こんな大きな木の下で・5
木乃香さん視点に戻りますー。
―――君は文官向き。
そう、ジェイル・ルーカは木乃香に言った。
官吏というのは、いわゆる国家公務員である。国王のお膝元で働く中央官なら、中央省庁の職員といったところだろうか。
安定した職の代名詞。信頼度が抜群であるその代わり、競争率も高い人気職。―――と、木乃香の認識ではそうだ。
文官と武官、どっちが向いているかと言われれば、まあ文官なのだろう。
いちおう“魔法使い”になったものの、彼女は攻撃系の魔法が使えない上に今後使おうという気もない。加えて、体力にはまったく自信がないのだから。
とはいえ、いずれにしろ誘われてそう簡単に就ける職ではないと思うのだ。
必須である“魔法使い”資格を取ったからといって、この国に来て一年足らずの得体の知れない者をわざわざ採用しないだろう。
ちょっと信じられない話だが、かといって冗談にも聞こえない。
彼が木乃香を騙してなにか得をするとも思えない。
むしろ彼女の保護者の皆様を敵に回すほうが、彼にとっては恐ろしいのではないだろうか。
そして彼が「文官向き」と評価してくれた理由は、もとの世界で培った単なる事務能力。
やろうと思えば誰でもできそうな、それ。
異世界から来た“流れ者”という身の上ではなく、魔法の実力でも、一風変わった使役魔獣たちでもないのだ。
それがひどく新鮮で。
冗談で笑って流すには惜しいと、木乃香は思ってしまった。
こんな異なる価値観を持った、非現実的な異世界で。
もしかしたら、自分は自分としてちゃんと生きていけるのかもしれない、と。
―――ようやく、思えたのだ。
漠然と、感じ始めてはいた。
所長ラディアル・ガイルをはじめとする研究所の人々は、木乃香にとても親切にしてくれる。彼女が望めば、おそらく今後も快く研究所に置いてくれるだろう。
彼らに頼り、彼らに甘え、彼らに守られ。あの閉ざされた奇妙な箱庭のような場所で、ふわふわと日々を過ごす。
穏やか……とは言えないかもしれないが、それなりに気楽で、ぬるま湯に浸かっているような現実味のない生活だ。
ただしそれを、一体いつまで続けることができるだろう。
それこそ保護者が必要な未成年ならばともかく。木乃香はとっくに成人していて、もとの世界ではちゃんと働き、稼ぎ、自活していた。
いい大人が、無条件でいつまでも他人に甘んじて良い生活ではない。
師ラディアル・ガイルの手伝いを始めたのだって、弟子だからという以前にそんな思いがあったからだ。
実際に研究所の外に出て、研究所以外の人々を見るにつけ、その思いは強くなるばかりだった。
異世界であっても、元の世界と同じように誰もがちゃんと生きている。
働かざる者食うべからず。そこに変わりはないのだから。
「―――で、中でも大規模なのは最奥の王庭園と西庭園、そして中央庭園。個々について簡単に説明をすると、王庭園というのはその名の通り国王のための庭園で、代々の王によっていろいろと形を変える。西庭園は庭というより畑に近いな。薬草や魔草などを育てていて、危険な種も植わっているから一般の立ち入りは禁止されている。現在一般にも開放されているのはこの三つの中では中央庭園だけだ。普通に正面から王城に入ろうと思えば中央庭園を通るから、嫌でも目に付くというのが正しい」
木乃香がついつい物思いにふけってしまった理由。
それはジェイル・ルーカの勧誘にとにかく驚いたから、だけではない。
きっと隣を歩くジント・オージャイトが王城の庭園について滔々と説明しだしたから、でもあるのだろう。
「ちなみに、けさ我々が通った東門からの道順では庭は見えない。職員の通用口だからな。そのほうが近道だ。なにしろ中央庭園は、すぐそこに正面口が見えているのにくねくねと複雑に道が折れ曲がっていて、別に通用口を設けてあるのはそれが間接的な原因と―――」
例によって、淡々とした抑揚のない口調である。
座って聞いていたら、速攻で机に突っ伏して寝ていたに違いない。別の事でも考えないとやっていられないのだ。
真面目に聞いているつもりなのに、なぜか始まって十分もすれば意識が無くなった、そんなとある大学教授の講義に似てるなあ……と思ったのがまたいけなかったかもしれない。
「―――中央庭園が今の原型に落ち着いたのは第三十七代国王ユガの頃で、当時は侵入者を防ぐ目的で作られた。当時全盛を誇っていたイルメナ帝国が侵攻してきた時期だからな。ここが庭として整えられたのは第三十五代国王ヘンリオの時代。凝った罠は見栄えのする草木に、石や木で仕切られた迷路は憩いの場の散策路にと変貌を遂げたわけだが、中でも秀逸なのは―――」
「……ジンちゃんさあ。なんでそんな庭に詳しいの」
やる気のない学生面のジェイル・ルーカが、まさしく木乃香が思っていた事をうんざりした口調で呟いた。
生真面目な講師面のジントがくるりと振り返る。
「もちろん、調べたに決まっているだろう」
「……いや、そうなんだろうけども」
ジント・オージャイトの研究対象は“流れ者”とその魔法。
自らの研究に猪突猛進の彼が、庭の構造やら植生やらを学ぶ暇はなさそうなのだが。
「ひとつの研究テーマに対する理解を深めようとするとき、その分野ばかりではなく関係する知識を広く身に着けることも重要だ」
「……つまり、自分の研究過程で調べる機会があったと」
「そういうことだ」
うむ、とうなずくジント・オージャイト。
そして再び前を向いた。安定の無表情ながら、なんとなく浮ついた様子で。
「なにしろサラナス・メイガリスの著書『“虚空の魔法使い”とその創造物』によれば、ヘンリオ・ディルガーノ・フローライドが庭を整えるきっかけとなったのは、彼が戦利品として隣国アスネから得た“さくら”の木だと言われている。諸説あるがこれがもっとも有力な説だとわたしは思う」
「禁書だからそれ。頼むからそんな大声で堂々と言わないでよね」
呆れるジェイル・ルーカの側で、木乃香がぴくりと顔をあげる。
……さくら?
「ジントさん、さくらって言いませんでした?」
「言った」
「……桜、があるんですか?」
ジントはぴたりと足を止めた。
驚く彼女を見下ろし、ゆるりと目を細める。
「“虚空の魔法使い”ヨーダが作った大木だ。そうか、彼が向こうの世界にあるものを模倣したのならミアゼ・オーカも見知っているかもしれないな」
「木を、作ったんですか……」
「もうすぐそこだ。ほら、見えている」
ほら、と彼が指さした木々の間に、ピンク色の小山……いや、花をつけた大木があった。
比較的に背の高い緑の木々が並ぶ、散歩道を抜けた先。
ぽっかりと開けた緑の芝生のど真ん中に、“さくら”があった。
大きさだけなら、樹齢何百年と言われても違和感がない。天然記念物にでも指定されていそうな、思わず口を開けて見上げてしまうほどの巨木である。
夜店で買ったピンク色の綿あめを何百倍に大きくしたら、ちょうどこんな風になるだろう。枝が折れないかと心配になるほどの勢いで、小さな花がもったりと木を覆っていた。
花の形や枝ぶりは、ソメイヨシノに似ている。
しかし花の色は、少し濃い色だ。咲き始めか、あるいはカワヅザクラやヤエザクラの種類に見られるような。まさしく―――。
「“さくら”色……」
なぜか疲れたようにジェイル・ルーカが呟いた。
木乃香も呆然と頷く。
そう。いかにも桜と分かりやすいピンク色。
風もないのにちらちらと花びらが舞うところを見れば満開も過ぎた頃だと思うのに、花の勢いは変わらず、合間から若葉がのぞく気配もない。
いわゆる漫画やアニメに描かれそうな、ある意味とっても一般的でとっても幻想的な“さくら”が、そこにあった。
「今日も元気に咲いているな」
驚いて、あるいは呆気に取られて眺める木乃香にたぶん気付いてはいない。
大木からちっとも目を離さず、ジント・オージャイトが満足げに呟いた。
「この“さくら”こそ、魔法を研究する者たちにとっての最大の謎だ。この大きさ、この造形の細やかさ、鮮やかさ。術者当人がいないというのに、変わらず作動し続ける仕組み。いったいどんな魔法陣を組み上げたというのか。いや、そもそも召喚術なのか造形術なのか、あるいはまったく別種の魔法なのか……」
独り言なのか聞いてもらいたいのか。微妙な声量でジントはぶつぶつ言っている。
こうなるともう誰が何を言ってもしばらくはこのままである。思考と妄想の彼方から彼が戻ってくるのは、思い切り頭を殴って無理やり中断させるか、本人の気が済むのを待つかくらいしか方法がない。
面倒くさいので、緊急事態でもない限り放っておかれるのが常であった。
慣れている木乃香とジェイル・ルーカもそんな対応をとることにした。
構わずジェイルが説明を引き継ぐ。
「……ええと、その当時の王様がね。このさくらは皆で愛でるものだ、とかなんとか言って、自分の庭じゃなくて誰でも入れるこっちの庭に植えたらしいよ」
「へえ」
「まあ、いくら貴重だっていってもこんな大きなモノ、簡単に盗めないだろうしね。ジンちゃんみたいな奴でも好きなだけ見て調べていいわけだから、盗んでく意味もないし」
国民思いのいい王様、だったのだろうか。
なんとなくそんな感想を抱いた直後。
「なんでも、傍で飲み食いして大勢で騒ぐのがさくらに対する礼儀なんだって?」
「……はい?」
雲行きが怪しくなってきた。
礼儀?
「いや、何かの儀式? だったかな」
「はあ?」
「そう! その“さくら”における“花見”とヨーダの魔法との関連性を最初に説いた者こそサラナスで―――」
「はいはい。大声出すなって言ったでしょうが」
ジェイルがぺしっと頭をはたいた。
ちなみに、これくらいではジント・オージャイトは正気に戻らない。
それでも興味のある話題だけは耳に入ってくるらしく、こんな風にたまに反応してくるあたりが妙に器用で、はた迷惑なのだ。
それにしても礼儀とか儀式とか、いったい何の話だろうか。
木乃香も桜を見ながら飲み食いくらいはしたことがある。が、あれは自分たちが楽しむものであって、そんな怪しげなものではなかったはずだ。
むしろ礼儀どころか、程度によっては木にもご近所にも迷惑になるのではないだろうか。
この“さくら”がそうなのか。あるいはヨーダ――高道陽多氏が適当な事を言ったのか、はたまた献上したというアスネ国か後世の人々が曲解したのか。
真相は分からない。
「まあともかく。その“花見”の会がね」
ジェイルが続けた。
「毎週末……今は月イチになったんだったかな? 花の下でお茶とお菓子がふるまわれる。城下の子供たちが楽しみにしてるよ。夜には、少ないけどけっこういい酒と肴が出るし。木の周辺が大きく開けているのは椅子とかテーブルとか敷物とか広げるためで。中央庭園の夜間開放はこの期間だけだから、実は夜のデートスポットとしても有名で――」
「ちょっと、待ってください」
木乃香は、いちおういろいろと突っ込まないように、余計なことを言わないようにしようと心がけてはいる。
隣の熱心な“流れ者”研究者による「なぜ」「どうして」攻撃が果てしなく面倒くさいからだ。
が、どうしても引っかかるものは引っかかる。
「月イチって、もしかして毎月花が咲いてるんですか?」
「え。毎日こんな感じで咲いてるよ」
当たり前のように――いや、当たり前なのだろう――ジェイルが言った。
なんとこの花、ずっと満開状態らしい。
「葉っぱとか、実とか……」
「無いんじゃない」
近寄って眺めてみれば、花びらが散ったその後からまた新しい花びらが、瞬く間ににょっきり生えてくるのがわかった。
遠目には非常に煌びやかで華やかなのだが。
……残念ながら、情緒と常識が足りていない気がする。
「なに、さくらとは本来、葉や実をつける植物なのか!」
「……こういう植物って、この世界でほかにあるんですか?」
「毎日花が、ってこと?」
驚き声を上げるジント・オージャイトには答えず……答える気にもなれず、木乃香はジェイルに聞いた。
彼もジントを無視して答える。
「うーん、おれは知らないなあ。魔法でわざわざこんなもの作る酔狂な人も……あー、今だったらうちの王様くらいじゃないかな」
何をどうやったらこんな木ができるのか。
その作り方など木乃香にはサッパリだが、純粋に「すごいなあ」とは思う。
実用性も、そして攻撃性もないモノを作ることは「酔狂」だとジェイル・ルーカは言った。
しかし一方でジントのように――少々病的かもしれないが――“虚空の魔法使い”に心酔する者だっていて、大木を再現する魔法の技術もちゃんと評価されているようだ。
それは、どちらが良い悪いという話ではない。
がっくり、と木乃香は肩を落とした。
「え、あれ、オーカちゃん?」
ジェイル・ルーカが慌てて駆け寄る。
さらに大きく大きく吐いたため息を聞きつけたのか、珍しくジント・オージャイトも自分の世界から戻って来た。
「大丈夫か。魔法力がまだ回復していないんだったな」
「いえ、それは何とか大丈夫です」
倒れたりしませんよ。
そんな彼女の言葉と、「きゅう」というか細い鳴き声が重なった。
見れば、ジント・オージャイトの視線がある場所では絶対に出てこようとしなかった薄ピンク色の小さな頭が、ひょっこりと懐からのぞいている。
「ぴぃ」
いつもその辺を飛び回っては楽しそうに囀る黄色い小鳥も左肩に止まったまま、彼女に寄り添って動かない。
「にあぁ」
すり、すりんとビロードのような毛並みの小さな体を何度も足に擦りつけてくるのは白い子猫で、小さく鳴いては主をひたすらに見上げていた。
大人しくしててね、とあらかじめ言いつけてあったせいもあるだろう。
しかし臆病な性格らしい五郎はともかく、日頃からけっこう自由気ままに動き回る三郎や四郎がこれだけぴったりと張り付いたまま離れないのは珍しい。
しかも、甘えられているというよりは、どうやらひたすら心配されているようだ。
ふ、と木乃香の口が綻ぶ。
「大丈夫ですよ。ちょっと気が抜けただけなので」
「いやしかし」
気が抜けたというか。
なんか、気にしていたもろもろがどうでも良くなったというか、馬鹿馬鹿しくなったというか。
さくらの木を見上げ、彼女はもう一度「はあ」とため息をついた。
この世界にはないという桜。
それを高道陽多氏が、どんな思いで作ったのかはわからない。
しかし今、彼女にとって重要なのは彼の心情ではなく。
“さくら”が王城の一角に植えられ大事にされていて、しかも一般の人々にも受け入れられている、その事実である。
―――この世界は、異質なものに対してこんなにも優しく寛容だ。
そもそも“流れ者”だとかそうでないとか、あまり拘りがないのだろう。
王様だって家柄ではなく魔法力の強弱で決まるお国柄である。
少なくともこの世界に迷い込んでから今まで、周囲の人々の木乃香への接し方は“普通”だった。
過去にはいろいろな“流れ者”がいたようだが、崇め奉られることも、逆に忌み嫌われることもなく、普通に生活できていた。世間知らずなぶん少々、いやかなり過保護に扱われていた気はするが。
例外といえば“流れ者”を研究対象とするジントら研究者たちだが、まあアレはアレで特殊な例だ。彼らに研究対象として追いかけ回されたせいで、いつの間にか“流れ者”である自分とこの世界の人々と、必要以上に線引きをしてしまっていた気がしないでもないが。
視界が開けた気分だった。
きれいに言えば、“さくら”に背中を押されたのだと思う。
乱暴に言えば、気が抜けてやけを起こしたのだ。
――後から思えば、魔が差したとしか言いようがない。
木乃香は、ちょっとした自身の拘りから解放されたふわふわした頭で、ふと思った。
思ってしまったのだ。
「就職の件、ちょっと前向きに考えてみようかな」
と――――。




