしょう」
「そ、そりゃもう、そうなんですが」
大変な状況のオブギだが、いまのところ小麦の流通に問題はなかったはずだ。
収穫量は変わらず、価格にも大きな変化はない。
オブギがサヴィア王国領になったなど、言われなければ気付かないだろう。それくらい普通にフローライドにもオブギ産の小麦は出回っていた。
小麦だけではない。他の物も、もちろん人だってたくさん出入りしているのが現状だ。
むしろ市井に紛れて得られる情報など、別にこっそり探らなくてもある程度は簡単に手に入るのである。
オブギ産の小麦を仕入れているという理由だけで魔法も使えない一般市民をサヴィア王国の密偵と疑うのは、無理があるのだ。
シェーナには、世情に疎い自覚がある。
アスネ王国の一部がサヴィアに占領されたというのはかろうじて知っていたが、それがいつか、どの辺までかは曖昧なくらいだ。
彼女が住む辺境は中央からの情報が入りにくいし、あえて知ろうという意欲もない。もともとそんなに興味があるわけでもない。
要は、自分の生活が脅かされなければそれでいいのである。
しかしそんな彼女でも、いや他の誰でも、簡単に分かるだろう。
彼女の前で堂々と胸を張る女主人と、でかでか「マズイ」と顔に書いてそそくさと退散した先ほどの魔法使い。どちらがより怪しいか、など。
「ウチの娘が店番しているときに限って、狙いすましたようにあの男が来るんですよ」
女主人が、苛立たし気に続ける。
これを聞いて、シェーナは半眼になった。
そもそも、密偵などを取り締まるのは武官の仕事だ。文官の証である銀の留め具を付けた男がしゃしゃり出てくるのはおかしいし、武官だって仕事を取られたと分かればいい顔をしないはずだ。
「適当な理由をでっち上げて、半強制的にナンパしてたわけね……」
「無実を証明したいのなら一緒に来いとかなんとか、無理に引っ張って行こうとするんです。それでも突っぱねていたら、今日はあたしがちょっと席を外した隙にこんなことになって―――」
仕事と言いながらあっさり退いたのは、動機が不純すぎたからだろう。
売り子の少女が、母親の横で困ったように俯いた。
「……魔法陣を描く前に、素直に“好きです付き合って下さい”くらい言えないの今どきの若者は」
シェーナはため息をつく。
しかもそれで上手くいかないからって、今度は火で脅すとか。小悪党以前にお子様すぎて泣けてくる。
しまった、踏み潰すのは魔法陣だけでは生温かったかもしれない。
今からでも追いかけていって、ろくなモノが詰まってなさそうなあの頭、蹴飛ばして来たほうが世のため人のためだ。
うんそうしよう。それがいい。
物騒な考えに至った彼女は、先ほどの魔法使いの甘ったれた顔、そして顔と同様に甘々の魔法陣をを忌々しく思い返す。
そして彼らが逃げて行った方向へ、勇ましく足を踏み出そうとした。
―――のだが。
そこでふと、足元にすり寄るモノの存在に気が付く。
木乃香の使役魔獣、二郎である。
「ジロ?」
感情のままに動こうとしたシェーナを引き留めたいのか、単に放っておかれて寂しかったのか、あるいは他になにか伝えたいことがあるのか。
ふわふわの黒い毛並みを擦りつけるようにして、ソレは彼女の足元にまとわりついて来る。
そして反応を窺うように、ときどき黒いつぶらな目で見上げては、ちろりちろりと房飾りのような尻尾を振るのだ。
主である木乃香と離れてから、ちっとも愛想を見せなかった二郎が、である。
「じ……っ、ジロっ」
これはちょっとズルい。そしてあざとい。
ふわころ小動物を前にすれば、腹立たしさはあっという間にどこかへ吹き飛んでしまった。
あの魔法使いのいけ好かない顔なんか、思い出すのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
「うわ、何? なんか可愛い」
つい悶えそうになったシェーナの耳に届いたのは、そんな呟きである。
声の主は、売り子のお嬢さんだ。二郎を見つめるオリーブの瞳からは、不安げな色が随分と薄らいでいて、代わりに萌えと好奇心できらきらしている。
彼女だけではない。いつの間にか、小さなモノの小さな仕草に人々は釘付けであった。
ふと、シェーナは思いついて、足元でじゃれてくる子犬をひょいと抱き上げた。
わしわしと頭を撫でて、にっこりと笑う。
「触ってみる?」
「え……」
黒いふわころを差し出されて、売り子の少女はオリーブ色の目を見開いた。
差し出された二郎はどこかきょとんとしている。
周囲の人々にとって、どんなに微笑ましかろうと無害に見えようと、ソレは見たこともない未知の生物である。
“魔法使い”が連れた未知の生物は魔法が絡んでいる可能性が高いので、とりあえず要注意なのだ。
可愛いと言いながら彼らがまったく近寄ってこないのは、そんな理由からだろう。
もちろんシェーナだってそんな“常識”は承知の上だ。
「この子は誰かに撫でてもらうのが大好きでねー」
「………」
お手本とばかりに、ゆっくりと頭を撫でる。
すると二郎は、それはもう気持ち良さそうに黒目を細めた。
「大人しいから、よほどの事がないと吠えたり噛んだりしないわよ」
少女はこく、と唾を飲み込む。
そしてちらりと上目遣いにシェーナを窺ってから、そろそろと二郎に向かって手を伸ばした。
「―――わ、ふわふわ!」
「でしょ? この毛並みがねー、もうクセになるのよ」
感嘆の声に、ぴこぴこと黒い尻尾が嬉しそうに揺れる。
背中をそろりと撫でる少女の手にその先がふわふわと当たるものだから、そのくすぐったさに彼女はくすくすと笑った。
そんな様子に、屋台の女主人をはじめとする周囲の数人が、触りたさに手をそわそわさせたところで。
できるだけの笑顔で、シェーナは言った。
「この子ね、使役魔獣なのよ」
シェーナと二郎以外の誰もが、この言葉に凍り付いた。
使役魔獣。それは、魔法使いが召喚した生物の総称である。
生きた“兵器”とも呼ばれる、非常に物騒な代物だ。召喚した直後から無差別に暴れまわるモノも少なくない。
まして、他人の使役魔獣に触るなどとんでもないことだ。
少なくとも、フローライドで見かける一般的な使役魔獣はそうだった。
シェーナは続ける。
警戒心でぴりっと張りつめた周囲の空気など、あえて無視である。
「ジロは、わたしではない魔法使いが召喚したんだけどね。こうやって誰にでも懐くし、こんな可愛いし、誰彼構わず危害を加えたりしない。そもそも誰かを傷つけるような能力を持っていないの」
「で、でも」
二郎はつぶらな黒目で少女を見上げ、ちろ、と尻尾を揺らす。
もっと撫でてくれないの? とでも言いたげである。
少女の手は、黒いもふもふの毛並みに触れたままだ。
世間一般の“使役魔獣”と実際目にしたソレのほんわか具合とのあまりの差に、困惑しているのだろう。
気持ちはよく分かる。シェーナだって、最初に木乃香が召喚術を成功させたときはそうだったのだ。
今は、これはコレでありだと思う。
むしろ、そこに居てくれるだけで癒される非常に貴重な存在である。
木乃香の使役魔獣たちは特殊能力もそれぞれに貴重で便利ではあるが、いっそ無くてもぜんぜん構わない。
現に“魔法使い”によって嫌な目に遭った屋台の母娘だって、この使役魔獣の前では嫌な顔などできないのだ。
「騙すような真似をしてごめんね」
「うう……」
葛藤しているらしい少女の指先が、無意識にか黒い毛並みを撫でる。
ぴこぴこ、と房飾りのような尻尾が元気に揺れて応えた。
「ね。大丈夫でしょう」
「………」
「魔法使いは、しょうもないヤツが多いけど、そうじゃない人だって居る。それだけ覚えててほしかったの」
“魔法使い”というだけで、あの残念な小悪党もどきと同じくくりになるのがシェーナには我慢できなかった。
実際、王都フロルではとくにそうなのだ。数が多いぶん、ろくでもない魔法使いも多い。もちろん中には善良な魔法使いだっているのだが、迷惑をかけているほうがどうしても目立ってしまう。
しかし、そんな先入観で二郎の可愛さが伝わらないなんて、ひどすぎる。
“オーカの使役魔獣を愛でる会”を立ち上げたときからの、シェーナ・メイズの……いやメンバー全員の思いであった。
「……はい。分かります」
はにかんで、少女が頷いた。
黒い毛並みを撫でる手は、先ほどよりも迷いがない。
「お姉さまも、このジロちゃんも、わたし信用できるもの」
お姉さま。
まあ慕われているようだし、今さらなので悪い気分はしないのだが。
そういえば名乗ってもいなかったなあ、と、今さらに気付いたシェーナであった。
☆ ☆ ☆
「どうしたの、これ」
予想よりもだいぶ遅れた夕暮れ時に、やっと木乃香は宿に戻って来た。
想像よりも妙に白っぽい色の“魔法使い”マントを被って。
なんだかひどく疲れた様子の木乃香に二郎と一緒に駆け寄り、抱き着いて無事を確認し、頑張ったねと褒めて。
でもって認定試験の大体の流れを聞いて憤り、付き添いの男どもに八つ当たりし。
さらにはマントの内側から出てきた薄ピンク色の極小新入り使役魔獣に驚き、そのふわもこ具合を堪能してから。
どんと机の上に広げたカナッツの山を見て木乃香が呟いたのが、先の言葉である。
シェーナ・メイズはにんまりと答えた。
「もらったの」
「もらった?」
「そう。ジロのお陰でねー?」
木乃香の足元で、ぴこぴこと黒い尻尾が元気に揺れる。
あれから。
ちぎれんばかりに尻尾を振るものだから、シェーナは味見にもらった自慢のカナッツを二郎にあげてみた。
するとそれは嬉しそうにかふかふと食べて、おねだりするようにさらにシェーナにまとわりつくではないか。
そんな様子にすっかり魅了された屋台の母娘が、もってけドロボーとばかりにたくさんくれたのだ。
もちろん、シェーナがあの魔法使いを撃退したお礼も兼ねていたわけだが。
「どうすんのこれ。晩ご飯いらないんじゃない」
「晩ご飯は晩ご飯! オーカとお祝いするのよ! カナッツはあんたの魔法で保存がきくでしょう」
「……やれってことね」
ジェイル・ルーカががっくりと肩を落とす。おれも疲れてるんだけどなあ、という呟きは、傍若無人な姉にきれいさっぱり無視された。
その脇で。自分の使役魔獣から何をどう聞いたのか、木乃香が笑う。
「そっかー。じろちゃん、可愛がってもらってよかったねー」
一緒にカナッツ食べようね。
そう言って抱えられた子犬は、尻尾をこれでもかと振りたくり、嬉しそうに主に鼻先を押し付けて甘えていた。
閑話の、閑話。 読まなくていいですよ(笑)
シェーナから二郎のお留守番の様子と、寂しげな鳴き声について聞いた木乃香さん。
「え……っ、鳴いたの?」
「えー、オーカも知らなかったの? 鳴くっていうか……すごく小さな声ではあったけど」
すごく居たたまれなかったけど、ちょっと可愛かったわ。
そんな言葉に、木乃香はばっと二郎を振り返った。
「じっじろちゃん! 鳴いてみて!? くーんって鳴いてみて!」
変な理由で主に詰め寄られた二郎はびっくりしたらしい。
つい後じさりしながらも、健気に主の言葉に応えようとする。
「き、きゅーん………」
「……っ! 違う! 可愛いけど、なんか違う気がする……!」
何やらがっくりと項垂れる木乃香と、それを見ておろおろしている二郎。
主がいなくて寂しさのあまり出た声を、その主の前で出せというのは、ちょっと無理だと思うのだが。
あきれてため息をついたシェーナは、しかしほんのちょっとの優越感にひたってにんまりしてしまうのだった。




